退職に向けて
それから話は早かった。課長は引き止めたかったようだけど、あの香害男が声高に辞めてくれた方が仕事は捗るなどと言いだしたせいか、思った以上にあっさりと退職願は受理された。課長もさすがにそう言われると引き止めるわけにはいかなかったらしい。
ただ、出来れば残った有休を消化してから辞めたかったのだけど、残念ながらそれは却下されてしまった。課長にはまだ客観性が残っていたようで引継ぎの不安があったらしく、出来る限り実務は華恋に任せ、代わりにマニュアル作りをしてほしいと頼まれた。これからは残業もしなくていいと言われたのもあり、そういうことならと二つ返事でこれ幸いにとマニュアル作りに勤しんでいた。
もっとも、それで万事うまくいくわけでもなく……
「おい、この資料明日の朝一でやっておけよ」
引継ぎが始まってから五日後、香害男が帰宅時間ギリギリに仕事を押し付けてきた。だけど今、実務は華恋の役目だ。
「藤永さん、これ、明日の朝一だって」
華恋が席からこちらを窺っているのが見えたので、笑顔で彼女に仕事を振った。
「おい! 俺はお前にやれって言っているんだよ!」
渋い顔をした華恋に、香害男は大きな声を上げてきた。うるさいなぁ、このコンプライアンスに煩いご時世に大声で強要するなんて。まだ怒鳴ればどうにかなると思っているのか?
「課長の指示ですから。異議があるなら課長にお願いします」
これからは華恋がやらなきゃいけないんだから、しっかり慣れてもらわないとね。この就業時間間際に仕事を振られるのも。
「はぁ? 何を……」
「どんな業務も出来るようにとの課長の指示です。私がいる間に一つでも多くの業務をするようにと」
一月もないからかなり大変だとは思うけれど、それも今までさぼっていたツケだから仕方がない。
「藤永さんも、これからこういうことも多々あるからそのつもりでね。大変だろうけど、慣れれば終電前には帰れるから」
「……え?」
きれいな顔が引きつったけれど、それ、あなたが私にやっていたことだからね。これからは自分がされる側になる気分はどんなものかしら。ああでも、イケメン課長とお近づきになれるいい機会だと思えば頑張れるじゃないかな。
「け、けど……」
さすがに華恋にさせるのは気が引けるようで、目を泳がせながら言葉を探していた。嫌われたくなくて必死だ。
「そんなに仰るならご自身でやったらどうですか? 他の方はご自分でやられていますよ」
「はぁ?」
「就業間際に朝一の仕事を頼んでくるのは、戸田先輩だけだと言っているんです」
他の営業は就業間際に仕事なんか振ってこないし、そんな偉そうな言い方もしない。辞めると決まったら怖くもなんともないし、前世の記憶が戻ったせいか怖いと思っていたものが怖くなくなっていた。あっちの世界の方がずっと厳しかったから。
「なんだと、てめぇ、生意気な!」
「戸田、いい加減にしろ」
思いがけない声に一瞬で肝が冷えた。香害男の視線の先にいたのは……前世の婚約者、だった。スーツの上着を脱いだ姿はワイシャツの白さが映えて爽やかさを増していた。しかし、いつの間に……
「高階さん!」
私たちの様子を窺っていた華恋が弾んだ声で立ち上がって彼の元に向かった。茶の髪を揺らす様は主人を慕う小型犬、チワワとかポメラニアンのように見えた。美人は得だ。そして香害男、ご愁傷さま。恋い焦がれる可愛い華恋ちゃんはエリートイケメンにご執心ですよ。こんな光景も辞めると決まったら腹も立たなかった。だって、どう考えてもこの先、彼らが苦労するのが見えているから。その様が見られないのが何とも残念だ。性格悪いかもしれないけどそれが本音だ。
「な……」
可哀相なのは香害男で、華恋がこいつに向けたことのない笑顔に顔を引き攣らせていた。あの子の関心を買おうと私を利用していたようだけど、これだけ高スペックイケメンが現れちゃ敵わないよね。そもそもこいつの営業成績は残念ながら下から数えた方が断然早いし。あの計算高い華恋がそんな人を相手にするわけがないでしょうに。
「戸田、その物言いはどうかと思うぞ?」
爽やかな表情で香害男を諭した。彼に庇われるなんて不思議な気分だった。
「け、けど、こいつが……」
「その言い方もだ。おまえだのこいつだの、海外じゃ一発アウト、パワハラでコンプラ研修行きだぞ」
「う……」
さすがに来月から上司になる相手には強く言えないらしい。華恋がいるせいもあるだろうけど。その華恋は彼をうっとりと見上げている。
「佐野さん、大丈夫?」
上司になる予定だった男に急に名を呼ばれて顔が引きつりそうになった。平常心平常心……うわ、華恋が凄い目で見てくる。これは私に非はないと思うけど。
「大丈夫です。いつものことなので」
「いつもの?」
「あ、何でもないです。庇ってくださってありがとうございます」
これ以上関わりたくなくて、そのまま背を向けてパソコンに向かった。まだマニュアル作りが終わっていないんだから時間は無駄に出来ないからね。後ろで彼らが話をしていたけれど、もう関係なくなる相手だからと目の前の作業に集中した。
それからは高階氏が時々事務所に現れるようになった。来月からここの長になるから課長から引き継ぎを受けているらしい。華恋が目を輝かせ、戸田が暗い目をしてそんな華恋を見ていた。こいつ、思い込み激しそうだからやばそうだけど、大丈夫かな? そうは思うけれど私が何かを言っても僻みだとしか思われなさそうだし、思わせぶりな態度を取った華恋にも責任はある。それに、こういうことは部外者が口出すことじゃないよね、ということで放っておくことにした。
一方、退職願を出した後、おばさんに連絡をして祖父の山を相続したいのだけどどうだろうかと相談してみた。最初は難色を示されたけれど、会社がブラックで限界だから田舎でゆっくり暮らしたいと言うと、渋々ながらも親戚の人たちに連絡してくれた。最後は祖父が雇った弁護士が相続の手続きをしてくれるらしく、思った以上に手続きはすんなりと進んだ。
「そうそう、あの山の管理だけど、おじいちゃん、地元の森林組合に頼んでいたそうよ」
「森林組合?」
聞けば祖父も体力的な問題もあって森林組合に管理を依頼していたのだとか。その金額は……
「雑木だし、植林にも向かないから税金も安いそうよ。ただ、倒木とかで被害を出さないように気を付けなきゃいけないし、今は不法投棄とかもあるから」
なるほど、弁護士に聞くと確かに税金は安かった。火事や台風なんかの自然災害に備える保険あるらしく、それも安いらしい。それなら絶対に入っておかないと。幸いにも祖父の遺産には現金もあって、それは山林とセットになっていた。相続税もかかるけれど、当面は祖父の預金で何とかなる様になっていた。
「おじいちゃん、山を大切にしていたからねぇ。継いでくれる人の負担を少しでも減らしたかったのかもしれないわねぇ」
有り難いことに金銭的な負担は予想以上に少なかった。それでも皆無というわけじゃなかったけど。
「ああ、それに住んでいた家も定年後にリフォームしたそうよ。まだ十年経ったかどうかだそうよ」
それはこの上もない朗報だった。てっきり昔ながらの古い一軒家だと思っていたから。だったら何とかなりそう。
「それで、音羽ちゃん、仕事はどうするの? あんな田舎じゃ就職先もままならないわよ」
おばさんが眉をしかめながら尋ねてきた。確かにその通りだけど、幸いなことに祖父の預金もあるし私の退職金も少しは出る。それに弁護士に聞いて知ったのだけど、山の一角にある倉庫を貸し出していて月八万の家賃収入があった。あとは地元でパートかバイトをするしかない。店がないから働き先があるか不安だけど。ダメなら少し離れた場所でもいいから働きに出るしかないけど、家賃はいらないし、いずれは庭で野菜も作ろうと思うし、そうなれば贅沢しなきゃ何とかなるんじゃないだろうか。
「困ったことがあったら早めに相談するのよ」
おばさんはそう言ってくれた。ずっと疎遠だったけれど、思った以上にいい人なのかもしれない。
そして、いよいよ迎えた退職日、私は三年余りを過ごした会社を退職した。奇しくもその月はボーナス月で、今にして思えばもう一月ほど待てばよかったかとも思ったけれど、あの職場を去れる解放感と元婚約者と思われる彼が上司になる前に逃げられたことの安堵の方が勝った。




