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令嬢メリアの不純な巡礼路  作者: 櫻まど花


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第二話

「一部屋……? あなた、正気なの!?」


 シルヴェンヘイムの薄暗い宿屋の受付で、メリアの怒声が響き渡った。差し出された鍵はたったの一つ。宿代を極限までケチるつもり満々だったジルは、メリアの猛抗議などどこ吹く風で、軋む階段をトントンと気楽に上がっていく。


「ちょっと待ってよ。私とあなたが同じ部屋で夜を明かすなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないわ!」


「エルフが人間に部屋を貸すだけでどんだけふっかけてくると思ってんの。こちとらただでさえ予定外の出費なんだわ。これ以上、無駄な宿代に消える銀貨は一枚もねえの」


 部屋に入ると、そこにはお世辞にも立派とは言えないベッドが一つと、ガタつく丸椅子があるだけだった。

 メリアは部屋の隅で身構え、毛を逆立てた動物のようにジルを睨みつける。そんな彼女に、ジルは心底面倒くさそうに溜息を吐いた。


「俺だってフレアパルマの夜泣きに付き合う趣味とかねえし。ほら、あんたはそっちのベッドで大人しく寝れば。夜中に怯えて泣き出しても俺の毛布には入れてやらないから」


「だ、誰が泣くものですか……!」


 ジルはクローゼットから埃っぽい毛布を引っ張り出し、ばさばさと払ってそのまま床へ寝転がった。長い手足を丸めるようにして、早くも眠る体制に入っている。

 恐る恐るベッドの上に腰掛けたメリアは、腕を組んで彼を見下ろした。床に直に寝転がって眠る人間など、彼女は生まれて初めて見たのだ。

 いくらなんでも体が痛くなってしまうんじゃないかしら、と妙な心配が首をもたげさせる。じっと見つめているうちに、何だか寝覚めが悪いような気がしてきて、メリアはベッドから身を乗り出した。


「……ねえ。ちょっと、あなた……」


 小さな声で起こそうと、指先でジルの肩を突こうとした──が、その時、彼から「ぐぅ、……がー……、んがっ」ととんでもなく緊張感のないいびきが漏れた。それはまるで不機嫌な熊が吠えているかのような容赦のなさで、差し出したメリアの手は怒りでピキリと止まる。

 ……心配して損した。そもそも、この男がまともに二部屋頼んでいれば、こんな音に悩まされる必要もなかったのだ。


「……枕でも投げつけてやろうかしら!」


 メリアは本当に枕を掴みかけたが、もし万が一にも怒らせて「やっぱりベッドが恋しくなった、どけよ」などと言われたら、とその手を引っ込める。

 結局、彼女は悔し涙を滲ませながら、もう一度ベッドに潜り込むしかなかった。両耳を毛布でこれでもかと覆い、枕を頭に押し付ける。しかし、床から伝わってくる不愉快な音は防げない。


「絶対に……ヴァル・シネレアに着いたら、すぐに置き去りにしてやるんだから……」


 ろくでもない男への同情など、一瞬でも抱くだけ無駄だった。メリアは心の中で何度も男を罵倒しながら、眠れぬ夜の終わりをひたすら祈るのだった。


 翌朝、朝露の光が差し込む頃、メリアは重い瞼を開けた。覚めきらない頭のまま起き上がった彼女の目に飛び込んできたのは、壁に掛けられた磨かれた鉄製の鏡と、その前に陣取るジルの背中だった。

 メリアは後から鏡を使おうと静かに待っていたが、どれだけ時間が経っても退く気配がない。手元で身支度の準備を整えながら様子を伺っていても、ジルは鏡の中の自分に夢中なままだ。

 メリアの胸の奥でじわじわとイライラが込み上げてくる。しかも、昨日とほんの少しだけ髪の結び方を変えているのが、なおさら妙に鼻についた。


「……あなた、何をしているの? いつまでも鏡の前を独占しないでちょうだい」


「あ? 男だって身だしなみには気を遣うんだよ。連れがフレアパルマだからって気抜いてみっともない格好してたら、せっかくの男前が台無しだろ。ほら、今日の俺の髪、昨日よりちょっと決まってない?」


「……知るわけないでしょう、そんなこと!」


 メリアは押し出すようにしてジルをどかしたが、いざ鏡に向き合った途端、今度は彼女自身の溜め息が重くこぼれる。鏡に映っていたのは、アプリコットのような鮮やかな赤毛──だが、寝返りを打ったせいであちこちが絡まり合っていた。

 メリアはブラシを手に取り、毛先から梳かそうとしたが、途中で引っかかって痛みが走る。


「お、なんだそれ。鳥の巣でも作ってんの? ……うわ、力任せに引っ張るからすげー音してるよ。やば……ちぎれてるって。……手伝ってやろうか? 俺、手先は器用だからさ」


「いいえ、結構よ」


 親切心から差し出されたジルの手を、メリアは冷ややかに一蹴した。ジルは肩をすくめ、手持ち無沙汰そうにへらへらとした笑みを浮かべる。


「はいはい、おさわり禁止ね。……ったく、綺麗な髪してんのに、損な性格だわ」


 メリアは返事もせず、引っかかる部分をかばいながら慎重にブラシを通し直した。細く柔らかい毛質ゆえに、一度絡まると解くのが至難の業なのだ。この扱いづらい髪が、彼女は昔から心底嫌いだった。


 宿屋の一階にある食堂に下りると、そこは焦げたパンの香りと安いエールの匂いに満ちていた。メリアは昨日からの寝不足も手伝ってすこぶる機嫌が悪かった。昨夜の熊のそばに座るだけでも忌々しいというのに、目の前の男の食事風景は、彼女の常識をこれでもかとすり潰していく。


「……ちょっと、なぜパンをごしごしとお皿の底に擦りつけているの? スープが飛び散るからやめてよ。お行儀が悪すぎるわ」


「皿に残ったスープを吸わせるのがパンの役割だろ。最後まできれいに食えんだからこれでいいんだよ」


 ジルは眠たげな視線を向け、スープの滴るパンを平然と口に放り込んだ。そして木製カップに注がれた木の芽の茶のでそれを一気に流し込むと、ぷは、と品のない息を吐く。

 

「それよりさ、そっちのゆで卵、ナイフでちまちま細かく刻んで何してんの? 彫刻でも掘ってんのかよ。卵なんてのは、殻を剥いたらそのまま塩を振ってガブッといくもんだって」


「ひっ……! やめて、野蛮だわ! 卵は小さく切り分けてから、少しずつ口に運ぶものよ。そんな風に丸ごと口に入れるなんて、熊の餌付けじゃあるまいし……」


「はいはい、お上品だこと。そんな調子じゃ、この先三日でバテて歩けなくなるよ」


 ジルのからかうような薄笑いに、メリアは一生懸命に背筋を伸ばして彼を睨みつけた。しかしジルはすでにパンの最後の一切れを口に押し込み、席を立ち上がっている。


「ほら、行くよフレアパルマ。ここから先はあの尖った耳の連中の庭だ。へまやらかして生きたまま森の肥やしにされたくなきゃ、離れないで後ろついてきな」


 しかし一歩街へ繰り出すと、メリアは嫌でもこの男の背中を見つめ直さざるを得なくなった。

 シルヴェンヘイムの街並みは美しく、そして不気味なほどに静かだ。白い石造りの家々の間を、透き通るような肌のエルフたちが行き交っている。その誰もが人間の旅人に対して、氷のような蔑みの視線を隠そうともしなかった。


「……ねえ、みんながこちらを睨んでいるわ。どうして私たちが人間だというだけでここまで嫌うのかしら。一応ここだって、帝国の領土のはずでしょう?」


「あー……。俺たち人間にしてみりゃ百年前の帝国併合なんて歴史の話だけどさ、エルフって無駄に長生きだから。あいつらの感覚からすりゃ昨日の昼飯の時くらいの出来事らしいよ」


「昨日のお昼の出来事って……そんな例え話があるかしら」


「例えじゃなくて事実。昨日いきなり自分の家に押し入ってきた泥棒の身内が、目の前をのこのこ歩いてたらムカつくっしょ。そりゃあんな顔にもなるって」


 じっとりとした敵意の視線に、メリアはすっかり怯えてしまい、ジルの大きな背中の後ろに隠れるようにして歩いた。彼の服の裾を小さく掴み、必死に足元だけを見てついていく。

 そのせいで視界が狭くなっていた彼女は、曲がり角で体勢を崩し、うっかり道の脇に生い茂る見事な白い花の低木に倒れ込みそうになってしまった。


「触るな」


 ジルの鋭い声と同時に、大きな手がメリアの襟首を横からぐいと引っ掴んだ。危うく花びらに指先が触れる直前で、彼女の体は宙で止められる。


「な、何よ……急に引っ張るなんて乱暴だわ!」


「乱暴されたいのはどっちだよ。それは月見茨。エルフの信仰じゃ、乙女の魂が宿る神聖な植物らしい。人間が指一本でも触れてみな、あの衛兵どもに一瞬で捕まって、不敬罪で指を切り落とされるよ」


「ゆ、指を切り落とされる……!?」


 メリアは顔を真っ青にして、差し出しかけた両手を慌てて胸元へと引っ込めた。ジルの視線を追うようにそっと前を見やると、確かに遠くから、数人のエルフの衛兵がこちらを鋭い目で見張っていた。

 彼は胸元で小さく奇妙な手印を組み、衛兵たちに向かって軽く会釈をする。それはエルフの古い挨拶の作法だった。衛兵たちは不愉快そうに視線を外したが、それ以上追及してくることはなかった。


「あいつらにとっちゃ人間の指なんてトカゲの尻尾以下。俺が止めなきゃあんたは巡礼どころか、その綺麗な両手をおねだりする物乞いになるところだったってわけ」


 ジルはエルフたちが嫌う影の落ちる路地を的確に避け、彼らが神聖視する中央の泉の前を通りかかる時は、事前にメリアに布を深く被らせて、人間の顔を極力見せないようにした。

 さらに、気難しそうな商人にも何食わぬ顔で近づいていったかと思えば、相手の放つ鋭い拒絶の視線などどこ吹く風で、ほんの数枚の銅貨で必要な食料を手際よく買い付けてみせる。


「おっと。そこの綺麗な旦那、ちょっと待ちな。この干し肉が銅貨五枚はいくらなんでも人間価格が過ぎるって。俺らが百年前にあんたらの領土をちょーっとお騒がせしたお詫びを引いても、銅貨三枚が妥当っしょ? ……なあ、そんなじっと見つめられたら勘違いしちゃうぜ。色気のない男に色目使うのはやめて、ほら、三枚で手を打ってよ」


 恐れ知らずに距離を詰め、妙な親しさに辟易させ、「この男とこれ以上喋るだけ時間の無駄だ」と思わせる。そうやって相手を呆れ返らせて手中に収め、手際よく目当ての品をせしめていくのだ。


 メリアは被せられた布の隙間から、その一連の見事な手腕をじっと見つめていた。

 下品で、しつこくて、思いやりの欠片もない男。けれどこの冷酷な世界の境界線において、彼は誰よりも生きる術を知っている。帝都の屋敷で、歴史書だけを読んでいた自分とは住む世界が違いすぎるのだ。

 あまりの鮮やかさに、メリアは彼を見つめて立ち尽くしてしまった。すると荷物を片手に抱えたジルが、その間の抜けた顔を見下ろして意地の悪い笑みを浮かべた。


「なんだよ、メリア。そんなに熱い目で見つめて。……もしかして、俺の頼れる背中に惚れちゃった?」


「……な、何でもないわ! ただあなたの歩幅が無駄に大きくて、ついていくのが大変なだけよ」


 メリアはぷいと顔を背け、足早に彼を追い越そうとした。

 ろくでもない男。それは間違いない。けれどあの白銀の山脈を越えるためには、この男の毒に甘んじるしかないのだと、メリアは苦い思いと共に認めざるを得なかった。

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