これが田舎の洗礼?
「どうしよう、きなこ……」
「どうしようも何も、このままでは飢えて死ぬだけじゃ。行くしかなかろう」
私たちは今、深刻な事態に陥っていた。ベッドどころか食料もなく、更には虫の襲撃を受けた翌日、刻々と過ぎる時間を前に、きなことの攻防が続いていた。
「簡単に言うな――! 運転するの私なのに!」
そう、今日は十時に、近くの小中学校の向かいの駐車場に移動式スーパーがやってくる日。車で十五分の地元のスーパーに行くよりも断然近いため、ここに行こうというのは当然の帰結なのだけど、どうやって行くかで私たちは揉めていた。いや、揉めていると言うとちょっと語弊があるかもしれない。だってそれは車で行くか否か、さらに言えば私が運転する決断をするかどうか、その一点にかかっていたから。
「そうは言うがな、わしが運転する方が怖いじゃろうが」
「うう……それは……」
確かに……きなこじゃアクセルに足届かない。いや、そもそも運転しちゃダメだし。
「ほれ、鍵はここにあるんじゃ。覚悟を決めろ」
「そんなぁ……」
どこから取り出したのか、きなこがテーブルの上に鍵を置いた。任意保険に入っていないからと抵抗したけれど、そこは石橋さんがしっかり名義変更をしてくれていた。有能だけど、そこは放置してくれてよかったのに……
それにきなこは簡単に言うけど教習所に通ったのはもう五年も前で、それから一度も運転していない。この山道を下るのも不安だけど、行った先で駐車場の枠内に止められる自信もない。途中のカーブで道下に落ちたら……そう考えると行くと容易に決断なんて出来ない。だけどここにいたら飢えるだけ……こう言うのを四面楚歌というのだろうか。気分は前門の虎後門の狼だ。
「田舎暮らしで車は必須だとあの石橋も言っておっただろう。これは避けられぬ運命なのじゃよ」
それはわかっている。バスも殆どないし、とにかく車がなきゃお隣の家にも行けないのだから。
「……わかった。覚悟を決めよう」
「うむ、天晴な決断じゃ」
こうなったら行くしかない。きなこも道連れだ。覚悟を決めて鍵を手にした。免許証と財布を鞄に入れて外に出た。
「うわ……凄い……」
外に出ると青い海が日差しを受けて輝いていた。昨日とはまた海の色が違う。こんな景色があったなんて……いいものを見たわ。
「ほら音羽。太陽も応援してくれている。行くぞ」
そんな風に言われたら行かないわけにもいかない。意を決して運転席に乗り込んだ、のだけど……
「暑っ!」
「なんじゃ、もう暑いのか」
日を受けて止まっていた車の中は火傷しそうなほど暑かった……エンジンを掛けてエアコンを全開にし窓を開けたけど間に合わないので、すべてのドアを開けた。
「夏の日差し、侮れないわね……」
「うむ、危うく蒸し猫になるところであったわ」
羽虫の群れを避けながら五分ほど待った。そろそろ大丈夫かな? 再び乗り込んでみたけれど運転席のシートもハンドルも熱いままだった。これは、置く場所を考えないと。でも時間が迫っている。きなこも文句を言いながら助手席に飛び乗った。
「いざ、出陣じゃ」
きなこの号令でアクセルを踏んだ。手に汗が滲むのは暑いだけじゃないはず。ATだからアクセルとブレーキのどっちかを踏めばいいのよね。ゆっくり走れば何とかなるはず。ゆっくりと車が走り出した。うん、行けそう……アクセルを踏まなくても車はゆっくりと下っていく。慎重に、とにかく道から外れないように……その一心でひたすらハンドルを操った。
どれくらい時間が経ったのか……私たちはまだ遭難せずに道を下って行った。これ、下りは勝手に加速していくから危ないわ。どれだけブレーキ踏んだことか……おそるべし、車には車の危険があった。
「音羽、海が見えるぞ」
集中しているのだから話しかけないでほしい。それに海ならさっきから見えているって。そう思った時だった……
「音羽、海じゃ! 海まで来たぞ」
「う、うん」
カーブを曲がると藪が開けて海が目の前に広がり、大きな道に出た。
「やったー! きなこ! ここまで無傷で辿り着けた!」
思わず大きな声が出てしまった。強い達成感が胸を熱くする。こんな気持ち、会社でも味わったことなかったかもしれない。絶対無理だと思っていたけど、やれば出来るんだ……見えない何かを一つ乗り越えた気がした。
「えっと、ここを右だよね」
心許なくもウインカーを出して右に曲がる。ここからが本当の戦場だ。一般の車も歩行者もいるのだから。緊張感が一層増した。
平日だからか、過疎地だからか、思ったほど車も人もいなかった。前を走っていた車はいつの間にか見えなくなっていた。後ろからくる車を気にするのはやめた。今は前に集中したい。
「おお、学校が見えたぞ」
きなこの言葉通り、カーブを曲がると前方に学校が見えた。ちょっと洒落た感じの可愛い校舎だ。じゃ、あの向かい側の駐車場が……感じたことのない緊張感を飲み込みながら駐車場へと曲がった。そこは車が五十台は停められそうな大きな駐車場だった。何台か車が止まっているけれどガラガラだ。
時間は九時五十二分、既に派手な絵が描かれた小型のトラックが停まっていて、店を広げている最中なのか中年の女性がご婦人方と会話しながら車の周りを動き回っていた。何というか、面白い。あんな風に車の形が変わっていくなんて、初めて見た……
そして、そんな車を囲うように高齢のご夫人方の姿も。この辺りの人だよね。田舎の人は排他的で冷たいとも聞くけど、大丈夫かな……石橋さんは気のいい人ばかりだと言っていたけど、それはあの人が生まれも育ちもここだからっていうのもあると思う……うう、車は停められたけど、出辛い……
「音羽、何をしておる? いくぞ」
きなこは動じないなぁ。人間じゃないのもあるかもしれないけど。そういうところが羨ましい。
「う、うん……」
「我が食料を得て無事我が城に戻るのじゃ!」
きなこにそう言われてしまえば否とも言えない。それにそのために来たんだから手ぶらで帰るなどもっての外、あの苦労を思えば手ぶらで帰るなど許されない。気を取り直して財布とエコバックを手に車を降りた。うう、緊張する……くらっとしたのは暑さや日差しのせいだけじゃないはず。
案の定、婦人たちの目が車から下りてきた私たちに一斉に向けられた。ここは「おはようございます」? それとも「はじめまして」が適切だろうか? 近所との付き合いなんて東京じゃなかったから何が最適なのかわからないんですけど……!
「ああ、あんた。淳一郎ちゃんとの子け?」
トラックに近づいた私に三人組の一人が声を掛けてきた。声に嫌な感じがないことにホッとした。大丈夫そう?
「ああ、孫が住む言うてた?」
「ほやって。ケンちゃんが言ってたんや。陽子ちゃんの子がくるって」
三人組の祖父世代と思わしき女性が声を掛けてきた。祖父や母の名を知っているってことは近くの人? だけど、どうして私が孫だとわかったの?
「あの、初めまして、佐野と申します。昨日、祖父のところに越してきた……」
黙っているのも感じが悪いかと、名乗ることにしたんだけど……
「やっぱそうやったわ~淳ちゃんにこんなお孫さんいたんや」
「陽子ちゃん、出て行ったっきりやったからなぁ」
「そやそや、何年か前に死んでもて。淳ちゃんえろう落ち込んでたでなぁ」
お婆様方が畳みかけるように話し始めた。早口で余計に聞き取れないのもあって口を挟む余地もないけど……祖父や母のことを言っているように聞こえた。淳ちゃんって、祖父のことだよね。石橋さんもそう呼んでいたし。じゃ、母が亡くなったこと、祖父は悲しんでいた? 香典は送られてきたけど葬式に来なかったから、薄情な人だと思っていたけど。いや、相続のことを思うと細かいところまで気が付く人みたいだけど。
「婆ちゃんら、そんな一気にしゃべったらあかんて。びっくりしてるやろ」
どうしたものかと様子を窺っていたら、後ろから若い声がした。振り返ると、背が高い若い男がいた。年は私と同じか、ちょっと上? 石橋さん並みに日焼けしているし、白っぽい作業着の上からでもはっきりわかるマッチョだった。こんな若い人がこんな時間にこんなところで、何しているの?
「たくちゃん、おはよぉ」
「おはよぉ。今日は何持ってきてくれたん?」
「見ての通りや。朝一で採ってきたばかりのやつばかりや」
そう言って後ろにある軽トラに視線をやった。そこには……キュウリやトマト、ナスなどの様々な夏野菜が入った黄色いカゴが荷台にずらりと並んでいた。
キャンプがすぐに出てこないのでタグを「ソロキャンプ」→「BBQ]に変えました。




