暗がりの中で
「……え?」
突然現れた暗闇にきなこを抱きしめながら身体が固まった。照明も、TVも、騒がしく動いていたエアコンも存在を消して、ただ窓枠を揺らす風の音だけが聞こえた。
「き、きなこ……なにが起きたの……」
「わからん」
真っ暗な世界に声が掠れ、きなこを抱きしめる腕に力が増した。光のない世界は忌まわしい過去を甦らせる。それに、子どもの頃、一人で留守番をしていた時に停電に遭ってからは一層苦手になった。暫く待っても明かりが戻る気配はなかった。仕方なくスマホで調べると、ブレーカーを確かめろとあったけど……
「……落ちて、ない」
配電盤とやらを見たけど、期待した展開にはならなかった。じゃあ、原因は別? そんな……
「匠海に聞いてみてはどうだ?」
「匠海さん?」
きなこの口からその名前が出るとは思わなかった。でも、匠海さんなら何かわかるかな? 電気工事士だったって聞いたし。暗闇の不快さに負けてメッセージを送った。
『電気が消えました』
『なにが悪いんでしょうか?』
忙しいかな? もう7時を過ぎたから仕事は終わっていると思うけど。リビングに戻ってソファの上で返信を待った。10分ほどしてから返信があった。
『気付くの遅くなってごめん』
『ブレーカーは見た?』
『見ました』
すぐに返信したけど、返事はなかった。どうしよう……匠海さんでもわからないのかな。エアコンが切れたから寒くなってきた。うう、なんでこんな時期に……ひざ掛けを被ってきなこを抱きしめた。このままなら布団に入った方がいいかな。
『見に行ってもいい?』
その一言に光明が見えたけれど、いいのかな? でも……
『また噂が立ったら申し訳ないので』
『もう少し様子見ます』
そう返信した。匠海さんはいい人だ。優しいし、マメだし、何でも出来るし。でも農家の跡取りだからか相手が見つからないと涼音さんが言っていた。農家の嫁はそれだけで大変だから、なる覚悟が持てそうもない私が邪魔するようなことは避けたい。
『噂は気にしなくていい』
『確かめるだけだから』
『今から向かう』
立て続けにスマホに文字が浮かんだ。申し訳ないと思いながらも目の奥が熱くなったのは、きっとこの暗闇と雷が昔を、前世を思い出させるからだ。うう、嫌なことは東京に置いてきたはずなのに……
「匠海はなんて?」
「来て、くれるって」
「よかったな」
「……うん」
嬉しいけれど、素直によかったと思えなかった。縁談の邪魔をしたくないのに。これ以上近付きたくないのに。
どれくらい経ったか、スマホがまた鳴った。
『着いた』
もう着いたの? スマホの明かりを頼りに玄関に向かった。施錠を解除して扉を開けて、目の前の黒く大きな人影に思わず息を呑んだ。昔もこんな場面が……忌まわしい記憶が蘇って息が苦しくなる……
「音羽ちゃん?」
窺うような優しい声と懐中電灯の明かりに、過去に引きずり込まれそうになった意識が戻ってきた。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です。ちょっと、びっくりしちゃって……」
せっかく来てくれたのに申し訳ない。慌てて家の中へ案内した。
「ブレーカー、念のため見ていい?」
「はい」
間違いないと思うんだけど……一緒に脱衣所に向かった。大きな背に安心する。
「う~ん、ちゃんと上がってるなぁ」
やっぱり問題なかったんだ。残念、これで解決してくれたらよかったのに。とりあえずリビングに戻った。
「だったら、停電かな。さっき雷落ちてたで……ちょっと北電に電話してみるわ」
あの凄い音、雷だったんだ……匠海さんは誰かと話し始めてしまったので終わるのを待った。
「この近くの数件が停電してるみたいや」
電話で得られた情報は局地的な停電だった。この周囲数件で、今、作業員が復旧に向かっているという。
「それやったらすぐ戻るわ」
「そうですか。よかったです」
家の何かが故障してなくてよかった。でも、すぐってどれくらいだろう。冷蔵庫の中身、大丈夫かな? 夏じゃないから暫くなら問題ないと思うけど。
「大丈夫? もしかして、暗いの、苦手?」
「……じ、実は……」
恥ずかしいことに前世と子どもの頃のトラウマはまだ癒えなかったらしい。もう大丈夫だと思っていたのに。
「じゃあ、戻るまでいるか?」
「いいんですか? 噂が……」
「噂なんか気にせんでいいよ。里桜もそう言ってたやろ」
それは、そうだけど……
「でも、それだと匠海さんの縁談に影響しませんか?」
「は? 縁談?」
素っ頓狂な声に驚いたけど、どうしてそこまで驚くかな? そんなに変なこと言った?
「それこそ気にせんでいいよ。そもそも無理に結婚する気ないし」
「え? でも、跡取りですよね?」
「それはそうやけど、無理に子どもに継がせる気もないし」
「ええっ? だったらどうして跡継ぎに?」
わざわざ仕事を辞めてまで継いだの? そのための跡取りだと思うけど……
「俺が継いだのは、爺ちゃんや親のためや。父さんが腰痛めて、あのままやと家業続けるのは無理やと思ったで」
どっちにしても同じじゃないの? 家業を継いだのなら。
「けど、結婚も子どもに継がせるのも無理強いしないって、継ぐ話になった時、約束したんや」
「ええっ? そうなんですか?」
そんな話、まかり通ったんだ。絶対に無理だと思っていた。
「農家なんて仕事も生活もきついし、先も見えんやろ? そんな仕事、自分からやりたい、継がせてくれって言わん限りやらせる気はないざ。誰もえんのなら俺の代で畳んで畑貸しに出せばいいし」
ご近所でもそうする家が増えていると言ったけど……
「でも、本当は県外に、出たかったんですよね? 涼音さんから聞きました」
「え? 母さん、そんなことも話してた?」
参ったなぁとぼやく声が聞こえた。懐中電灯の淡い光の中、額に手を当てているのが見えた。しまった、余計なことだったかな?
「まぁ、行きたい気持ちはあったよ。でも、兄さんらが出ていった時にこうなる予感はあったで。ただ、爺ちゃんも両親ももう年やで就職は難しいし、家業は生き甲斐やったから」
自分の人生よりも家族のこと優先なんだ。優しい人なんだなぁ。将来、自分が同じように再就職が厳しくなるかもしれないのに。心配になってくる……
「……匠海さんだけ、損していません?」
思わずそんな問いが出てしまって、言ってから後悔した。ちょっと失礼だったかも。
「損かぁ……外から見たらそう見えるやろうな。そう言ってくる人もいるし。けど、不思議と後悔はないんや。多分、どっちをとっても納得も後悔もしたやろし」
そんな風に言えるの、凄い。私だったらどうだろう。想像したけど、兄弟がいないせいかすぐにその問いは迷子になっていた。
「けど、今は継いでよかったと思ってる。農業は性に合ってると思うし、難しい分やり甲斐もあるで。多分、継がんかったらずっと気になって罪悪感持ったと思うし」
「罪悪感?」
「俺が継いだら家族に無理させんかったのに、廃業せんで済んだのにって」
そっか、そんな風に考えちゃうんだ。優しすぎて心配になる。
「まぁ、そういうわけやで、縁談とか気にせんといて。それよりも音羽ちゃんこそ大丈夫か? 変な噂流れて困ってるやろ?」
そう問われたけど……困る? 困ることなんてあったっけ? 匠海さんが気にしていないのなら……
「……別に、困りませんけど」
「え?」
「あの小川さんとかと噂になるのは絶対嫌ですけど、匠海さんみたいなイケメンと噂になるなんて光栄ですよ」
気にしないでほしいとの意を込めてそう言ったのだけど、匠海さんが項垂れていた。小さなため息はきなこのものだろうか。
「それに、今は恋愛する気がないというか。やっと生活の見通しが立ち始めたばかりですし、それに、恋愛って、疲れません?」
「……え? そ、そうなんか?」
物凄く意外だ、という雰囲気が漂ってきた。そんなに変かな?
「だって、凄いパワー要りません? 後輩に彼氏が途切れない子がいたけど、毎日TV電話で話して、週末もずっと一緒だって言っていたんです。さすがにそんな生活、無理かなぁって……」
そんな気力もないし、そもそもずっと誰かと一緒って疲れないのかな? いや、恋するとずっと一緒にいたいと思うものなのかもしれないけど。それに、依存してしまいそうで、それが怖い。
「ま、まぁ、それは、人に寄るんじゃないかな? そうじゃないカップルの方が多いと思うけど」
「そう、ですか。でも、今はそれよりも、趣味の合う人と過ごしている方がいいかなって」
里桜ちゃんとの時間は楽しいし楽だ。友達は欲しいけど、彼氏となるとなぁ……
「音羽ちゃんの趣味はBBQやったっけ」
「そうですね。あとは水族館巡りとか。東京ではよく行っていたので」
懐かしいなぁ、あの頃はその時の気分であちこち行っていたっけ。
「水族館? 音羽ちゃん、水族館好きなんや?」
「好きですよ。あっちにいた時は、仕事で嫌なことがあるとよく行っていましたから」
「だったら今度、一緒に行かん?」
「え?」
思いがけないお誘いに思わず匠海さんを見上げた。懐中電灯の明かりで見えた表情は凄く嬉しそうだった。
「俺、水族館好きなんやけど、周りに好きな奴えんで、なかなか一緒に行ける仲間いなくて」
「いいんですか?」
「ぜんぜん。むしろ一緒に行ってほしい」
「けど、私、運転が……」
こっちでのハードルは運転なんだよね。さすがにずっとお任せするのはさすがに申し訳ないけど、匠海さんを乗せて走るのも、ちょっと……
「それも構わんよ。俺、運転するの好きやし。なんなら東京まで車で行ったことあるで」
「はぁ? 車で、東京?」
信じられない。東京までって、何時間かかると……いや、その前に二人で行くとなるとまた噂が立たない? 大丈夫だと言われたけど……
「だったら、里桜ちゃんにも……」
「あいつ、当分無理やと思うざ。今カニ漁の真っ盛りでかき入れ時やから」
そうだった。当分仕事が忙しいから遊べないと言われたし、メッセージのやり取りも途絶えてたっけ。そうなると二人でってことに、なるけど……
「ジンベイザメいるざ」
「ジンベイちゃん? 行く! 行きます!」
そう言った瞬間、ぱっと明かりが灯り、部屋が明るくなった。




