一騎打ち
神殿の最深部、
台座の上で目を覚ましたアザリアは自分の体に違和感を覚えていた。
何かがおかしい。
負荷ではない。むしろ逆だ。
全身に力が漲り、筋肉が強化され、起き上がる動きもしなやかだ。ぐっと力を入れ、伸びをすると背中で今までなかったものが広がった。それは、風を起こした。
背に翼が生えている?
それを意識して動かすと体が宙に浮いた。
初めてそれを使ったのに、眼下にいるアベンのもとへと羽ばたいて移動することが難なくできた。
アベンが穏やかな声で告げた。
「目覚めの契約が交わされた。契約は履行される」
「目覚めの契約?」
あの、声のことだろうか。
思い出すだけで総毛立つ。
顔を強張らせるアザリアに対し、アベンは慈愛に満ちた笑みを浮かべて返した。
「魔王の目覚めに協力した者には奇跡が約束されている。最初の願いは必ず叶う。それが世界の理だ。神殿を出て、自らの望みを叶えてくるといい。力は備わっている」
結界が幾重にも張られているというのにアザリアが翼を羽ばたかせて舞い上がると神殿の塔の一つから飛び出すことが出来た。
冷たい夜の空気を感じる間もなく、ずっと身に着けていた赤い結晶が輝き始め南へ向けて赤い閃光を走らせる。
そこに、戦うべき場所があった。
今、アザリアはずっと探し求めた傭兵黒竜と対峙している。
アザリアはじっと目の前の黒竜を睨みつけていた。
『望みは叶う』
目覚めの契約により自分は翼を得ただけでなく、剣を振るう速度も力も上がった。最初の願いは必ず叶うというなら、その契約である仇討ちは必ず成就する。
トレスの死からずっと願い続けた仇討ち。
たとえこの身が滅びようともこの願いだけは叶える。
仇討ちのためだけに生きてきたのだ。
相手が無敗の傭兵黒竜であろうとも、金貨1000枚だろうとも魔王の契約なら叶うはず。
そう思っているのに、黒竜の剣の構えに一切の隙はなかった。アザリアは格の違う相手にどう切り込むべきか静止していた。
すると黒竜が感情のない声で告げた。
「来ないなら、こちらから行くぞ」
一瞬のことだった。
距離があったはずなのに、気が付けばアザリアの目の前に黒光りする刃が出現していた。
今までのアザリアなら確実に切られていた。
だが、今、魔王の契約により、アザリアの意思とは別にアザリアの肉体は攻撃に反応しカーファルの放った一閃を剣で防ぐと身を翻して逆に切りかかっていた。
契約はアザリアの意思とは関係なく発動し、肉体を制御していた。
息つく暇のない応戦にアザリア自身が驚愕していた。
体験したことのない凄まじいスピードとパワーがぶつかり合う。
これが、黒竜。
これが、魔王の力。
激しい打ち合いは、王都中に風を飛ばし威圧し恐怖さえ生み出し、全てを牽制していた。
剣戟に恐れをなしたのか、彼方の光の柱でさえ黒い水を跳ね上げて魔物を生み出すことを止めてしまっている。
王都中に広がっていた戦場が二人の激しい戦いに息を潜めてしまっていた。
二人の動きは常人離れしていて、普通の者には姿が見えないだろう。しかし、激しい攻防が生み出す衝撃と振動、火花は周囲を圧倒していた。
「カーファルが苦戦してないか…?」
ハシーディムが茫然と呟くと、リベルデンは肩を竦ませた。
カーファルは千の敵を一人で相手にしても苦戦などということはない。
それが今、魔眼のアザリアに押されている。
リベルデンは顔を顰めて観戦しているラハブに声を掛けた。
「魔王の力を借りるとその辺の魔人や魔族よりも瞬足で技術も向上するんだな。以前会ったアザリアは到底園の住人には及ばないレベルだった」
「とはいえ、魔王の力は所詮、借りものだ。カーファルは圧されているわけじゃない。あいつ、まだ本気じゃない。恐らく呪詛について探っているだけだ」
ラハブの低く唸るような声にはカーファルの技量の高さに感心するというよりも強敵に向けるような獰猛さがあった。
ハシーディムはラハブらのやり取りに片眉を上げた。これで本気じゃない?カーファルの底力はどれほどなのか。それはそれで興味が湧くというものだ。
「アザリア!」
アクロンはカーファルと何度も剣をぶつけ合うアザリアに我慢しきれず声を掛けていた。アザリアには死んでほしくなかった。
剣の打ち合う音と風圧からその威力が尋常でないことは明らかだ。そのスピードにアザリアの肉体が持つはずなかった。このまま持久戦にでもなればアザリアの肉体は崩壊するだろう。少しの間だが一緒に旅をしたアクロンにはそれが嫌でもわかってしまう。アザリアの肉体は覇者のような鍛え方をしていない。
二人の凄まじい戦闘を周囲はそれぞれの思いで遠巻きに見守るしかなかった。多重呪詛の呪いがどう働くかもわからない。下手に手出しはできない。
そもそも呪いはどうして発動しない?
ハーリールは船の上で首を狩った呪いの凄まじさを忘れられないから気が気じゃなかった。カーファルの剣に迷いは全くないが、呪いは確かにそこにある。いつ牙を剥いてもおかしくない。
サーハラは異様に多重呪詛を警戒するハーリール達に同調する気になれず、かといってどちらかを応援する気などさらさらない。そもそも、動きが速すぎて姿が見えないくらいの勢いでぶつかるアザリアとカーファルの戦闘など面白みもない。二人から目を逸らすと魔族の一人に音もなく歩み寄る。
魔族は傍らに立ち止まるサーハラに片眉を上げた。
「何か用か?人族」
サーハラに殺意が無いことと今は戦うタイミングではないため魔族は腕組みしたまま冷ややかな視線を投げた。
サーハラは吟遊詩人の微笑みを浮かべて問いかけた。
「どうして観戦を?一斉に懸かった方が効率的では?」
ハーリールは多重呪詛を警戒して守りに徹している。しかし、魔族は多重呪詛のことを知らないはずだ。ところがどいつも動かない。
魔族は鼻を鳴らした。
「目覚めの契約だ。邪魔するものは殲滅される。何者であろうともな」
「目覚めの、ということは、魔王に関係があるのか?」
「魔王を目覚めさせた褒美の契約だ。まぁ契約成就の暁には魂を失うことになるだろうが」
つまり、褒美のはずが破滅というわけだ。
「ふうん」
サーハラは、アザリアとカーファルへ目を向けた。その視線に魔族はサーハラが突然現れた白髪の娘に同情しているのだろうと検討をつけた。
「もうあの娘もあの男も助かることはないだろう」
嘲るような魔族に対し、サーハラは妖艶な笑みを浮かべて呟いた。
「どうでもいいことかな」
人族は群れる。仲間を失うと弱まる。そう伝え聞いていた魔族は怪訝そうにサーハラを見た。
サーハラは興味なさげに魔族の視線を無視したが、いきなり頭を別方向から叩かれた。
「どうでもよいことではないだろう」
いつの間にかバルクが隣に立っていた。バルクはカーファルが死んでは困るし、別にアザリアの友人ではないが、個人の感情を魔王に利用されているのも腹立たしい。
そんな、バルクに対し、サーハラは冷たかった。
「カーファルは殺しても死なないだろ。私はあの娘のことなどどうでもいい」
「アザリアは巻き込まれ人生を狂わされたんだぞ」
「赤子の頃から?いや、森に捨てた親が悪いだけだろ」
「どうして捨てられたと断言するんだ?」
「それ以外、考えられない」
切り捨てるような言い草にバルクは腕組みしてサーハラを睨みつけた。サーハラらしい反応だが、どこかアザリアを敵視している。なんでだ?
バルクは、周囲に視界を走らせた。そして、ピンときた。
「お前、やきもちか」
バルクの台詞にサーハラの眉がつり上がった。バルクの視線の先にはアクロンが必死にアザリアの名を叫ぶ姿があった。
白髪で赤い眼の女剣士。復讐心に囚われて魔人化した醜い存在だ。黒い翼を優雅さもなくバタつかせている。美人でもない。
呼び掛けて止めようなどと愚かでしかない。
助ける価値は皆無だ。
サーハラは魔族もドン引く悪意に満ちた妖しい笑みをアザリアに向け、どこからともなく小柄を取り出すと躊躇うことなく彼女に投げつけた。
「?!」
何すんだよ!
バルクは声が出ないほど目が点だった。
魔族が舌打ちし、一瞬で、全ての魔族が異界へ消え去った。
魔族が逃げる。
その異変に危機を察知できない覇者などいない。
放たれた小柄はまっすぐにアザリアへ飛んだが、アザリアには到達しなかった。
激しく戦う二人の周囲に見えない壁があるかのように、直前で弾かれ小柄は塵となった。
そして、
それ、は突然だった。
バルクは早々にサーハラの背後へと逃げ込んでいた。
それ、は、先ほどまで魔族達がいた空間からハーリール達が立つ場所を大きく包むような広範囲に起きた。
大気そのものがいきなり凍り付き、次の瞬間、一気に砕け散り消滅した。
建物も地面も根こそぎ持っていかれた。
空気さえ無になった。
黒い水から湧いた魔物も、黒い水そのものも、その一帯すべてが消えていた。
何もない空間が誕生していた。
ただ、中心にアザリアとカーファルが剣を打ち付けた姿勢のまま立っているだけだ。
何故、何もない空間に二人が立っていられるのか。立っている?いや、浮いている。
もはや理解が追い付かない。
二人以外、何もない。
おまけに二人は静止している。
「サーハラ…」
低く呻くバルクに対し、サーハラは目をぱちくりと一度瞬きさせて、頭を傾けた。自分の身に着けていた魔道具の2つが粉々になって散っていった。
「意外と、大したことないじゃん」
皆、無事だし。
魔族が逃げると同時に全員を後退させ、全力で防御結界を強化したハーリールとリベルデンが、杖を水平に構え防御姿勢を取ったまま固まっている姿がみえる。
その後ろに、皆、武器を構えてちゃんと立っている。
「馬鹿!サーハラ!何てことすんのよ!」
「危なかった…。ハギオイの杖が無かったらマジで吹っ飛んでたぞ」
ハーリールとリベルデンの声に、サーハラは皆を見回した。
どうやらヤバかったらしい。
皆、若干青ざめている。覇者が青ざめるなど珍しいことだ。
「サーハラがヤバいっていうのは、これか」
ハシーディムは動揺を隠そうともせず、信じられないものを見る目で、平然としているサーハラを見つめてしまった。
逆にアクロンはいつの間にかサーハラに突撃し、その頭を叩いていた。
「王都が無に帰したらどうすんだよ!」
「ここの王都なんてどうでもいい。それに、魔族を追っ払えた」
悪びれないサーハラは涼し気に微笑してみせた。
あり得ない!
「考えなさすぎだ!ふざけんな!」
アクロンはサーハラの耳元で怒鳴り声を上げていた。
空間が砕け散って、空気も一瞬消失したというのに、サーハラは全く分かっていないようだ。
ここがバアル・ゼポンというやたら結界の張り巡らされた王都だから被害が最小で済んだが、もし、異国だったら国一つの消失でも済まないだろう。
逆に、城と大神殿が無事な方が驚きだ。まぁ1・2枚の防御結界は散っただろうけど。
大神殿の結界がなければ王都消失なんてことにもなっていただろう。それを防ぐとは、バアル・ゼポンの魔導士は本当に凄腕ということだ。光の柱周辺も無事でよかった。あの騎士たちはちゃんと生きている。
「耳元で怒鳴るなよ。もう元に戻ったみたいだ」
至近距離のアクロンの耳元でサーハラは面白がるように囁いた。
確かに、空気はもう戻ってきている。凍てついてはいない。ほんの一瞬の出来事だった。
そこ、にあった建造物や魔物などは消えたままだが、大地は戻ってきていた。若干、窪地になっているが。
そして、その中心に変わらず二人は浮いている。
この異常事態に、アザリアとカーファルはまだ反応しない。
剣を打ち付けた姿勢で停止したままだ。
まるで時が止まっているかのような光景だ。
「どうなっているんだ?あの二人?」
バルクの疑問に答えられる者はいなかった。
アザリアとカーファル自身には周囲の異常事態は、全く感じられなかった。二人は周囲とは違う時間の中にいるかのように周囲で起きたことなどお構いなしにずっと途切れることなく戦っていた。
サーハラが小柄を投げる少し前――。
アザリアは剣を打ち付け合う中で、力が拮抗していて決定打が打てないことに舌打ちし、後ろへ一度飛びのこうとした。その時、攻撃されてもいないのに突然、頭に強い衝撃を受けた。
トレスの叫び声が頭の芯に響く。
鋭い痛みが頭の奥底に走る。
こんな時に…。
赤く染まる森の中を逃げ惑うトレスの姿は何度も見た幻覚だ。
身体は魔王の与えてくれた力のおかげで勝手に応戦してくれるだろうが、頭痛は収まらない。
アザリアは頭痛を抱えながらも、アザリアの意思とは別に勝手に体が動き戦っていたが、この動きにはもはや肉体が付いていかなかった。
アザリアは無意識に歯を食いしばっていた。
頭痛は全く収まらない。
幻覚も消えない。
体と意識がぐちゃぐちゃだ。
そんな中で、頭で響くトレスの叫び声に、透き通る女性の声が重なった。
ほんの小さなささやき声だ
「よく見て!」
見る?何を?
「トレスは「何」によって蝕まれているの?」
女性の声は、今度は疑問を浮かべるアザリアの耳元から聞こえてきた。
遠いようでとても近い囁き声だ
その声はトレスの叫びと剣戟の間で混乱するアザリアに冷静さを取り戻させた。
何、によって?
よく見る?
何を?
黒竜?
いいや。トレスだ。トレスの逃げ惑い叫ぶ姿を見ろと言っているのだ
トレスは逃げ惑っている。
黒い、何かが纏わりついている。
何か
何かだ。
トレス自身は全く黒いものが見えていない。トレスは赤いものから逃げている。それではだめ。纏わりついているのは黒だ。
目の前で剣が火花を散らした。
黒竜の黒い髪。黒い瞳
黒
黒く纏わりつくもの
違う。
黒竜じゃない。
何か、それは何だ?
トレスの魂が砕けた。トレスが死…。
黒いもの。
あれは、ダメだ。
黒いものを野に放ってはいけない。
あれは、止めなくてはいけない。
「封じるんだ!」
そう叫ぶ別の声が聞こえた。
現実ではない声。
男性の声だ。
聞いたことのない声。
誰の記憶?
トレスでも、女性の声でもない。
ダメだ。
黒いものはすべての魂を砕く…。
封じるだけじゃダメ。
絶対に「黒」を止める。
あんなものをトレスに放った奴を倒す!
カーファルはアザリアの僅かな隙も見逃さず、常に素早い動きで切り込んだ。連打の応酬は止まることがない。
刃をアザリアが辛うじて受け止めたとき、カーファルは目端でサーハラが小柄を放つのを捉えた。
小柄はアザリアを狙っている。
一騎打ちに水を差す覇者がいるなど信じられない。
何か狙いがあるのか?
放たれた小柄が何故か塵と化した次の瞬間、周囲の空間が揺らぎ、魔族が出現するときのような歪みが見えた気がした。
時が割れるという不思議な感覚が生じ、周囲の動きが目まぐるしく変化していく中で自分たちの剣は妙に緩慢になり気が付くと、魔族が姿を晦まし、皆が距離を取って防御結界を強化している。
この異変が「呪い」だろうか。
あのラハブまで緊張しているのがわかる。
カーファルは冷静に思考を巡らせた。
こちらには影響がなかったが、周囲にはとてつもない破壊が生じたようだ。
皆と自分達がまるで別世界にでもいるようだ。
魔王の力や呪いだけではなく、この王都の時間が歪められているためかもしれない。
それにしても、サーハラは遠慮なくやってくれる。下手をすれば世界の破滅級の異常事態だ。
小柄がアザリアに当たることはなかったが、歪みの影響かアザリアの胸元にわずかに赤い光が浮かび上がった。
周囲の異変に反応しているのは明らかだ。
その赤にカーファルの瞳が大きく見開かれた。カーファルがそれを見逃すはずなかった。
「サーハラ!よくやった!」
ラハブ達からすると、突然、動き始めたカーファルがいきなりそう叫ぶので、皆、目を点にした。
名を呼ばれたサーハラ自身、何のことかわからず首を傾げてしまった。
当の本人カーファルは、目印を見つけ、一気に決着をつけるべく剣の構えを変えた。
魔王の力を借り異様なほどの速度とパワーを示す目の前の女剣士はどこかに「核」を持っている。だから、ずっと探していた。確実な目標が欲しかった。
首にかけているらしいペンダント。
多重呪詛の結晶。
一撃で砕くためには、表面に出す必要があった。その位置を正確に知りたかった。
「核」そのものを砕くことができれば、【血の洗礼】も解除されるかもしれない。
サーハラの小柄によって生じた空間の異変に呪詛が反応してくれたお陰で標的がはっきりした。
だから、カーファルが躊躇することはなかった。
その赤い光に向けて渾身の一閃を放った。
それはあまりにも速く圧倒的な威力で標的の中心を貫いた。
静止していた二人がカーファルの声とともに動いたと思ったら一気に決着していた。
「アザリア!」
アクロンの絶叫が張り詰めた空間に響き渡った。
アザリアの首が凄まじいカーファルの一撃によって飛ばされた。
誰の目にもそう映った。
アザリア自身も首を切られたと理解した。
首、だけじゃない。
不意に、アザリアの中で感情が高ぶり、もはや声も出ないのに絶叫した。
赤子の時からずっと握り締め、身に着けていた赤い結晶が空に舞って砕け散っていく。
世界が暗転した。
砕けた結晶から鮮血ではなく、漆黒の影が吹きあがり、渦となって巻きあがり、人の声とは思えない叫び声が王都中に響き渡った。
黒い水よりも遥かに黒く底なしの渦は胞子を放つように広がったかと思うと鋭い微細な刃となり凄まじい勢いで放たれた。
「まずい」
リベルデンの引きつった呻きに、ハーリールは多重呪詛の凄まじさに悲痛な声を漏らしながら杖にありったけの魔力を込める。リベルデンの持つハギオイの杖にはいくつもの魔法陣が浮かび上がり懸命に呪いを弾いている。ハギオイはこれに対抗する魔法陣を刻んでいたということか。
こんな凄まじい魔力戦を想定していたとしたらハギオイが命を削ってもこの杖を完成させたことに納得がいく。ハギオイはこの杖に己が命を込めたのだ。衰弱し、死に至った要因の一つだろう。この杖が無かったらとてもハーリールの防御結界だけでは無事でいられなかった。ハギオイは呪いに勝つためだけにあの日から18年魔術を紡いでいたのだろうか。
漆黒、それは封印されていた呪詛が開放された証。その呪いはハーリールの防御結界の魔法にも重くのしかかりとても杖がもちそうにない。
信じられないことに目の前に聳え、どんな攻撃にもビクともしなかった大神殿の結界がはじけ飛んだ。
続いて、漆黒の刃は王城の結界も突き破った。城の塔が呪いの刃の前に崩落し始めていた。
漆黒の刃は幾重にも重なる結界をものともせず、留まることなく飛散し、やがて王都中へ広がった。
「これが…エクレシアが封印した呪いだというのか」
あらゆる結界を破るその破壊力と持続性に、流石のラハブも驚愕するしかなかった。
こんな力を生み出せる魔導士が存在するのだ。
この呪いももとは大祭司アベンが生み出したはず。
今、目の前でアベンの魔力を見せつけられている。そういうことだ。先ほどの小柄に対する反動などこれに比べたら子供のお遊びだ。
おまけに漆黒の呪いは同じ黒属性の魔物の魂さえも砕いていく。あらゆる生命を標的としているに違いない。
つまり、魂を砕く呪いということだ。
「おい。ハーリール。首を飛ばす呪いというより、あらゆるものを砕いているぞ」
ラハブが茫然とこぼすと、ハーリールは苦虫を噛み潰したような表情をした。
「船上の時より遥かに威力が上よ」
とんでもない呪いよ!彼女は心底叫びたかった。
どう収集つけるのよ。こんなの、解き放って!
誰が止めるのよ!
呪いの威力に激震が走る中、大地に降り立ったカーファルは自らの剣が砕いた赤い結晶の残骸を踏みつぶして叫んだ。
「エクレシア!」
こんな呪詛に負けるエクレシアではない。
エクレシアは命を懸けた。こんな呪いに負けるはずはない。勝つために命を懸けたはずだ。どこかにエクレシアの残滓があっていいはずだ。
感情が希薄なカーファルにしては珍しく怒りが取り巻いていた。
「エクレシア!」
再度、声を上げるカーファルに反応するようにカーファルを中心に漆黒が薄れ始め、黒い胞子が逃げるように引いていく。カーファルの足元からは赤い結晶から漏れた雫が、水滴が落ちて水面に波紋を広げるように王都全体へ赤い影を落としていく。
やがて世界が深紅に染まり、黒い胞子が蒸発するように消滅していった。漆黒の呪いが深紅に、赤に覆われて消えたのだ。
全てが血色に染まった世界。
【血の洗礼】
ラハブをはじめ覇者たちは茫然と赤い世界を見回した。魔族はどこにもいない。ただ、世界が赤い。
凄絶な破壊力を持った呪いさえ赤い力によって完全に消失していた。
冷たい地面に転がるアザリアは目の前が赤く染まるのを見つめながら、何を見ているのかわからなかった。
自分は傭兵黒竜と戦い、黒竜の剣によって首を落とされた。そして今、大地に転がっている。
魔王の力でも傭兵黒竜は倒せなかったのだ。
後は死に至るだけだと苦い思いで目を閉じた。
トレスの叫びは止まった。トレスの幻影も消えた。
そして、トレスを救えなかった。トレスの魂は黒い奴に砕かれ飲まれてしまった。
そして、自分も死ぬのだ。18年が終わった。
負けたのだ。
--「大丈夫」
その女性の囁き声は笑みを含んでいる気がした。どこか懐かしい声だ。ずっと昔から知っているような声。
でも…わからない。
大丈夫?
何が?
あなたは、誰?
アザリアは、自分の意識が遠くなるのは何度目だろうと苦い笑みを浮かべた。
死は、こんなにゆっくり訪れるものなのか。




