ヘルエスタ王国物語(108)
リゼ・ヘルエスタが生まれた時、クレアは強烈な違和感に襲われた。
違和感の正体は記憶だった。
クレアの記憶では、この時点のリゼには兄と姉がいる。リゼは三人兄妹の一番下として生まれ、兄妹に可愛がられて育った。
しかし、その二人の影はどこにも見当たらない。
最初からいなかったみたいに、レイナの子供はリゼひとりだけだった。
そんな違和感に苛まれながら、クレアは王の間に響く赤ん坊の声を聞いていた。
「抱っこしてみて。きっと喜ぶから」
そう言って、レイナは腕に抱きかかえていた赤ん坊のリゼを女騎士に手渡す。
女騎士───フレン・E・ルスタリオは急に手渡された赤ん坊に戸惑いつつ、赤ん坊から向けられる柔らかな手の平に自分の指を掴ませる。
フレンの珍しく緊張した表情にクレアは思わず笑みを浮かべる。
「ほら、大丈夫だったでしょ?」レイナが言う。
「……喜んでいるのでしょうか」
「笑ってるんだから、きっと喜んでるのよ」
「……───」
慎重に、慎重を重ねて、赤ん坊を抱くフレンの姿は聖母にすら見える。が、実際は掴まれた指を離してもらえなくて困っているらしい。
フレンが無理にでも指を引き抜こうとすると、リゼの顔がくしゃりと歪み、目に大粒の涙を浮かべて、今にも泣き出してしまいそうだった。
「どうすればいいですか?」
助けを求めるフレンの声に、レイナとクレアは微笑んでみせる。閑散としていたクレアの心にも、王の間に漂う穏やかな空気が流れ込んできた。
「泣かせちゃダメだからね。もしも、リゼを泣かせたら、そうね……その時はクレアに変わって一週間、フレンにリゼの面倒を見てもらおうかしら」
「それは───」
と、フレンが言いかけたところで、クレアは言った。
「それは名案ですね。それならリゼ様も喜ぶでしょうし、わたしも休めます」
クレアの言葉は半分冗談で、半分本心だった。
ここ数日、リゼの世話に気を取られていたせいで、クレアは教会の仕事に手を付けられていない。今頃、応接室のテーブルの上にはクレア宛ての手紙が山のように届いているだろう。この問題は『自分』が二人いれば解決するのだが、もうひとりの自分はまだ立って歩けもしない赤ん坊である。仕事を任せるにはあまりのも幼すぎるため、クレアはひとりで頑張るしかない。
「私には騎士団の仕事がありますので」
フレンは抱き上げていたリゼをレイナに返す。
リゼは名残惜しそうに、ぱたぱた、と両の手足を動かした。
フレン・E・ルスタリオ。
リゼが産まれる一年ほど前に、レイナが遠征先から連れ帰ってきた女騎士。
彼女の実力はレイナのお墨付きという事もあり、すぐにヘルエスタ王国の騎士団に入団が認められた。それからの彼女の活躍は目を見張るものがあり、噂では騎士団長との一対一で勝利したという話も出ている。
団長が引退した後は、フレンが騎士団の団長として就任した。
ヘルエスタ王国が始まって以来、最年少の団長であり、異国の女騎士だったが、誰も彼女に対して文句を言わなかった。
というのも、騎士団に所属する騎士たちはフレンの実力を知っている。
ケンカを売っても絶望させられるか、殺されるかの二択なので、フレンと戦って下手に命を捨てるよりも、ヘルエスタ王国のために命を燃やした方が騎士団に所属する者たちにとっては名誉に尽きるといものだ。
結果、騎士団はヘルエスタ王国の最高戦力として、フレンは『個人』でヘルエスタ王国最強の称号を手にしている。
「そういえば、そろそろ入団試験の時期だったわね」
腕に抱えたリゼをあやすレイナに、フレンは「はい」と返事をした。
「緊張してる?」
「いえ、とくには……」
レイナはからかうように、
「団長として初めての仕事なんだから、もうちょっと緊張してもいいと思うんだけど」
そんな感情とは無縁だといわんばかりに、フレンは無表情のままだ。
「じゃあ、気になってる子は? いないの?」
その問いにフレンは少し考えて、
「いませんね」
「そっかぁー、いないかー。残念……」
「申し訳ありません」
「いいのよ、気にしないで」
レイナの顔は自然と、腕に抱えた愛娘に向けられる。
母親に愛されている自覚があるのか、視線を向けられたリゼは嬉しそうに、レイナへその小さな手の平を伸ばした。レイナもリゼと一緒に過ごすこのひと時を楽しみながら、次の仕事に取り組むための英気を養っている。
「それでは、私はこれで失礼します」
「ええ、またね」
王の間を出ていくフレンに続いて、
「わたしも、そろそろ行かないと。レイナさん、リゼ様のことお願いしますね」
「はーい。ほら、リゼも、クレアにいってらっしゃいは?」
リゼから「あぅ」と手を振られ、クレアも笑顔で振り返す。
もうすぐ昼時。
クレアは、二人に別れを告げて、城門へと向かう。
今日から新しく王城のメンバーに加わる親友を、迎えるために。
からくさ模様の風呂敷を持ったケモ耳少女が、城門の前に立っていた。
極東の着物に近いデザインの服と赤茶色のスカート。
足元に見え隠れする彼女の尻尾は、クレアが前世で親友になった時と同じく、とてもふわふわしている。つい触りたくなってしまうが、許可なく触ってしまうと当前のように嫌われてしまうので、控えめに眺めるだけにしておこう。
親友との再会に泣きそうになりながら、クレアは地獄から来た少女に声をかける。
「とこちゃん!」
「え、馴れ馴れしっ……」
「ごめんなさい!」
爆速で失礼をかまして、爆速で謝罪するクレア。
戍亥よるの手紙を持ってきた少女───戍亥とこは、固まった笑顔で、クレアから五歩ぐらい後ろに下がって距離を取ると、じっとクレアを観察した。そして自分に無害だと分かると一瞬だけ近づき、手紙を渡して、また離れた。
「ママが、あんたに渡せって。読んでくれる?」
「もちろんです」
手紙に書かれている内容は、事前にレイナから聞かされていた内容と同じだった。
要約すると、戍亥とこは地獄の門番をするのに飽きたから、ヘルエスタ王国で面倒を見てほしいというもの。
最後の数枚にいたっては、戍亥よるの自慢話だった。
どうやら、自分の娘が可愛すぎてしょうがないらしい。
「それじゃあ早速、お城の中を案内しようと思うんすけど……戍亥さん、どうしてそんなに離れてるんですか?」
「一応、初対面やし。警戒しとかな、あかんかなって」
「襲ったりしないから大丈夫ですよ」
「さっき、あんなに露骨に、アタシの尻尾を狙ってたのに?」
「バレてる!?」
驚きのあまり、クレアの視界はぐるぐると回りはじめる。
「べ、別にやましい気持ちがあったとかじゃなくてですね……違うんですよ!」
「ものすっごい苦しい言い訳してるけど、大丈夫そ?」
「あ、ああ……わたしは、一体どうすれば……」
どんどん逃げ道が狭くなっていく。
ここ数百年、教会で人の悩みを聞いてきた経験はどこへやら。クレアの頭の中はもはやパニック状態だった。
感動の再会も、いつの間にか嫌われる一歩手前まできている。
いや、もしかしたらすでに嫌われているのかもしれない。
「なんか……愉快な人やね」
「それはポジティブに受け取っていいんでしょうか……」
「うーん」
初対面をやり直すことはできないものか。
クレアは階段を上がりながら、がっくりと肩を落とす。
戍亥がこれから住む部屋まで案内したあとは、二人で王の間に向かった。
リゼを抱えたレイナが、珍しく玉座に座っている。
赤ん坊のリゼを膝に置き、レイナは言った。
「こんにちは、貴方が戍亥とこちゃんね?」
「……はい」
「よるさんは元気にしてる?」
「まあ、ぼちぼちって感じです」
気軽な会話を続ける二人だったが、クレアから見ても戍亥が緊張しているのは明らかだった。クレアはレイナに視線を向け、いつもと違うところがないか探してみた。普段と違うところはリゼと一緒にいるくらいだろうか。
あとはいつも通りのような気がする。
「今日からよろしくね。それと、しばらくは仕事をしなくていいから」
「いいんですか?」
ええ、とレイナは笑ってみせる。
「よるさんから聞いていると思うけど、貴方にもこの国を見てもらいたいの。そして一通り見て回ったら感想を聞かせてほしい」
「……分かりました」
「期待してるわよ、とこちゃん」
「……───」
王の間での会話が終わって部屋を出たあと、戍亥の緊張はほぐれるかと思いきや、クレアの予想に反して、彼女の表情は険しくなる一方だった。
「戍亥さん、どうしたんですか? 何やら難しい顔をしてますけど……」
「いんや……ママから聞かされて印象とかなり違うなって」
「レイナさんがですか?」
一時期、地獄で暮らしていたレイナが言っていたことをクレアは思い出した。その時にお世話になった相手が戍亥よるだったはずだ。
うん、と戍亥は頷いて、
「何考えてるか読めへんくて、めっちゃ怖かった」
「なるほど」
「レイナ様もアンタぐらい分かりやかったら良かったんやけど」
「それ、褒めてるんですか?」
「もちろん。アタシからの信頼をもっと喜んで?」
全然褒められてる気がしないクレアだったが、続く言葉を聞いて少し安心した。どうやら朝の無礼は許してもらえたらしい。
「本当に……びっくりするくらい真っ白やね」
ぽつり、と戍亥が呟く。
横を歩くクレアは戍亥に顔を向けて、
「今、何か言いましたか?」
「ううん、言っていない」戍亥は首を振って、クレアに質問する。「それで? 次はどこを案内してくれるん?」
「そうですね、次は───」
次にクレアが向かったのは厨房だった。ちょうどパンが焼きあがったらしく、戍亥と一緒に出来立てのパンを受け取る。戍亥はオッドアイの瞳を輝かせ、もぐもぐ、と幸せそうにパンを頬張っていた。
それから浴場、洗濯場と続き、最後はレイナが世話をしている温室に向かった。
「日常的に使う場所はこれで見終わりましたけど、分からない部分はありましたか?」
「いや、十分よ」
クレアは、ほっ、と胸を撫でおろす。
「それでどうでしょう……王城の印象は」
腕を組んで考えたあと、戍亥は言った。
「うーん、地獄と違いすぎてちょっと落ち着かない。あと、キレイすぎる」
「キレイすぎるっていうのは……」
「いや、お城に入ってからずっと剣がぶつかり合う音が聞こえてて。でも、クレアが案内してくれた場所には、そんな血生臭い場所はなかったやろ? だからこの音の出所が気になってる」
「それは多分、騎士団の修練場ですね」
今話題に上がった修練場の他に、クレアが戍亥を連れて行かなかった場所がある。それはヘルエスタ王国の地下牢だった。これから普通の生活をしていく戍亥にとって、その二つはさほど重要な知識ではない。
それに、修練場はともかく、地下牢に行くのはクレアが嫌だった。
地下牢はえるが仕切っている。クレアはこの数百年で、彼女のことを少しだけ理解したつもりでいるが、えるの心の底はやっぱり分からない。
えると戍亥の顔合わせは、今日じゃなくてもいいだろう。
「見たいなら、案内しますけど……」
「んー、別にいいかな」それより、と。「アタシは、あれが気になっている」
「あれ?」
戍亥の指を追いかけて、クレアは壁の横に置かれた高圧式洗浄魔道具を見つけた。
「あれは壁の汚れを落とす魔道具ですよ。興味があるなら───」
「ある!」
クレアの横を風が通り過ぎた。そして目の前にいたはずの戍亥は、いつの間にか魔道具の横で待機している。
「汚れを落とすって言ってたけど……どうやって使うん? 叩けばいい?」
「えーっと、ちょっと待ってくださいね」
「わかった」
高圧式洗浄魔道具は、水色の魔石とその他のボタンを順番通りに押していけば、魔力のないクレアでも問題なく使うことができる。
「確か……これを、こうして……はい、出来ましたよ。あとはこの噴射機を使って」
クレアはお手本を見せるように壁の汚れを落とす。
その一部始終を見ていた戍亥は、目をらんらんと輝かせていた。
「やりたい! アタシにもやらして!」
「どうぞ」
噴射機を受け取った戍亥は、壁に付着している汚れを、線をなぞるように水圧で吹き飛ばす。おそらく感動しているのだろう。
壁に付いていた汚れを黙々と洗い流し、そして一言。
「楽しい……」
「え?」
戍亥はまた次の汚れを見つけて、吹き飛ばす。
その行為を二度、三度と繰り返した。
そして、
「た、楽しい! アタシ、天職を見つけたかもしれません!」
クレアは言葉に詰まりながら、
「そ、それは良かったです……良かったの、かな?」




