転移した先は、静かな深い森
一瞬だけ歪んだ背景が元に戻った先は、深い森の中だった。
鳥や虫の鳴き声は聞こえないが、風に揺れる葉の音がサラサラと聞こえる。
緑を掻き分けて降ってくる陽の光が、少しだけ眩しい。
「目を開けていいよ」
俺はしっかり握っていたセシリアの両手から手を放し、そっと声をかけた。
「……ここは? ユヌフェ大陸なの?」
目を開けたセシリアは、ゆっくりと辺りを見渡した。
千年振りにこの転移ポイントを使ってみたのだけれど、無事に成功した。よかった。
足元には、転移ポイントとなった小さな石標があった。セピア色の記憶に埋もれていたはずの灰色の石標だったが……
(ラヴィン)
俺は、心の中に蘇ってきた師匠の名を呼んでみた。
クスッ
誰かが笑ったような気がしたが、気のせいであることは分かっている。でも、温かさを感じた俺は満足していた。
おっと。セシリアの質問に答えていなかったっけ。
「――――そう。ここは大陸の中央付近かな」
「ここが……妖精族たちが住む大陸なのね」
感慨深げな表情も、俺にはその意味がよく分かっている。
この世界では、他の大陸に移動することが容易ではないのだから。
人族たちが支配しているボクゥゲンス大陸から、この妖精族が支配するユヌフェ大陸までの距離は、おおよそ5,000ヤド。地球の距離で表現すれば50万キロにあたる。
ユヌフェ大陸は、真の意味での大海原を、年単位の航海でようやく辿り着くことができる場所になる。
地球で大型の客船が一日に進める距離は約800キロ。
この世界は、エンジンがなくとも【噴射】のスキルを使って風を作って帆に当てることで推進力を得られるが、★3の【噴射】のスキルで進める一日の距離は、地球の大型客船の半分くらいとなる数百キロが限度だ。しかも、スキルを半日発動させるのに必要な魔力量は1,000近くが必要になる。
24時間体制で進む場合には、★3以上の【噴射】スキルを持つ者を最低でも4名は準備しなければならない。
さらに、その大海原には、無数のやっかいな魔獣たちが潜んでいる。
大海原を越えるために最低限必要なのは、Sランクの冒険者たちのパーティと、数名の【噴射】のスキルを持つ者、そして【収納】のスキルを持った者たち。
これだけを揃える必要がある。
海の魔獣を追い払える(倒せるならなお良し)こと、船の推進力を得ること、そして年単位の食糧を収納しておけること、この三つは絶対に必要だった。
船を襲ってくる魔獣たちがSSランク以上なら、例えSランクの冒険者パーティでも無傷では乗り切れない。
海は陸とは違う。
船の上だけが生存領域なのだから、船を壊されてしまえば冒険は終了となる。
安全を最大限に保つためには、海の魔獣と戦えるスキルを持つ複数の冒険者パーティは必須だった。
そして【収納】が必要な理由は、野菜。
水は、スキルでなんとかなるし、海の魚も食料にできるが、野菜は何ともしがたい。
スキルや魔法が生活を支えているこの世界では、科学文明が未発達なのでサプリメントは開発されておらず、ミネラルやビタミンの摂取は食料から得るしかない。
世界が変わっても、ホモサピエンスに必要な栄養素は同じだったようだ。
だから、航海の途中で島に巡り合えるかどうかが未知数である以上、最低でも約3年間にわたる航海期間を耐えられる「野菜」の準備は必須だった。
乾燥させた携帯食料はこの世界にもあったが、数十名全員の3年分の量となれば、海水に触れる恐れがある船内での保管は、そのスペースも考えると簡単ではないのだから。
もちろん、【収納】のスキルも★3は必須になるし、トラブルが起きたことを考えて、最低でも4名が必要とされていた。
とにかく、海原を渡ることは、この世界では簡単に行えることではないことは確かだった。
地球のように科学が発達していないから航空機は存在していない。
【飛行】のスキルを持っている者はいるが、そのスピードは音速にすら届かなかった。もちろん、一年以上を飛行し続けることなどできやしない。
【転移】のスキルも同じだ。
一応、★4の【転移】スキルを持っているものならば、大陸間の移動は不可能ではない。しかし、最初に転移先を一度は訪れる必要があるから、船を使っての航海が前提になる。
しかも、【転移】スキルも、★4では転移できるのは一人のみ。
★5まで成長していれば複数人の転移ができることになるが★4から★5まで成長させるための時間は、成長を促す補助スキルを持っていて、なおかつ最低でも十年単位が必要になる。さらに、複数人を転移させるために必要な魔力量は、もしも二人なら倍、五人なら五倍となる。
大陸間の転移に必要な魔力量は万単位なので、多人数での転移は事実上、不可能と言えた。
そのせいもあってか、【転移】のスキルに、大陸間移動における大きな意味を見出す国はない。
そして、単独での転移は、「伝令使」か「配達員」程度の仕事はできるが、国家の戦略的な役割を任されることはない。
つまり、この世界において大陸間の移動とは、船のみが有効であり、今なお積極的に行われていないタスクの一つだった。そのタスクはドラゴン族ならこなすことができただろうが、彼らは大陸間の移動に全くの興味を持っていない。
セシリアも、大陸間を移動しながらの冒険は幾度も夢見たと話していたが、あくまでそれは空想の話。
それが実現することがあるとは考えたこともなく、それだけこの深い森の光景は感慨深いものがあったのかもしれない。
飽きることなく辺りを見渡しているセシリアだったが、俺にとってもこの光景は感慨深い。
師匠を失った中で、最初に踏み出した先がこの場所だった。その時から千年の時間が経過しているが、その年月が今、目の前に広がる光景の中に現れていることはない。当時と同じ木々が生えているんじゃないかと思えるぐらいだ。
あの当時は、師匠が最後にレクチャーをしてくれたので、何をしなければならないかは分かっていたが、それでも見知らぬ種族とファーストコンタクトを無事に取れるのかはとても不安なことだった。
それでも、この世界で過ごした半分の時間をここで過ごしたこともあり、俺にとってこの大陸は第二の故郷とも言えた。
さまざまな記憶が蘇ってくるが、いつまでもこうしているわけにもいかない。
そろそろ頃合いかな、と思った俺は、ゆっくりとセシリアに声をかけた。
「――セシリア。今の状況とこれからの行動を簡単に話しておこうと思うけれど、いいかな?」
「え、ええ。もちろん。ごめんなさい、ちょっと見惚れてしまったわ」
慌ててセシリアが、少しきょどりながら俺の方を向く。可愛い。
「まず、このユヌフェ大陸のことから説明するけれど……この大陸は主に妖精族たちが暮らす大陸、ってところは知っている?」
「ええ。妖精族が暮らす大陸が世界のどこかにある、ってことは学院で学んだわ」
「もしかすると、今、情勢が変わっているかもしれないけれど、俺が知るユヌフェ大陸の各勢力区分は――――」
そして俺は、自分が覚えている限りの、ユヌフェ大陸の状況から説明を始めることにした。




