いざ、私の城へ
会社を辞めると次に待っていたのは引っ越し準備だった。アパートの退去は今月末で残り十日もない。大学進学時からお世話になっているアパートは八畳1K、狭いけど荷造りを始めるとそれなりの荷物があった。
「ベッドがなぁ……」
自分で運ぶなど無謀なので引っ越しは業者を頼むことにした。結構いい値段がするから荷物を減らさないといけない。ベッドとマットレスは諦めるか……でも家電はどうだろう。あるなら要らない? 石橋さんに電話で尋ねたところ明日にでも写真を取って来てくれると言う。フットワーク軽い! そして有り難い!
そして翌日の昼過ぎ、石橋さんからメールがあった。早過ぎて驚きしかないけれど、部屋だけでなく家電の写真も送ってくれた。
「う~ん……」
祖父の家にある家電の方が新しくて高性能だった。だったらここにあるのとはお別れだ。ベッドも。二十九日に荷物を送って引き渡すことにした。服や化粧品などの日用品をスーツケースに詰め込めば、部屋は何もないがらんとした空間に戻った。
「こんなに広かったんだ……」
「そのようじゃなぁ」
きなこと暮らした部屋を眺めた。母は私が二十一の時、交通事故であっけなく逝ってしまった。きなこと出会ったのはその直後で、母と暮らしていた部屋は一人で暮らすには高くペット不可だったからここに引っ越した。
「この部屋にも世話になったな」
「うん。いざ離れるとなると名残惜しいもんだね」
「そうじゃな」
意外にもきなこにも同じ感情があったらしい。まぁ、猫は家に付くというし。
「猫だから寂しいわけではないぞ。お主と過ごした家だから名残惜しいだけじゃ」
心を読まれた? いや、前世と今世でかれこれ十五年以上の付き合いだからわかるものかもしれない。その日はペットと泊まれるホテルで東京最後の夜を過ごした。お金がもったいないから素泊まりにして、食事はコンビニで済ませた。明日はいよいよ祖父の家だ。期待に胸が膨らんだ。
翌日、ホテルを出るとビルの間から青い空が見えた。スーツケースとキャリーケースを手に駅に向かい、新幹線に乗るとホッとした。実は朝からきなこがキャリーケースに入りたくないと言い出して一悶着あったのだ。ケースに入るのは予防接種とか検査で病院に行く時だから嫌な気分になると。まぁ、言いたいことはわかる。
目的地に着いたのはお昼を少し回った頃で、指定された駅の出口から出て目的の車を探した。弁護士が迎えに来て家まで送ってくれるという。私の相続の件で法務局に用事があるからついでだというので甘えることにした。それにしても……蒸し暑い。気温が高い? 雪が降るから涼しいかと思っていたのに……
「シルバーのSUVで、ナンバーは1484ねぇ……」
周囲を見渡す私の前に一台の車が止まった。車から降りてきたのは、サングラスにスキンヘッドの厳つそうな壮年の男性だった。背も高いし日に焼けたその姿は大工とか漁師と言われた方が納得の外見だった。ちょっと怖い、かも……
「あんた、佐野さん? 伊東んとこの」
「……はい。佐野音羽です」
見た目に一瞬焦ったけれど、すぐに何度も聞いた声だと気付いた。サングラスを取ると人懐っこそうな垂れ目が見える。ギャップが凄い……
「石橋謙蔵や。初めましてやな。無事着いてよかったわ」
この人が、祖父が雇ってくれた弁護士。思ってたのと随分違うわ。
「お世話になります。わざわざ来ていただいてすみません」
「あ~だんねぇって、これも淳に頼まれたことやし。荷物はそんだけか?」
えっと……だんねって何? わかるような、わからないような……方言強!
「あ、悪い。方言丸出しじゃわからんかったな」
「すみません。慣れてなくて」
直ぐに普通の言葉に戻してくれた。よかった、意思疎通に齟齬があったら面倒なことになりそうだから。それにしてもイントネーションが何かが違う。でも、田舎暮らしするんだって実感が増した。
そのまま車に乗り、一時間ほど走ると海岸線に出た。リアス海岸っていうのかしら、道はカーブが多くて狭いところは狭いのね。集落が点々とあって、その間からは青い海が見えていた。
「ああ、家、あの看板曲がった先や」
指した先には旅館の看板があった。結構目立つから見落とすことはなさそう。車が曲がった先はすれ違いが出来るかどうかの細い道だった。この先に家が……どれくらい登るのかしら? 歩きじゃ無理そうね。自転車も行きはいいけど帰りは……アシスト付きでもなきゃ途中で行き倒れそう。
「ああ、この辺はもうあんたの土地や」
「ここが?」
「後で図面見てみ。この辺の山一帯、あんたのもんやざ」
景色に気を取られていたけれど、もう祖父の、私の土地だったなんて。ここでようやく地主になったんだと実感が湧いてきた。そっか、ここはもう私の……
「ああ、見えてきた。あれがあんたの家や」
曲がりくねった道を上った先で急に視界が開けた。道はここまででその先は平地になっていて小さな家があった。あれが……今日からの私の住処……
「ああ、ほら、いい眺めやざ」
石橋さんが指さしたのは今来た道の方で、振り返ると……木々の間から青い海が見えた。逆光だけど日差しが海を照らして眩しいほど。青さが東京で見た海と違って、優しい色だ……
「凄い……」
「そうやろ? 夕方はもっと見事や。海が赤く染まる」
夕日が? そういえばこっちでは海に日が沈むんだった。だったら物凄く綺麗な景色が見れそう。やだ、こんな特典があったなんて。やっぱりここに来てよかったわ。
家に入ると玄関の先にアパートから送った荷物が届いていた。早かったわね。それによかったわ、無事届いて。
「ああ、頼まれていた水道と電気、ガスも今日から使えるようにしてあるで」
「何から何までありがとうございます」
すっかり失念していて、昨日石橋さんに改めて聞かれて思い出したのよね。今までは不動産屋がそういうことやってくれていたから考えもしなかったのだけど。
「そやけど、悪ぃがガスは地元の店に頼んだ。他の店やと遠いで来てくれんのやわ」
「そういうことなら仕方ないです。知り合いが誰もいないので助かります」
都市ガスじゃないから何処かの店と契約しなきゃいけないという。土地勘が全くないからむしろありがたいわ。
「じゃ、そろそろ帰るわ。また何かあったら電話して」
「はい。今日は本当にありがとうございました。またわからないことがあったら教えてください」
「ああ。土地継いだもん助けるのも淳の依頼の内やから。困ったことあったら遠慮せんと言ってや」
細々とした説明の後、石橋さんは「戸締りはしっかりな」と言って帰って行った。思った以上に親切で面白い人だった。あの見た目で弁護士だなんて人は見かけによらないものだ。また祖父母や母のこと、教えてもらいたいわ。
「さてと……」
次は家の探検だ。部屋を見て回りながら窓を開けて換気ね。部屋をどう使うか考えないと。
「うわぁ……」
リビングは思った以上に広かった。アパートの部屋が丸ごと入ってしまいそう。それに明るいわ。窓は小さいけど、上の方に採光窓があるせいかしら? 空気が籠って暑かったから窓を開けると、レースのカーテンが揺れた。
「おお、このソファは心地よいぞ」
すかさずきなこがソファに飛び乗っていた。前のアパートでは狭くて買えなかったソファ。しかもその向かい側には壁掛け式の立派なTVがあった。大きいし、高そう……
「うむ。これは楽しめそうじゃな」
早速きなこがTVを付けた。大きいだけでなく画質もいい。きっと前の数倍しそう……きなこはすっかりご満悦だった。
きなこは好きにさせて家の中を見ながら窓を開けて回った。トイレやお風呂、キッチンなどの水回りは新しいし掃除がされているし、冷蔵庫や洗濯機も写真通り大きくて新しかった。冷蔵庫は既に冷やされていて消臭剤だけが残っている。中身は片付けてくれたのね。
二階に登って右手側、玄関側の部屋に入ると広めの洋室だった。カーテン以外には何もなくがらんとしていた。掃き出し窓の先は広めのバルコニーだ。
「うわ……」
窓から外の景色を見て……息を呑む。その先にあったのは青々と水面が光る日本海だった。ここからだと木や藪が邪魔しないからよく見えた。
二階の奥には六畳ほどの部屋が二つあった。奥の一部屋は和室で、部屋の様子からして祖父の私室だったらしく、祖父の服や私物がそのまま残されていた。きちんと整理整頓されている様から祖父は几帳面な人だったようね。
「それにしても……」
間取りからして最初に入った玄関側の部屋が主寝室だと思うのだけど、使った形跡がなかった。だったらその部屋を使わせてもらってもいいわよね。でもベッドがない……こんなことなら捨てなきゃよかった。家中を見て回ったけれど予備の布団もなかった。今夜はリビングのソファで寝るしかなさそうね。
「音羽、暑いぞ」
一通り部屋を見て回った後荷解きをしていると、きなこがソファに座したまま暑さを訴えた。確かに窓を開けていても暑い。それに湿度も高い気がする。海が近いせい? 換気は十分したのでリビングのエアコンをつけた。
「おお、よく効くのう」
尻尾を振りながらきなこはご満悦だ。買い足さなきゃいけないものを考える。ベッドとマットレスは必須よね。これだけ広いとスリッパも欲しいわね。きなこのペットシーツも。それにしても喉が渇いた。あれ、待って……
「おい、音羽。腹が減ったぞ」
「それだ!」
忘れていたわ、お茶もだけど食べるもの、何もないじゃない!




