余韻
僕は千堂美月との出会いを引きずり、帰宅するころにはそれが余韻に変わった。そして、夜寝る頃には僕の心に思い出としてしっかりと刻みこまれてしまった。
そんなこんなで、明くる日。
学校へ続く長い道をとぼとぼ歩きながら、僕は千堂美月の姿を思い出す。まるで恋する乙女だ。女々しい。実に女々しい。冬の冷気を少し纏わせた春の風が、頬をなでる。なんだか、複雑な気分だ。激情なんてのは一時の気の迷いだとか、一目惚れなんて面食いか恋愛中毒の奴がなる病だなんてことを常日頃から言っている僕が、よもや一目惚れに近い感情を抱くなんて。顔に出たりしていないだろうか。「僕は恋してます!」みたいな甘すぎて吐き気がするような表情をしていないだろうか。
不安だ。
もしかしたら、恋の楔を胸に打ち込まれて、青息吐息な書生さんみたいな表情になっているかもしれない。まずい。実にまずい。
「二木!」
まずい時に限って、まずい奴に出くわしてしまった。とりあえず、無視をしてやり過ごそうと、僕は少し足早に歩を進める。
「おいおい! 無視するなんて酷いじゃないか!」
ばたばたと足音を響かせながら、声の主が僕に駆け寄ってきた。
「なんだよ三枝僕になにか用か? それなら、後で聞くから、今は話しかけないでくれる?」
三枝三園。なんだか酷く読みにくい名前をした僕のクラスメイト。いつも明るい。無駄に明るい。鬱陶しいくらい明るい。だけど、その「鬱陶しい」という感情が、マイナスにならないのが、三枝の不思議なところなのだけど。
「冷たいねぇ」
そう言って、三枝は勢いよく扇子を広げる。
「あのさ、なんでいつも扇子を持ち歩いてるわけ? 無駄にテンション高いから、体温も無駄に高いとか?」
「違うよ。扇子は、噺家の商売道具のひとつだからね。こうしていつも持ち歩いて、私の気を纏わせているってわけさ」
そう言って三枝は、「カッカッカッ」と芝居がかった笑い声を響かせる。
「ああ、廃部の危機を迎えている落語研究会の部長だもんな、お前」
三枝は、がくっと肩を落とし、僕を睨みつける。
「いちいち廃部の危機を、とかつける必要はないだろう? まったく、二木は冷たいねぇ。姓に数字があるもん同士、仲良くしようって気はないのかい?」
扇子で口元を隠しながら、三枝は嘆く。なぜこいつは朝からこんなにテンションが高いのだろうか。馬鹿だからか? それは言いすぎか。阿呆だからということにしておこう。馬鹿と阿呆なら、阿呆の方が可愛らしい感じがするし。
「で? 結局、何で声をかけたわけ?」
僕の問いに、三枝はあっけらかんとした感じで答えを返す。
「別に」
「別に?」
「そう。別に用事があって話しかけたわけじゃないよ。冬の景色に春の色合いが混じった景色を、粋だねぇ~って感じで眺めながら歩いてたら、目の前に二木が辛気臭い顔して歩いてるじゃないか。こりゃあ、声をかけなきゃいかんなってことで、声をかけたわけさ」
言い切った後に扇子を閉じて、閉じた扇子で僕を差す。三枝は、そこらの男よりも男らしい顔をして笑っている。おかしな奴だ。
「面倒な奴だなお前。何か話題が無いと困るだろ。このまま無言で学校まで歩くのかよ」
「まあまあ。ほら、ジャズでも即興でセッションしたりするだろう? そんな感じでさ」
「日本の伝統芸能を嗜む人間が、例として異国の文化を出すのはどうなのよ」
「今は、古典とニューウェーブが程良く混ざっている時代なのさ。古き良き古典も、新しい波を起こす創作も、その良し悪しがどうのより、芸としての面白さを求める。そこが、落語のいいところなんだよ」
三枝はよく笑う。そして、三枝の周りの人間も良く笑う。もどきといっても、一応は噺家である。蔑みや下世話な話で簡易な笑いを起こすのではない。自然と、その人間の笑顔を引き出すのだ。そう考えると、三枝三園という人間は、ただの馬鹿、もとい阿呆ではないのかもしれない。
少し長身な三枝は、扇子で顎を突きながら、話の花を咲かせる。
「なあ、三枝」
「なんだい?」
三枝の目は、きらきらと光を放っている。
「いいや……」
僕には。
「なんでもない」
僕には、こんな輝きを放てない。
学校に着き、三枝と僕は教室に向かう。一緒に登校しても、浮いた噂ひとつたたないのは、三枝の江戸っ子気質というか、男っぽい性格のためだろう。男子の中で、三枝は女子と男子の中間に位置する存在なのだ。
「おはよう二木君、三枝さん」
おとなしそうな少年が、おとなしい声で、僕達に話しかけてくる。
「おはよう六平」
「おはよう。今日も深窓の美少年って感じだねぇ六平」
いやらしい感じで三枝が言う。
「深窓って女のことを言う時につかうんじゃないのか?」
「いいんだよ。六平には、深窓って言葉が似合うんだから。言葉ってのは、意味だけで形を成してるわけじゃないんだよ。言葉を自分の物にするってのは、その言葉に自分なりの意味を見つけることなのさ。道理にかなうってのが、世の全てだってんじゃつまんないだろ?」
三枝は、「びしっ」と音を響かせながら、扇子を広げる。
「それはお前の自論だろ」
「そうさ。自論で持論だよ。自分が持ってる論理ってことさ」
快活な女は、「カッカッカッ」と笑う。
「三枝さんって、面白いよね」
六平は、そう言いながら僕の隣に立つ。おとなしい控えめな笑顔を浮かべながら。
「そうだな。面白いよ。色んな意味で」
始業のチャイムが鳴った。僕たちはそれぞれの席に戻る。それと同時に引き戸が開く音がして、先生が教室に入ってきた。
僕は、先生の朝の報告を聞きながら、窓の外を見る。
今日もいい天気だ。占いも凄くいい結果だった。これは、なにか幸運がおとずれる確率が高いのではないだろうか。
僕が望む幸運。それを考えてみる。最初に浮かんだのは、千堂美月との再会。
厭らしい。煩悩全会ではないか。
「よし。朝のホームルームはここまで。じゃあ、今日も一日しっかり勉強しろよ」
そう言って、先生は教室を出ていく。それを見送って、僕は机に突っ伏す。
「二木君、大丈夫? 体の具合が良くないとか?」
「だらしないねぇ。もっとしゃきっとしなよ。それとも、本当に具合が良くないのかい? それなら、さっさと保健室に行くんだね。意地を張るのはいいが、無理して張った意地は、張り詰めた糸みたいに簡単に切れちまうよ」
二人の声を無視して、僕は自分の思いに浸かっていく。「僕は」と自然と声が漏れる。
「僕は?」
六平がおとなしい声でそう言った。
「僕は? って聞かれてもねぇ。私はそんなにあんたのことを知らないよ」
三枝がふざけた調子でそう言った。
「僕は、馬鹿だ」
三枝と六平は、ぽかんとなる。僕は、そんな二人を気にすることなく、突っ伏したまま溜息を吐く。吐かれた息は、机を湿っぽくさせた。まるで、僕の心の様だ。
そんな、一昔前の詩人が言いそうなフレーズが、僕の心に浮かんでいた。




