第77話 Visitor of pink hair
鳴鳥とジルベルトが二人きりで出掛け、作戦の成功を祝いつつも二人が戻ってくるのを楽しみにしていたアルヴァルディの面々。けれども訪れたのは今最も鳴鳥達に近づけさせてはいけない人物で、皆はどう応対するか迷った挙句、アランに全てを任せた。
「お久しぶりです、アリーチェさん」
「ええ、久しぶりね」
「体調を崩されていたと耳にしましたが、お元気そうで何よりです」
「…アタシの事はどうでもいいわ。それよりもジルは何処?」
「生憎ですが、船長は外出中でして」
「…そう。だったら中で待たせて貰うわ」
「え?」
「何よ。待っていちゃ悪い訳?」
「いえ、そう言う訳では。ただ、戻りがいつになるのか聞いていませんので…」
「明日には招集が掛かっているのよ。今日中に戻らない訳は無いでしょう?」
「そう…ですね。分かりました。今、ロックを解除しますので―――」
やんわりと断りを入れたつもりだが、やはりアリーチェはアリーチェらしく、アランですら押されて上手く言いくるめられてしまった。
コンラードはどうしたものかと焦り、彼に余計な事を言うなとマリアンは口を酸っぱくして注意し、スティングはなる様にしかなるまいと覚悟を決め、久城とアランは取り敢えずの対応を急いで決めようとする。
第77話 Visitor of pink hair
「アリーチェさんはジルベルトさんの事を慕っている方なんですよね」
「アレは慕っているってレベルじゃないっスよ。ナトリさんとの事を知ったら修羅場は間違いなしっス!」
「ともかく、二人の関係については伏せておきましょう。船長は本部に呼び出されたとして、ナトリさんは買い物に出かけている。…という事でお願いします。それと、船長には僕の方から連絡を入れておきます」
皆が真剣な面持ちでアランの言葉に頷く。マリアンの命令でコンラードは自室に籠るように言われて一目散に立ち去り、アランはジルベルトに連絡を入れる為にブリッジへと向かう。残った皆は動揺を抑えるようそれぞれ深呼吸をしたり、飲み物を口にしたりしていた。程なくしてラウンジの扉が開かれてアリーチェが現れるが、この場に居るのは寡黙なスティングと嘘を吐いても顔に出ないマリアンと久城で取り敢えずは安心である。
「お久しぶりね、小娘」
「ええそうね、オカマさん。それよりも、さっき通路で犬っコロとすれ違った時に妙な挙動をしていたのだけれど、アレは何かしら」
「あら!おほほ…。あの子が変なのは何時もの事じゃない」
「まぁ…それもそうね」
マリアンの誤魔化しで納得がいったのか、そもそもさしてコンラードへの興味が無いのか。アリーチェは納得したようでラウンジのひと席に着いて肘をついた手に顎を乗せ、取り出した小型通信機を操作していた。内心ホッと息を吐いたマリアンは後でコンラードを締め上げる事を決めていたが、直ぐにお茶を淹れるわと言い、そそくさとその場を後にする。
残されたのはスティングと久城で、彼らは自分から会話を振る訳がない。居心地の悪い沈黙に耐えかねたのか、スティングはコーヒーを飲みほしてブリッジへと向かった。
一人残された久城は自分も自室に戻るべきかと思い立ち上がろうとするが、意外な事にアリーチェの方から彼に声を掛け、この場に引き留めさせた。
「ねぇ、アナタ」
「…えっと、なんでしょうか?」
「アナタがナトリの言っていたクジョーって人なの?」
「あ、はい。そう言えば、こうして顔を合わせるのは初めてでしたね。僕はクランド・クジョウと申します。以後お見知りおきを」
「アタシはアリーチェ・バルニエール…よ。それにしても良かったわね」
「え…?話が掴めないのですが、何が良かったのですか?」
「アナタ、あの子…ナトリの事はどう思っているの?」
「は…?」
掴み所のない話に次いでいきなりの問いかけに流石の久城でも淀みなく答えるのは不可能であった。しかもアリーチェの問いは鳴鳥に関するもので、今最も話題として避けるべき者の事で、それ以前に久城としては未だ想い続けている相手であって、そう簡単には応えられない。大事な幼馴染だとか、何時もの彼なら誤魔化せただろうが、状況が状況だけに口をつぐんでしまい、そうこうしている内にその沈黙をアリーチェは余計な勘繰りを入れて理解してしまったようだ。
「やっぱり、そうなのね。あの子が報われたのなら良かったわ」
「は、はぁ…」
「あの子、自分からは言ったりしないでしょうから、アンタから頑張りなさいよ」
「え…。それはその…」
「まぁ、あまり他人の恋路に口出しするのは良くないわね」
最後にアリーチェは「羨ましいわ」と小声で呟き、再び視線を下に、手元の小型端末に落とした。
余計ややこしいことになったのでは、今ならまだ訂正が間に合うと分かっていても、下手に話せばジルベルトとの関係を口にし兼ねない。それを恐れた久城は再び口をつぐんでいたが、微かに震え、手元のコーヒーが注がれたマグカップには僅かに波紋が広がっていた。
「ねぇ。ジルの部屋で待ちたいのだけれど」
マリアンが淹れた紅茶を飲み干したアリーチェはそう言いだすが、マリアンは困ったように肩を竦めさせた。いくら見知った相手だとしても、個室に勝手に通すのは如何なものかとやんわり説明するが、アリーチェは聞く耳を持たない。どうせ話は二人きりでするのだから待っていても良いじゃないかと言い張り、マリアンを困らせる。見かねた久城がマリアンを援護するよう、アリーチェを宥めるよう声を掛けるが、一度決めた事は貫き通す彼女がそう簡単に意見を曲げる筈がない。それこそジルベルトでも居ればすぐに彼の言う事を聞くだろうが、そもそも彼が居さえすればマリアン達が頭を痛める事態には陥っていなかった。
「もういいわ!あのメガネハッカーに頼むから」
「あ、ちょっと!待ちなさいよ、小娘っ!」
マリアンの静止の呼びかけは届くことはなく、アリーチェはスタスタとブリッジに向かって行った。盛大な溜息を吐いていた彼だが、アランはジルベルトに連絡をすると言っていたのを思い起こし、慌てて後を追おうとするが、久城はその必要は無いと言う。彼は素早くアランへと小型通信機でメッセージを送り、その返信は既に連絡が済んだとの事であった。そしてアリーチェの事も任せて欲しいとあるが、部屋に通すのは致し方ないかもしれないと追記されていた。
「古典的なネタだけど、知らない女のイヤリングが…って言うのは無いでしょうね」
「鳴鳥に限ってそれは無いでしょうが…」
「あぁもう!どうしてこんな事になっちゃったのかしら。いっその事全部話して私達に怒りの矛先を向けさせてしまおうかしら」
「それは…。鳴鳥の為になら構いませんが、それで収まるとは思えませんね」
「そうよねぇ…。ARKHEDで暴走なんて事が無ければいいのだけれど…」
「そうですね。だけど、それにしても―――」
久城には先程のアリーチェの言葉と表情が引っ掛かっていた。勘違いとはいえ鳴鳥と久城を羨ましいと言い、悲しげな瞳をしていた彼女。これまで話に聞く天真爛漫さは無く、今の彼女は何処か儚げで、今にも崩れ落ちそうなほどに脆い印象を受けた。
アルヴァルディで起きている事を知らない二人。ジルベルトと鳴鳥は釣り道具などの荷物を一旦車に収め、身軽になった所で森林公園を巡る。
穏やかな午後を過ごしていた二人だが、歩き出して直ぐにジルベルトの小型通信機に連絡が入り、水を差されてしまった。相手はアルヴァルディに居るアランからで今朝方の事を思い出したジルベルトは眉間に皺を寄せて応答する。
「―――と言う訳でして」
「…そうか、分かった」
文句の一つでも言うのかと思われたが、ジルベルトの表情は硬く、何やらアルヴァルディで起きたのだと窺わせる。けれども少し離れた場所で待っていた鳴鳥の元に戻ってきた彼は大したことではないと言い、気にせず散歩の続きをしようと歩き出した。鳴鳥としては気になる所であるが、ジルベルトが言うのならばと納得し、彼の隣に並んで歩く。
水面から顔をのぞかせる花々が美しい湿地帯には景観に合わせて木道があり、歩きながら手の加えられていない自然を眺めることが出来る。その先には白樺の森が広がり、木々の間から降り注ぐ光が小道を照らし、葉は風にそよいで心地よい音を奏でている。更にその先には花畑があり、薔薇のような派手さは無いが、可愛らしく生命力に溢れた野草の花畑が広がっていた。
新しく出会う花があるたびに歩みを止める鳴鳥。彼女は小さくても懸命に咲く姿に顔を綻ばせ、共に歩くジルベルトへも満面の笑みを向けてくる。美しい景色の中で共に居られる幸福感を噛みしめていた二人だが、花畑を進むうちにある事に気が付き、鳴鳥は頬を赤くしだした。これまですれ違うのは家族連れが多く、仲の良さそうな姿を微笑ましく思っていたのだが、花畑には男女の組み合わせが多く、皆、親密そうに体を寄せ合っている。鳴鳥もジルベルトと手は繋いでいるが、周りの恋人達に比べればどうにも浮いているような気がしてならない。恥じらいつつも不安そうに横目で様子を窺うと、ジルベルトは辟易としたようで、やはり彼は公衆の面前でイチャつくのは苦手らしい。それでもつないだ手は離さない事から彼の想いは伝わるが、傍から見ると自分達はどう映っているのだろうかと鳴鳥は不安を過らせる。もっと背が高ければ、もっと体つきが大人っぽければと思いもするが、こればっかりはどうしようもない。鳴鳥が自分の身体つきにコンプレックスを抱いている一方、ジルベルトも内心自分が彼女の隣に居ても良いのかと気に掛けていた。まだ若いつもりではあるが、やはり歳は離れていて、身だしなみも整えられてはいない。今日の鳴鳥は特に可愛らしく着飾っていて、ますます自分が傍に居る事を申し訳なく感じていた。
「少し、落ち着いた場所に行くか?」
「は、はい…!そうですね」
花畑を過ぎた先にはだだっ広い草原が広がり、所々に大きな樹が生えていて、遠くには隆々とした山が見える。木登りが出来そうなくらい太い幹の大樹の元へと二人は歩き、木陰で腰を下ろした。ここには人気も少なく、二人きりで過ごすにはちょうど良く、足を休めると共に茶を飲み、一息を吐いた。
朝から釣りを楽しみ、美味しい昼食をとり、雄大な自然を眺めて歩き、落ち着いた所でジルベルトはレジャーシートの上に横になる。そして鳴鳥にも横になるようにと言い、伸ばした自分の腕に彼女の頭を乗せさせた。
「えと…重くは無いですか?」
「ああ、問題ない」
こうして向かい合うのはまだ少し恥ずかしいのか、鳴鳥の頬には赤みが差していて何処に視線を定めればよいのか戸惑っているようだ。その姿は愛らしく今すぐにでも胸元に収めたいという衝動に駆られるジルベルトだが、空いている手で髪を梳くだけに留めておく。
木々の間から差し込む光。さわさわと葉が風に揺れる音も心地よく、穏やかな時間は微睡むのに十分であり、瞼は重くなりかけた。
まだ二人は互いに遠慮があるようで、踏み込めない場所もあって、それでもこうして傍に居られるだけで心は満たされている。焦る必要は無いのだという気持ちもあり、それは互いを信じられるからであって、いつかはきっとと願うのであった。
「(今はまだ…。だけど、いずれはあいつの話をしなくてはな…)」
それは20年も前の事で、ジルベルトがまだ大人になる前の話。思い出さないように、記憶の底に封じ込めた者の姿がふと過るが、今はまだ話すべきではないだろうと決め込む。決して己が犯した過ちから目を逸らしていた訳ではない。ただ、できれば今こうして傍に居る者に余計な心配は掛けたくないと、もう終わった事をわざわざ蒸し返す必要は無いのだと理由づけ、言葉にはしなかった。
「(ジルベルトさんは何を願ってARKHEDの力を得たのかな…)」
鳴鳥が知らないジルベルトの過去。彼は昔、釣りをよくしていたと言ったが、鳴鳥が知っているのは今の軍人である彼で、特務部に属している事と、その前は軍学校に通っていた事、そしてその前は彼がARKHEDを得て暴走し、星を一つ消滅させて連合軍に捕らわれた事と、更に前のARKSのレーサーだった頃までで、彼の言う釣りをよくしていた時期というのは分からない。けれども彼が懐かしむようであって触れられて欲しくなさそうだった様子から、レーサーになる前の事、ARKHEDの力を得る前の話だという事がなんとなく想像できる。
深く知りたい。どんなことでもすべてを曝け出して欲しい思う一方で、辛いのならば無理はしないでとも思う。鳴鳥が抱いた疑問はそっと胸の中にしまい込み、今はこの腕に身を委ねる事にしておいた。
「…眠いのなら寝てもいいんだぞ」
「ん…だいじょうぶですよ?」
「そんなに眠たそうな面をして言われてもなぁ」
「でも…。せっかくのお出掛けを…眠ったら勿体ないです…」
「また来ればいい。…ま、俺も眠くなってきたから先に一眠りさせて貰うぞ」
「え…?ジ、ジルベルトさん?」
欠伸をしたジルベルトは目を閉じ静かに寝息を立てる。このような状況でと鳴鳥は戸惑うが、そこである事を思い出し不審がった視線を彼へと向けた。眠たいと言ったジルベルトだが、彼は眠る事を必要としない体で、眠る時には薬を飲んでいる。ARKHEDを駆使し、精神的疲労がたまった時にも眠りにつく事は出来るが、今はそのような状況ではない。狸寝入りをするのはどうしてか。自分の事を気遣ってくれているのだと分かった鳴鳥は嬉しくもあるが、目の前には無防備な姿を晒すジルベルトが居て、眠気よりもそちらに興味が湧いてしまい、恐る恐る手を伸ばす。
触れるのは何時もジルベルトからで、鳴鳥から触れる事は滅多に無い。二人きりになった時は彼のいいようにされてしまい、鳴鳥はされるがままであった。勿論、度が過ぎた行為は窘め、触れる以上の事は訳あって無かった。鳴鳥にとっては初めての恋人で、どう接してよいのか未だ分からなくて、ジルベルトがリードしてくれるのは嬉しくもあったが、自分から触れたいと思いもした。
躊躇いがちに伸ばされた指先はジルベルトの頬へ触れる。彼の頬は意外にも柔らかく、触り心地は悪くない。顎には短い髭が生えていて、チクチクとするが嫌な感じはしない。
無精髭を生やしていて、髪はボサボサで、顔は整っている方だというのに、いつも不機嫌そうな面で。鳴鳥と過ごす時は今の寝顔のように穏やかであるが、もう少し身だしなみを整えたら…と思いもするが、彼はこのままであってくれた方が良いという結論に至った。それは今でも感じている彼との釣り合いで、今以上に格好良くなってしまえばますます隣に居るのが躊躇われるからだ。
何時まで狸寝入りをするつもりか。未だジルベルトは寝息を立てていて、動き出す気配が無い。本当に寝てしまったのか、それとも自分が眠るまでこうしているつもりなのかと思う鳴鳥だが、躊躇いがちに触れていた手が急に掴まれ、ビクッと肩を震わせて驚く。
「…寝込みを襲うとは良い度胸だな」
「そ、そんなんじゃありません!そもそも寝てはいなかったじゃないですか」
「さぁ何の事だか。…でも俺としてはこういうのも大歓迎なんだがな」
「…え?」
「お前の方から触れてくるのは、嬉しく思う」
「そう…なのですか?」
「ああ、だから遠慮することは無いんだぞ」
何処に触れても構わない。触りたい時に触ればいいと言い、ジルベルトは口端を緩める。なんだかおかしな状況であるが、それならばと鳴鳥はおずおずと解放された手を伸ばし、触りたかった所へ触れる。そこは衣服の上からでも時折分かる程に逞しくて、指先には硬い感触があって。凄いと言いながらはしゃぐ鳴鳥の姿に呆けていたジルベルトはハッと我に返り、盛大な溜息を吐く。
「…腹なんか触って楽しいのか?」
「前々から気になっていたんです!腹筋、凄そうだなぁ…って」
「褒められているのだろうが、複雑な気分だ…」
「そうですか?私は凄いと思います…!」
「はぁ…」
何をそんなに興奮するほどの事かと理解に苦しむジルベルトだが、このどうにも腑抜けた空気を変えてしまおうと画策する。本来なら手を掴んでそのまま引き寄せてしまおうかと考えていたが、今はそんな雰囲気ではない。ならばとジルベルトはニヤッと笑みを浮かべ、腕枕をしていない空いた手を鳴鳥へと伸ばした。
「な…っ!今、何処を触ろうとしましたか!?」
「お前も俺の腹を触ったのだからおあいこだろう」
「だ、だからって前触れもなく…っ。それに…っ、お腹も駄目ですけど、今のはもっと上でしたよね!?」
「お前が身を捩るからズレただけだ」
「むむ!今のは明らかに…」
「で、お前は触り放題で、俺は駄目なのか?」
「それはその…。いい…ですけど…。駄目な所もありますからっ!」
「例えば何処だ?」
「そ、それは…」
火を噴く勢いで赤面する鳴鳥。その姿は可笑しく、ついついジルベルトは笑いを堪え切れずに噴き出してしまう。またからかわれたのだと気付いた鳴鳥は怒り心頭のようで、眉間に皺を寄せてねめつけ、頬を膨らましてジルベルトの頬を軽くつねる。手加減されているせいか、大して痛く無いジルベルトだが、彼は大げさに痛い痛いと言い、悪かったと平謝りする。そこまでするつもりは無かったと鳴鳥はパッと手を放して謝るが、ジルベルトの口端が上がっているのに気付き、疑うような眼差しで睨み付けた。
穏やかな午後はこうして過ぎて行き、近いようで遠くに感じる事もあったが、触れて、触れられて、その幸せを身に感じる事で抱いた不安や疑問は消えていった。
アランに詰め寄り、無理やりジルベルトの私室を開けさせたアリーチェ。彼女はその部屋で彼を待つことに決め、こうして訪れたのだが、久方ぶりに鼻孔をくすぐった彼の残り香に居た堪れない思いを感じていた。
これまで彼に逢った時は思いのままに抱き着き、この香りも当たり前のように感じていた。愛するが故の行動だったが、失っていた過去を思い起こした今ではもう二度と自分から抱き着きなど出来ない。
ソファーに座っていたアリーチェは力なく倒れ込んで横になる。どう話すべきか、ぎりぎりまで考えてアルヴァルディを訪れた彼女だが、いざこうして会えなかったとなるとホッと息を吐く。けれどもあと少しで彼は戻ってきて、その時は覚悟を決めなくてはならない。もう一度、どう話すべきかを自分の中で整理していたアリーチェは、ふとソファーに落ちていたある物に気づき、それを指先で摘まんでまじまじと見つめた。
「…髪の毛。この色、ジルのじゃ…無い」
それは栗皮茶色の髪の毛で、長さは割と長い。明らかにジルベルトの物ではないと分かり、この船に居る者でこの髪の色と長さであるのは一人だけで、そう思い至るとアリーチェの陰鬱とした気持ちは何処かへ行ってしまった。
これは何か、そう、偶然偶々であって、特に深い意味は無いのだと自分に言い聞かせるアリーチェだが、立ち上がった彼女はこの室内を見て回った。勝手に私室を探るなど、決して許された行動ではないが、先程見つけてしまった物を否定する為の根拠を欲する気持ちには抗えなかった。
ベッドには髪の毛は無い。ならばただ単に、何か相談事でもあって部屋を訪れただけなのだと考えに行き着くが、最低限の食器が仕舞われた戸棚にはティーカップがあって、それは可愛らしい小花が散りばめられたデザインで、いかにも女の子が好みそうなものであって、ジルベルトの趣味ではない事が分かる。食器の戸棚の別の段には紅茶の茶葉が入っている缶があり、中身はそこそこ減っていて、ジルベルトはコーヒー派なので来客がよく来ているのだとも窺わせる。
「まさか…ね…」
ただ単に、一緒に茶を飲んでいるだけなのだ。そう決め込みたかったが、小さな疑問は徐々に膨れ上がり、大きな疑念に変わる。
自分が傍に居る相手として選ばれないことはもう覚悟している。けれどもどうしても、その人物だけは傍に居るのを許すことが出来なかった。
「どうして…どうしてあの子なのよ…っ」
沸々と湧いた怒り。そして悲しみ。ここに来たのは何の為なのか。一呼吸置いて落ち着かせようとするが、心のざわめきが治まらない。この気持ちを抑えようと、疑念を晴らそうとアリーチェはジルベルトの部屋を後にし、そして彼の私室からさほど離れていないとある者の部屋の呼び出しボタンを押す。
「んー…なんっスか…―――って!?ア、アリーチェさん!?」
「さっきから何なのよ?その驚きようは…」
「い、いえ別に!何でも無いっス!」
そうは言うものの、モニター越しのコンラードの様子は先程すれ違った時と同様に挙動不審である。彼の態度がおかしいのも、ジルベルトの事を知っていての上でなら納得が行き、やはりただの疑念で済まなくなる。早く扉を開けるようにと凄むと、コンラードはブルブル震え上がり、青ざめた表情で扉のロックを解除した。
油の匂いが充満して、ごちゃごちゃとパーツが転がる室内。コンラードは何を恐れているのか、部屋の隅で小さな機械を弄っている。どうやら精神を落ち着かせるためのようなのだが、逆に手は震え、パーツを一つ壊してしまったようだ。
「ちょっと、こっちを向きなさいよ」
「え、えっと、自分に何か用っスか?」
「聞きたい事があるの」
「何スか…?」
「これを見て」
そう言って先程見つけた髪の毛をコンラードの目前に突き出す。それだけでは全く意図が伝わっていないようなので、この髪の毛が何処にあったかを言った。するとコンラードは青い顔をますます青ざめさせ、視線を泳がせ始める。髪の毛くらい落ちていても別段変ではなく、言い訳など幾らでもある。それでもコンラードは良い言い訳が思いつかなかったようであからさまな動揺を見せた。
やはり何か隠している。そう感付いたアリーチェは畳みかけるように紅茶の茶葉とティーカップの話をしてコンラードを追い詰める。今回ばかりは口を滑らすまいと誓っていた彼もアリーチェの前ではどうしようもなかったようだ。普段彼は口を滑らせてマリアンに鉄拳制裁をくらう事が多いのだが、ある程度手加減されている為、懲りずに同じ失敗を繰り返してきた。しかしこの日ばかりは自分の口の軽さを後悔し、この世のものとは思えない恐怖を味わう事になる―――。
二人きりになれる場所で微睡みかけた鳴鳥だが、なんだかんだと眠気は覚めてしまい、結局その後、取り留めもない話をしたり、また別の場所を見て回ったりと夕刻まで穏やかな時間を過ごした。
朝早くから弁当を用意し、釣りに散歩にと疲れは溜まっていたのだろう。帰りの車では流石に睡魔に抗えないようで、鳴鳥はコクンコクンと時折首を垂れて舟を漕いでいる。気にせず寝ても良いのだとジルベルトは言うが、起きていたいようで大丈夫だと言い張った。
暫くは今日あった事など話していたが、段々と口数は少なくなり、うつらうつらとする時間が長くなる。ふとジルベルトが横目で見ると鳴鳥は寝入ってしまったようで、スヤスヤと寝息を立てていた。
幸せそうに口元を緩ませて眠る鳴鳥。その姿は見ている者を和ませるようで、ジルベルトの口元も緩んでしまった。眠ったままの鳴鳥を乗せた車はアルヴァルディへと無事に戻るが、駐車スペースに車を停めても彼女は目を覚まさずにいる。起こしてしまうのが躊躇われるくらいに気持ちよさそうに寝ている鳴鳥。無防備な姿を前にジルベルトの中で湧き上がる気持ちは邪なもので、視線は彼女の唇へと注がれる。今なら誰も咎める者は居ない。理性のタガが外れ掛かり、身体は自然と吸い寄せられるように近づくが、寸でのところで己の過去の過ちを思い起こし、踏み止まる。乗り出した身体を運転手席に沈め、深い溜息を吐いて心を落ち着かせたジルベルトは、鳴鳥の肩を軽く揺すって眠りから覚まさせた。
「…着いたぞ」
「ん…。…はい―――って、え…っ!?いつの間に…、私寝ちゃって…」
「ああ、気持ちよさそうに寝ていたな」
「…っ!…ね、寝ている間に変な事をしませんでしたよね?」
「…俺は信用無いんだな」
「それは…。って、ジルベルトさん、どうして目を逸らすんですか?」
「…別に」
「や、やっぱり、何かしたんですね!」
「いや、未遂だ」
「未遂って、何をしようとしたんですか!?」
さっきまで穏やかな寝顔をしていた鳴鳥は何処へやら。何をしようとしていたのかとジルベルトを問い詰める姿は怒りのオーラを纏っている。と、言っても彼女の怒る姿は愛らしさの方が勝っていて、更には頬を赤く染めているので全く恐れるに足らない。結局ジルベルトが悪かったと謝れば、寝込みを襲うのは禁止ですと鳴鳥は言い、ならば起きている時ならばいいのかと冗談を言うが、真に受けた鳴鳥は更に頬を赤くさせて喚き出す。何とか宥めて車を降りたジルベルト。彼はそこである事を思い起こした。
「(そう言えば、アリーチェが来ている事を話し忘れたな)」
鳴鳥との事は自分から話せばいいかと楽観的に構えていた彼だが、その考えが甘かったのだと後に知る事となる。
車から降りた二人はトランクに仕舞っていた荷物を取り出そうとしていた。そこにツカツカと、足音がこちらに向かっているのに気付き、二人は顔をそちらに向ける。出迎えたのはアルヴァルディの面々ではなく、彼らはもっと後ろの方に居て、こちらに慌てて駆けているようであった。
二人の元へと歩み寄ってきたのはアリーチェで、何時もの洗礼、力一杯抱き着かれるのを警戒したジルベルトは身構えるが、彼女はスッと彼の横を通り過ぎ、鳴鳥の目の前で足を止めた。
「な…っ」
辺りには乾いた音が響き、その後ドサリと倒れる音が。倒れて膝をついたのは鳴鳥で、彼女は頬を押さえて茫然としており、彼女の頬を叩いたのはアリーチェで、彼女は恨みの籠った瞳で鳴鳥を見下ろし罵る。
「―――つき」
「…ア、アリーチェさん…?」
「嘘つき!!絶対に好きにならないって言っていたのに…っ!!」
ぼろぼろと涙を流しながらアリーチェは叫んだ。




