第一話
地平の果てに、天を突くような白銀の連峰が見える。遥か北のヴェルティス・ノルディカ山──あの頂の向こう側、帝国の威光も届かぬ果てまで、この足で辿り着けるのだろうか?
メリア・アストラヴァールは、土埃の混ざる検問所の風の中で、込み上げる焦燥を必死に抑えていた。小柄な体を精一杯に伸ばし、あどけなさが残る顔立ちを強ばらせて、目の前に立ち塞がる衛兵を見据える。
「……ですから、私は巡礼の旅の者です。この通行証にある通り、アストラヴァール家の……」
「巡礼、ねえ」
メリアが差し出した通行証を、衛兵は不機嫌そうに指先で摘み上げた。尖った耳のエルフの衛兵の冷淡な眼差しが、彼女を上から下まで品定めするように舐める。
「近頃、そう言って入り込む人間の女が多い。この先の街には兵営があるからな。兵士相手の商売のために、身分を偽って入り込もうとする不届きな輩が後を絶たんのだ。……お前もその口なのだろう?」
「なっ……! 違います、私は……!」
あまりの侮蔑に、メリアの白い頬がカッと赤く染まった。怒りで震える手を握りしめるが、衛兵はそれを無視して、彼女の背後に並ぶ貴族の馬車に視線を移す。
「この森の出入りは我らが預かっている。小娘を一人で通して厄介事になれば、私の職務に傷がつく。……失せろ。シルヴェンヘイムの聖なる地は、お前のような花売りが踏み荒らしていい場所ではない」
衛兵の視線は蔑みに満ち、背後の馬車列からは「早くしろ」「どうせ商売女だろう」という苛立ち混じりの野次が飛んだ。悔しさと焦りにメリアの瞳から涙がこぼれそうになったその時、彼女の背後から不意に大きな影が伸びた。
「おい、こんなところにいたのか。探したぞ、お前!」
突然、勢いよく肩を掴まれる。メリアが驚いて声を上げる間もなく、強い力が彼女を抱き寄せた。
「……えっ?」
振り向いたメリアは、思わず首を傾けて見上げることになった。上からすっぽり視界を塞ぐような妙な圧迫感のあるその男は、メリアの顔へひょいと距離を詰めて覗き込んできた。
「ったく。昨日の夜、俺がちょっと早めに寝ちまったくらいで飛び出すなんて。俺を困らせるのがそんなに楽しいか?」
覗き込まれた拍子に、額の真ん中で分けた前髪がこぼれ落ち、彼の鼻梁にかかる。男は指先でその髪を払うと、目尻の上がった猫のような目でへらりと笑った。
「……ちょっと、どなたですか!? 離して……っ」
「よしよし、まだ怒ってるんだな。旦那、すみませんね。うちのじゃじゃ馬が、しょうもない喧嘩で熱くなっちまって。……ほら、そんな顔して睨むなよ。今夜はちゃんと、お前の気が済むまでお勤めを果たしてやるからさ」
男は流れるような手つきで、チャリンと硬質な音を立てる小袋と擦り切れた通行証を差し出した。衛兵は小袋を手のひらで転がし、その重みを確かめると、忌々しそうに鼻を鳴らす。
「……ジラルド・オリオン、また貴様か。その女は本当に貴様の連れか?」
「なんだよ、疑り深いなあ。見ての通り、俺の手の焼ける嫁さんだよ」
「その女、本気で貴様を嫌がっているようだが?」
「だから言ったろ、絶賛お怒り中なんだって。ちょっと冷たくしたお詫びにさ、こいつの機嫌が直りそうな飾りだの香油だのを、この鞄いっぱいに買い込んで追いかけてきたんだよ。……それなのに見ろよ、この睨み付け方。こんな重い荷物と情熱を抱えて追いかけてきた俺の愛に免じて、そろそろ折れてくれよ」
ジラルドと呼ばれた男はメリアの腰をぐっと引き寄せ、馴れ馴れしく耳元に顔を寄せた。唇からこぼれる熱い吐息に、彼女は全身の毛が逆立つような不快感と、かつてない屈辱を覚える。
だが衛兵は男の露骨な物言いに、メリアの瞳に宿る嫌悪をただの夫婦喧嘩だと決めつけたのか、二人を冷たく一瞥して通行を許可する合図を送った。男の荷物をろくに調べることすらもしないまま、面倒そうに手で追い払う仕草をする。
「……小娘一人宥められん青二才の戯言につきあう暇はない。行け。次は身内の手綱をしっかり握っておくことだ」
「へいへい。肝に銘じとくよ」
男は片手で大きな旅鞄を軽々と担ぎ上げると、そのまま呆然とするメリアを引きずるようにして、検問所の門をくぐり抜けた。街に入り、衛兵の目が届かなくなった路地裏で、メリアはようやくその腕を振り払う。
「……離して! 助けていただいたことには感謝しますけれど、あんな言い方は不愉快だわ。気安く触れないでちょうだい!」
「おっと、待った待った」
男は前髪を手でかき上げ、鼻の頭にある無防備なそばかすをさらけ出した。耳から上の髪だけを後ろで結い上げたその独特な佇まいと、自分の男ぶりに自信でもあるような気取った態度。そして眼差しに漂う軽薄さが、メリアの警戒心をさらに跳ね上がらせる。
「感謝してくれんならもっと別の言い方があるだろ? そんなにツンツンしないでさ、頼りになる夫とこの先の宿屋で仲直りの続きをしない? あんな嘘を吐いた責任も取らなきゃいけない気がするんだよね」
言うなり、男は彼女の逃げ道を塞ぐように壁に手をついた。至近距離に迫る体温と、注がれる下心丸出しの視線に閉じ込められ、メリアは沸騰しそうな怒りで顔を真っ赤にする。
「信じられない、この無礼者! 先ほどのお礼は言うわ。でもそれ以上のことは望まないで。助けていただいた分、相応の額をお支払いすれば文句はないのでしょう?」
メリアは震える手で金貨を取り出すと、叩きつけるように男の胸元に押し付け、軽蔑を込めて彼を睨みつけた。
「さようなら。二度と私の前に現れないで」
今度こそ背を向け、泥を跳ね飛ばすような勢いで歩き出す。しかし背後から投げかけられた一言が、冷たい矢のように彼女の足を止めた。
「おい、そりゃないぜ。さっき俺がなんて言ったか忘れた? さっきの衛兵、俺の名前とあんたの身分をバッチリ控えてたよ」
メリアが振り返ると、彼は受け取った金貨を指先で弄びながら、説教を右から左へ受け流している時のようなどうでもよさに満ちた顔をしていた。
「今ここで別れて、あんたが一人でうろついてるのが見つかってみなよ。ここのエルフの奴らって人間嫌いが多いんだよな。さて、どうなるかな。ただの旦那から逃げ出した女として捕まるか、それとも……」
言葉の先を濁され、メリアの背筋は凍りつく。もし不法越境者として捕まればどんな恐ろしい目に遭うか想像もつかない。身分を明かせば帝都へ戻れるかもしれないが、エルフたちが人間の言葉を信じてくれる保証もなかった。
「……それじゃあ、どうしろと言うのよ」
「簡単なことだよ。ここら一帯を抜けるまで、俺の連れってことにしとけばいい。俺は地理に詳しいし、エルフのあしらい方も知ってる」
「冗談じゃないわ! あり得ない、あなたのような人と一緒に行動できるわけがないでしょう!」
メリアは胸の奥から湧き上がる怒りで叫んだ。体を震わせ、自分を騙した男を指差す。
「最初からこれが目的だったのね? 助けてくれたフリをして私を利用しようとしている……なんて卑劣な人攫い! どこかへ私を売り飛ばすつもりなのでしょう!?」
この男にとって、自分はすでに追い詰められた獲物なのだ。彼女は己の迂闊さを呪ったが、検問所を引き返すわけにもいかない。さりとてこの得体の知れない男に身を任せてどうなるというのか。
「……とにかく、私は屈しないわ! 帝国法では、国教の信徒の人身売買は極刑に処されるのよ。私をどうこうしようなんて考えたら、神様の罰が下りますから!」
震える指先で罵倒したかと思えば、急に最悪の想像に眉を下げて狼狽え、そしてまた負けじと言い返しだす。そんな彼女の忙しい表情の変化を、男は欠伸を噛み殺しながら眺めていた。
「おーおー、元気なフレアパルマだこと。そっくりだ。威嚇する時だけは立派だけど、結局は木の上に逃げ帰るっていう、あのアホ可愛い生き物に」
男はせせら笑い、目にかかった前髪を指先で鬱陶しそうに撥ね退けた。
「いいぜ、俺も趣味じゃない。そんな細っそい小枝みたいななりで、四六時中ピーチク喚き散らすようなのは。俺の目当ては、そうだな……」
男の視線が、値踏みするようにメリアを足元から上へとジロジロ眺めていく。そして彼女の胸元、服の隙間からのぞく銀のロケットに、ぴたりと動きを止めた。メリアは心臓が跳ねるのを感じ、咄嗟にロケットを両手で強く握り締める。
──ダメ。これだけは、絶対にダメ。兄の遺灰が入ったこれだけは、何があってもこの下劣な男に奪われるわけにはいかない。
しかし男は、彼女の警戒などどこ吹く風といった様子で、空気を読まずにロケットを指差した。
「それ。俺にくれるってんなら、シルヴェンヘイムを出るまでちゃんと守ってやるし、指一本触れないよ。……どう? タダより高いもんはないって言うだろ。対価がある方がお互い信用できるって」
彼は軽薄な瞳の奥で、その銀細工がただの装飾品ではないことを見抜いていた。職人の精緻な技、上質な銀の輝き……そして帝国貴族の紋章が入った一級品だ。
──これさえ手に入れば、各地の借金が全部チャラだ。万歳、俺の輝かしい自由!
彼は内心で勝利を確信するが、メリアにとってはとんでもない提案だった。
「……お断りするわ! これをあなたに渡すわけにはいきません!」
「えー、なんでだよ。どうせいつかは手放すか仕舞い込むだけのもんだろ? 出し惜しみすんなって」
「手放すだなんて、そんなに軽いものだと思わないで。これは私が、目的地まで絶対に持っていかなければならないものなの!」
「目的地? ああ、さっき衛兵に巡礼の旅とか言ってたな。それって近い? じゃあこうすればよくない? その目的地って場所に着いた瞬間に、俺にそのロケットを渡す。俺って天才?」
まくし立てる男の調子の良さに、メリアはすっかりペースを乱されていた。世間知らずな彼女は、この手のしつこくて押しが強い男へのあしらい方を知らない。断ろうと必死になるあまり、ついには話の流れで、胸の内に秘めていた目的を口にしてしまっていた。
「……この中には、兄の遺灰が入っているの! 戦争で亡くなった兄が、生前ずっと行きたがっていた場所へ、私がこの手で納めに行かなければならないの。ヴェルティス・ノルディカ山を超えた先のずっと遠くよ。だから、あなたに渡すなんて絶対にできないわ!」
「へえ、あの山をねえ……」
男はメリアが必死に守るロケットをもう一度見つめた。彼の脳内では目まぐるしく計算が弾き出されている。あの険しい山脈を越える案内を引き受けるのは骨だが、この上質な銀細工なら、そこまで連れて行ったとしても十分にお釣りが来る。そして彼は、名案を思いついたとばかりにポンと手を打った。
「じゃあさ、その兄さんの巡礼が終わったら、もうそのロケットはいらないってことだろ? 灰を納めちまえばただの銀の空箱じゃん」
「う……、それは、そうだけれど……」
「決まりだ。そこまで俺が連れてってやるよ。そんで案内代と護衛代として、用済みになったロケットを俺がもらう。うん、完璧な計画だ。しっかしまあ、兄さん思いの健気な妹だねえ」
「な、何を勝手に決めて……! 大体、あなたのような信用ならない人に、私の神聖な旅路を──」
「はいはい、神聖神聖。で、その兄さんの行きたがってた場所ってどこよ? 言ってみな、俺が近道を教えてやるから」
どこまでも自分の都合のいいように話を転がしていく男に、メリアは怒りと困惑で頭が痛くなってくる。しかしあまりの勢いに気圧され、彼女はついに最終目的地の名を告げてしまった。
「……ヴァル・シネレアよ」
「ヴァル・シネレア?」
その名を聞いた瞬間、男は初めてへらへらとした笑みを消した。ヴァル・シネレア? 嘘だろ、だってそこは──。彼の脳裏をいくつかの不穏な噂がよぎったが、すぐに小さく首を振って思考を打ち切った。
まあ、なんでもいいか。目的地がどこであろうと、無事にそこへ辿り着いて、あのロケットさえ手に入れば俺の勝ちだ。
「ふうん。兄さん、ちょっと変わった趣味の人だったんだね。……あ、そういや名前聞いてなかったわ。なんていうの?」
「……。……メリア。でも……」
「そっか、メリアね」
「でも、気安く呼んだりしないで!」
「はいはい。わかったよ、メリア。俺のことはジルって呼んで」
またしても真っ赤になって怒るメリアを綺麗に無視して、ジルは「ほら、行こ」とひらひら手を振りながらさっさと歩き出した。
その背中を見つめながら、目の前が暗くなるほどの不安がメリアを襲う。前途多難なんて言葉では生ぬるい。おそらく、いや間違いなく、ろくでもない旅になる。
それでも検問所を抜けてしまったメリアには、もうこの男についていく以外の選択肢は残されていなかった。
重い足取りでジルの後ろ姿を追いながら、メリアは胸元のロケットにそっと触れた。こんな最悪な男に捕まってしまったのは、自分の世間知らずのせいだけではないのかもしれない。
私が巡礼とは名ばかりの不純で黒い動機を抱えているから──だからこそ、神様にも早々に見放されてしまったのだろうか?




