日常
帰宅してから、僕は千堂美月の悲しそうな背中を思い出していた。
部屋に置いてあるCDプレイヤーで音楽を流しながら、ベッドに寝転がり、天井を見上げる。何かを掴むために生きること。もしくは、明確な目的があって、それを掴むために生きること。生の中に意義を見出すこと。
バカバカしい。
そう思っていた。生きるというだけでも精一杯だし、毎日を繰り返すだけけでも相当な労力だ。そこに、何か他の意義を見出すなんて、疲れるだけではないか。だけど、美月の悲しそうな背中を見て、僕の中に不思議な感情が芽生えていた。
何かに打ち込むことの悲壮感。
悲壮感なんてものはマイナスの感情だし、そんなものを纏っているのは良いことであるはずがないのだけど、人生という積み重ねていくだけの日々の中で、そこまで感情を揺さぶられることがあるのか? ということを考えた。
僕にも、そういう感情があるのだろうか。今までは、そうした感情と向き合おうとしてこなかっただけではないのか。美月の言葉、美月の表情。それよりも、僕は美月の背中から、そうした人生の重みであるとか、それに付加された甘みの様なものを感じた。
目を閉じる。
プレイヤーから流れ出る音楽が、少し遠のいていく。体に染みわたるように音楽が馴染んでいき、段々と溶けだしていく。
そこで、僕の意識は途絶えた。
夜が明けて、目を覚ます。
ベッドから這い出して、洗面所で顔を洗い、歯を磨き、リビングで朝食を済ませる。
部屋に戻り、制服に着替え、家を出て学校へ向かう。
当たり前だな。と思った。
今までとは、違う朝だった。当たり前であることに疑問を感じたことなんて今までなかったし、当たり前な生き方こそ、人間の理想の生活だと思っていた。だが、今朝は明らかに違った。これは、千堂美月の影響なのだろうか。なんと単純な男なのだろうか、僕は。自分が情けなくなる。
だけど、少し心地よいとも感じている自分がいた。達観した気になって眺めていた景色や、感じていた空気が、違って見えたからだ。そうした空気感や、色合いなんて、気にしたことがなかった。
僕は大きく伸びをして、朝の空気を肺に流しいれた。
清々しい。そう感じた。
いつもと同じ時間帯に、いつもと同じ通学路を歩いていれば、いつもと同じ奴に出会うのは道理だ。つまり、三枝三園が僕に対してやかましい挨拶をしてくるということ。
「二木、おはようさん」
「ああ、おはよう」
僕がそう返すと、三枝は驚いた顔をして、扇子を広げる。
「ちょっと、どうしたんだよ二木。何か悪いもんでも食べたのかい? 何か薄気味悪いよ。あんたがそんな風に朝から活き活きとした表情してたらさ」
三枝は、僕の顔をのぞきこむようにして、見る。
「ほらほら、白状しなって。ええ? 昨日私たちを先に帰したのと関係があるのかい? 教えてくれたっていいだろう?」
粘っこい声で、三枝がそう言った。
「別に、何でもないよ。それに、活き活きしてるわけでもないし」
僕はそう言うと、早足で前進して、三枝を置いて先に進む。
「ちょっと! おいてくことはないだろう!? ちょっと待てったら」
下駄箱の所で三枝が追いつき、ぶすっとした顔で「冷たい男だよ」と僕に毒づいた。上履きに履き替え、教室へ向かう。騒がしい廊下を通り、聞こえなれた声が漏れだす教室の戸を開け、教室へ。
「おはよう」
「おはようさん」
僕と三枝がそう言うと、何人かの「おはよう」という声が返ってきて、それから、六平が僕達に歩み寄って、「おはよう。二木君、三枝さん」と言った。
僕は自分の席に座り、その周りを囲むように、三枝と六平が立つ。三枝は、六平に「二木の奴、いつもと違うと思わないかい?」と聞いていたが、六平は「そうかな?」と慌てていて、僕の顔をちらりと見てから、「いつもと、同じだと思うけど」と言った。
「そうかねぇ。いつもこんな幸福面してたかね?」
「随分な言われようだな」
「確かに、二木君はちょっと不機嫌そうな顔をしてるけど……」
してるのか。不機嫌そうな顔。自分では気づいていなかった。
「……でも、話してみると、良い人なんだっていうのがすぐに分かるし」
六平は、少しもじもじとそう言った。恥ずかしそうな動作だ。だけど、それを言われた僕も、結構恥ずかしいわけで。
「別に、意識して不機嫌な顔してるわけでもないし、自分が良い人だなんて考えたこともないよ」
三枝は、僕の言葉を聞いて、左頬を釣り上げたような顔をして笑い、閉じた扇子で僕の頭をこつこつと叩く。
「素直じゃないねぇ。もっと心を開くってことを覚えたらどうだい? 確かに、あんたは世をななめに見てはいるけれど、性根はひん曲がっちゃいないんだから」
ホームルームの始まりを告げるチャイムが鳴った。
三枝は、「まっ、仏頂面のあんたが、そうやって楽しそうにしてるのは、友としては嬉しいことだけどね」と言って自分の席に戻っていった。
「二木君」
六平は、僕をみつめる。
「何だよ」
控えめに笑いながら、六平は「二木君が楽しそうだと、僕も嬉しいよ」と言って、そそくさと自分の席に帰っていった。
先生が入ってきて朝の伝達事項を話している時、僕はずっと窓の外を見ていた。つまらない風景だということには変わりはないのだけど、何だか、三枝や六平に色々と言われたせいか、自分の中の変化というものを、色々と考えてしまう。
今日は美月に会えるだろうか。
我ながらセンチメンタルだ。
昼休み。勘ぐる三枝を六平に任せ、庭園に向かうと、思いのほかあっさりと美月に会えた。僕は、ベンチに座る美月の横に腰掛けて、自分の捉えどころのない不思議な気持を話した。
「イン・ア・センチメンタル・ムードだね」
美月はそう言った。
「なにそれ?」
「デューク・エリントンの曲。どこか幻想的で、澄んでいて。聴いてると、体の奥の方から、何かが少しずつ溢れてくる感じになるの」
ベンチに座る美月は、嬉々としてそう語る。
「一樹の中にも、そういう湧きあがる感情ってものが出来てきたのかもね」
「なんか、ファンタジーだな」
僕は、少し小馬鹿にした感じでそう言った。だけど、このパッション娘には、そんな皮肉は意味を成さないようだ。
「世の中に転がってる、ファンタジーを拾い集めて、それを自分に取り込むの。そうすると、自分の中に別の自分が形成されていく。ような気がする」
「なんだか、自信無い感じだね」
美月は「うーん」と唸り声をあげて、眉間に皺を寄せる。こめかみに指を当てて、しばらく何かを考え込むかのように黙り込む。僕はその間に、食いかけだったパンを一気に口に押し込んで、パック牛乳でそれを喉に流し込む。
「言葉にするって難しいよね。私が言葉にするのが下手ってだけなのかな?」
僕がパンを飲み込んだタイミングで、美月が話しだす。
「別に、分かりやすいってことが、良い言葉ってわけじゃないんじゃない? 簡単な言葉でも、やたら難解な意味として受け取る奴もいれば、小難しい言葉を、物凄く単純に受け取る奴もいる。そんなもんだよ」
美月は、大きく息を吐く。動作がいちいち派手な奴だなと僕は思う。
「まっ、気にしても仕方ないか。言葉よりも演技で語れってね」
美月はそう言って立ちあがり、くるりと一回転する。
「なにしてんの?」
「回ったの」
それは見れば分かる。
「全く、変な奴だよ美月は」
僕がそう言うと、何故か美月は嬉しそうな顔をしながら、
「よく言われる」
と言って、笑った。




