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令嬢メリアの不純な巡礼路  作者: 櫻まど花


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第三話

 シルヴェンヘイムも中心地を離れれば、周囲の空気は少しずつ和らいでいった。純血のエルフたちが支配する白い街とは違い、この辺りまで来れば獣人やドワーフ、混血の者など、多様な種族が入り混じって暮らしている。エルフたちの氷のような蔑みの視線から解放されただけでも、メリアにとっては随分と息がしやすい場所だった。

 さらに幸運なことに、道中でこの先の大きな街へと作物を運ぶ、初老の獣人の農民が駆る馬車に出会った。


「お嬢さん、高地語が読めるのかい? そいつは助かる。次の街の役人に提出する出荷の明細書、書面の数字がややこしくて困っていたんだ。代わりに読み書きをしてくれるなら、荷台の端にでも乗せていってあげるよ」


 まさか自らの育ちが馬車の無賃乗車に役立つとは思わなかったが、メリアは喜んで引き受けた。ジルはといえば、「へえ、お上品な教育もたまには役に立つもんだな」と荷台の特等席に寝転がり、干し草を枕にのんびりと空を眺めている。

 日中はそうして、ガタゴトと揺れる馬車に揺られながら順調に距離を稼いでいった。しかしある日の夕暮れ時、にわかに空が掻き曇り、世界は激しい嵐に包まれてしまった。叩きつけるような豪雨と吹き荒れる風に、馬たちも怯えて進むのを拒む。


「あーあ、こりゃひどいな。ま、ただの季節外れの小嵐だろ。一晩待てば通り過ぎる」


 ジルは顔にかかる雨を拭いながら呑気に言ったが、手綱を握る老人は、怯えたように首を振った。


「違う、ただの嵐じゃない。この嵐は、大昔に人間に住処を追われた精霊たちのすすり泣きだ。怒りと悲しみが深い夜は、こうしてすべてを押し流そうとする。これ以上進むのは命取りだ」


 ともかくこれ以上の移動は不可能だった。彼らは命からがら、街道沿いにぽつんと佇む一軒の宿へと逃げ込んだ。辺境の寂れた宿だったが、救いだったのは、そこを営んでいるのが温和な人間の一家だったことだ。


「はいはい、しっかりお上がり。やっぱり若い男ってのは、気持ちいいくらいよく食うねえ」


「そりゃそうだよ。こんな美味い煮込み出されたら誰だって腹減るって。俺、もう今日からここ実家だと思って生きてくからさ。ほら、可愛い息子だと思って鍋の底まで全部よそってよ」


 調子良くおかわりをせしめるジルを横目に、メリアも温かいスープをもらってようやく人心地がつく。

 だが、部屋の割り当てだけはどうにもならなかった。他に空き部屋はなく、メリアはやはり、ジルと同じ手狭な一室に押し込められることになった。


 夜が更けるにつれ、部屋の冷え込みは厳しさを増していった。ガタガタと激しく窓を叩く嵐の音が、まるで農民の言っていた精霊のすすり泣きのように不気味に響く。ベッドの上でメリアは粗末な毛布にきつくくるまり、そっと目を閉じた。

 部屋の床からは、ジルの静かな寝息が聞こえてくる。いつもならうるさいはずのいびきが、今日に限って静かなのは、彼なりに疲れているからだろうか。

 メリアは毛布の中で、胸元に下げた銀のロケットをそっと握りしめた。記憶に残る激しい雨の音。それは、今夜の嵐の音とよく似ていた。冷たい金属の感触は、不意に彼女の意識を、あの暗い過去の記憶の底へと引きずり込んでいく。


 重厚な大理石の床、高価な壁掛け、高くそびえる天井。帝国貴族の名門、アストラヴァール侯爵家の広大な回廊の真ん中で、幼いメリアは冷たい瞳に見下ろされていた。

 彼女の前に立ちはだかっているのは、絹の豪奢な上着をまとった異母兄、セラフィオンだ。その顔は目の前のメリアをただ忌まわしいものとして見るかのように、酷く歪んでいる。


「どけ。目障りだ」


 すれ違いざま、セラフィオンはわざとメリアの肩を激しく突き飛ばした。冷たい床に膝をついたメリアを見下ろし、彼はその薄い唇から、容赦のない毒を吐き出す。


「お前のような淫売の娘が、我が物顔でこの屋敷を歩くな。不愉快極まりない」


 アストラヴァール侯爵の愛人の娘。それがこの屋敷で彼女に課せられた、消えない烙印だった。だだがメリアは、床に手をついたまま必死に顔を上げた。赤毛を散らし、じっと兄を睨みつけ、果敢に言い返す。


「……私たちは、兄妹ですわ。セラフィオンお兄様」


「何だと?」


「私はお父様が認めた、アストラヴァール家の娘です。あなたの妹です。その血の繋がりだけは、変えられるはずもありません。互いにどんなに嫌い合っていようと……!」


 アストラヴァール家の娘であるという誇りだけが、この屋敷で彼女の心を支える唯一の盾だった。しかし、その精一杯の虚勢は火に油を注いでしまう。セラフィオンの瞳に激しい侮蔑の炎が灯る。彼はメリアの前に一歩踏み出し、その胸ぐらを掴み上げんばかりの勢いで怒鳴りつけた。


「黙れ、身の程知らずが! 血が繋がっているだと? 笑わせるな。髪の色も瞳の形も、父上とは似ても似つかない。アストラヴァール家の高貴な面影など微塵もないではないか。お前など、父上の実の娘であるはずがないだろう!」


「違います……! 誰が私のお父様であるかは、私が一番よく分かっています……!」


 その時、回廊の奥から、絹が擦れる冷ややかな音と共に、もう一つの足音が近づいてきた。


「ならば……」


 現れたのは、夜会服に身を包んだ気高くも冷酷な女──セラフィオンの実母であり、この侯爵家の正妻だった。彼女は扇子で口元を隠しながら、凍りつくような蔑みをメリアに投げかける。


「ならば、誰がお前の母親であるかも、よく分かっているはずでしょう? メリア」


 彼女の言葉に、セラフィオンが勝ち誇ったような笑みを浮かべる。メリアの身体は、恐怖で蛇に睨まれたように硬直した。


「あの下賤で、身持ちの悪い淫乱女がお前の母親よ。どこの馬の骨とも知れない男の種を腹に仕込んで、旦那様の温情にすがった薄汚い女の娘がお前よ」


 贅沢で行き詰まるような大邸宅の中で、メリアに与えられていたのは、日々繰り返される魂を削るような罵倒だけだった。使用人たちは皆、哀れみか嘲笑を浮かべて遠巻きに眺め、この広い屋敷のどこにもメリアの味方などいない。

 けれどメリアは、自分を虐げる正妻たちと同じくらい、両親を恨んでいた。こんな歪んだ居場所しか与えられないのに、自分をここに縛り付けた元凶。

 愛人を作った身勝手な父親を恨んだ。そして、愛人などという汚れた立場に身を落とした母親を、激しく恨んだ。

 メリアが物心つく前にこの世を去った母親。それさえも恨めしかった。死んでしまわなければ、自分がアストラヴァール家に引き取られることもなかったのに。


「そのアストラヴァール家の紋章が入ったロケットは、元はといえば旦那様が買い与えたもの。我が家の財産だわ。本来ならば私に返されるべきものよ。出しなさい」


 それは父がかつて愛人に贈った、侯爵家の紋章が刻まれた銀のロケット。母親が残した唯一の形見だった。正妻の手が伸びてくる。メリアは狂ったように、必死で抵抗した。小さな爪を立てて正妻の手を拒絶し、ロケットを胸に抱き込んで守り抜く。

 それは決して亡き母への恋しさからではない。ただこれ以上、奴らに自分の尊厳を奪われてなるものかという意地だった。メリアはいつも、その小さな銀の塊を握りしめながら、自分を取り巻く世界を呪っていた。


 だが、そんな傲慢なアストラヴァール侯爵家の血の誇りも、無残に砕け散る時が来る。次にメリアの目に飛び込んできたのは、あんなに憎らしかった兄セラフィオンの、冷たくなった最期の報せだった。

 嫡男として華々しく戦地へ赴いたはずの兄。しかし帝国が引き起こした激しい戦争の渦中で、彼はあっけなく命を落とした。あんなに自分を見下していた男が、異郷の泥にまみれ、名もなき兵卒たちと同じように無残に骸を晒したのだ。


 棺を前に、誇り高かった正妻は形振り構わず泣き崩れていた。そして父親はといえば、最愛の息子の死を悼むよりも先に、侯爵家の爵位が直系ではなく親族の元へと渡ってしまうことへの焦燥に駆られ、顔を血走らせている。

 メリアは心の底から笑いが込み上げてくるほどに嬉しかった。歪んだ歓喜の中で、彼女は幼い頃に叩き込まれた聖典の一節を思い出していた。


 ──神は土より人を作り、息を与え、死により再び御許へ呼び給うた。

 されど灰の谷に眠る者は、呼び声を聞くこと叶わず。

 彼らは河辺を彷徨い、渡し舟は遂にその岸へ寄らず。


 人が死ぬと魂は光の河を渡り、神の御許へ帰るという。残された者が遺体を弔い、祈りを捧げ、正しい灰葬を行うことで、魂は迷わずその河へ辿り着けるのだと。


 だが──ヴァル・シネレアに撒かれた灰だけは、決して河へ届かない。


 聖典によれば、太古、神に最も愛された都がその地にあったという。しかし都の民は永遠の命を欲した。彼らは死を拒み、魂を地上へ繋ぎ止めようとした。それは神への最大の反逆だった。怒れる神は都を滅ぼし、地を裂き、空から白い灰を降らせた。

 その時から、あの土地は魂が終焉という安らぎを迎えられない場所になった。


 兄が生前ずっと行きたがっていた場所へ、私がこの手で遺灰を納めに行かなければならない。なんて、建前にも程がある。


 メリアは、あの傲慢な兄の遺灰をヴァル・シネレアに撒いてやりたいのだ。神の御許へ行くことも、光の河を渡ることも許されず、あの忌まわしい灰の谷で、魂を永遠に彷徨わせてやりたい。それだけのために、彼女は危険を冒して旅をしている。


 兄さん思いの健気な妹な訳がない。これは自分を踏みにじり続けた奴らへの復讐劇なのだから。「淫売の落とし子」「お前などこの家には必要ない」脳裏に響く呪詛を塗りつぶすように、メリアは暗闇の中で嘲笑を浮かべ──。


「……っ!」


 彼女は、弾かれたように目を開けた。視界に飛び込んできたのは、見知らぬ宿の、煤けた木目の天井──ではなく、すぐ間近にあるジルの顔だった。

 彼はベッドに肘をつき、暗闇の中でじっとメリアの顔を見つめていた。驚きに目を見開いた瞬間、容赦なく右の頬をパチンと叩かれる。


「あ、起きた?」


「──っ! 何するのよ、痛いわ! どうして突然人の頬を叩くの!」


 メリアは跳ね起き、赤くなった頬を押さえながら声を荒らげた。心臓が夢の残骸と今の恐怖でバクバクと暴れている。ジルは叩いた手を振るいながら、面倒くさそうに肩をすくめた。


「いや、なんかうなされて寝苦しそうだったから。悪夢見るくらい寝心地悪いんなら俺にベッド譲れよ。床の方がよっぽど安眠できるぜ」


 彼はそう吐き捨てると、いつもの通り床へと戻り、脱ぎ捨てた上着の上にまたごろんと横になってしまった。服にシワが寄らないよう気にするあたりが実に彼らしく、メリアは憤慨したまま再びベッドに体を沈めた。

 外では相変わらず嵐が続いている。叩きつける雨の音が、眠ればまたあの暗い屋敷の夢を見る気がして、メリアの神経を鋭く削った。一度目が覚めてしまった今、もう眠りにつける気はしなかった。


「……ねえ」


 メリアは暗闇の中、床に転がっているジルの背中に向かって、消え入りそうな声で話しかけた。


「……何か言ってよ」


「はあ?」


「怖いから……私が眠るまで、何か、何かお話をして。お願い」


 ほとんど寝かけていたのだろう、ジルは物凄く面倒くさそうな、ぼんやりとした声を返してきた。


「……わがまますぎるだろ。俺はただの雇われ案内人であって、お嬢様の乳母じゃないんだわ」


「だって、一人じゃ怖いのよ! お願いだから……そばにきて」


 その瞬間、床の上で寝返りを打つ衣擦れの音がして、ジルの声から眠気が少しだけ引いた。


「……あのさあ、メリア。そんな無防備に男に誘い水かけるような真似すんなよ。俺、根はめちゃくちゃ不真面目な男なんだからさ」


 怒られた、と思った。自分の立場や、彼が男性であるという当然の事実を忘れた、世間知らずな発言だったかもしれない。けれどメリアはもう、あの夢に戻るのだけは絶対に嫌だった。

 彼女は思い切ってベッドから這い出ると、粗末な毛布をずるずると引きずりながら、ジルのいる床へと近づいた。そして、あきれ顔でこちらを見る彼の少し隣に、一緒になってゴロンと横に寝転がった。


「……はーあ。脅しがこれっぽっちも効いてねえや」


「ここがいいの。文句を言わないで」


 背中にあたる床は、驚くほど固くて冷たかった。侯爵家の令嬢として育てられた彼女が、こんな風に床の上で寝たことなんて、これまでの人生で一度だってない。

 けれど不思議と、一人きりで寝具にくるまっていた時よりも、ずっといいかも知れない、とメリアは思った。

 ほんの少し手を伸ばせば、ジルの体温や、彼が生きている気配が伝わってくる。あの屋敷の上等なベッドで、誰の味方もおらず、ただ世界を呪いながら一人きりで震えていた夜よりも。床の上で、このいびきがうるさい案内人と並んで横たわっている今の方が、メリアはずっと、落ち着くような心地がしていた。

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