増長する理事長の姪
いつも通り家の前に車を停める。念のため車の中から周囲を窺ったけれど、特に変わった様子は見られなかった。なにかあったらきなこが動くだろうから、何もなかったのかな? 警戒しながら家に入った。
「ただいま~きなこ、今日、誰か来た?」
リビングの窓際で日向ぼっこをしていたきなこに尋ねた。
「誰も来なかったが。なにかあったか?」
「うん、ここに来るまでの道に水溜りがあったんだけど、そこにタイヤの跡が残っていたから……」
水溜りを踏んだタイヤの跡が残っていたから誰か来たのかと思ったけど、違った? 乾いていなかったからそんなに時間は経っていないと思うんだけど。
「いや、特には気にならなかったが」
「そっか」
家の周りに誰かがうろつけばきなこが気付くはず。だったら途中まで登って来て帰ったってこと? 前に道に迷ってここまで来た人がいたけれど……そういう類の人かな。それならいいけど……念のため戸締りはしっかりしておこう。
翌朝、重い気分で梅沢家に向かった。ハンドルを握る自分の手が見えた。爪の土は綺麗に取ったし、ハンドクリームもたっぷり塗ってから寝た。それでも一晩で綺麗な手に戻るわけじゃない。今になって気にした自分が負けた気がした。それに、尻もちをついた時に掌を擦りむいていた。その傷が痛い……やだ、また腹が立ってきた……
昨日は誰にも話せずに帰ったけれど、一応報告はしておかないと。そう思う時が重かった。匠海さんに言いつけてやると息巻いていたけれど、一晩経って冷静になるとその勢いもどこかに行ってしまったから。経営が厳しい梅沢家にとっては、介護施設という取引先が増えるのは大きな利になるだろうから尚更だ。
「あ、音羽ちゃん、おはよう」
家の前には涼音さんがいて、収穫用のオレンジのカゴを軽トラから降ろしていた。
「おはようございます。わ、栗ですか? こんなにいっぱい!」
カゴには艶々した大粒の栗が詰まっていた。
「ほやざ。2つは納めるけど、1つは家用や」
「家用?」
「栗ご飯にしたり、お正月の栗きんとんやら赤飯に使うんや」
お正月かぁ、そう言えばもう二月ないんだっけ。毎日が楽しくて日が経つのが早い。
「そう言えば保育園、昨日は大丈夫やった?」
やっぱり聞かれるよね。黙っている理由がないので昨日のことを話した。
「介護施設? あそこが?」
「はい。そう言っていました。そこの野菜をうちに頼みたいと」
私がされたことよりも大事なのは今後の取引だ。そう思って施設のことを話したのだけど……
「そんな話、聞いたことないけどなぁ」
「そうなんですか? もう決まったような口調だったけど」
「仮にそうやとしても、無理にあそこの仕事取りたいとは思わんで」
意外にも涼音さんは乗り気じゃなかった。施設なら学校と違って休みなしだし、悪くない話だと思ったんだけど。
「公共のもんやから安く出してるけど、元からあそこはケチやから」
「そ、そうでしたか」
実入りが小さいならそこまで下手に出なくてもいいのかな? それでも最低限の礼儀は必要だろうけど。
「あ、音羽ちゃん、おはよう!」
家から出てきたのは匠海さんだった。その後ろにはお祖父さんもいる。
「おはようございます」
嫌な気分も匠海さんの顔を見たらすっと消えた。かっこいいなぁ、久美さんが好きになる気持ちもわかる。わかるけど、あの人だけは嫌だ。あんな人がこの家に来たら仕事がしにくくなりそうだし。
「あれ、音羽ちゃん、その手、なにした?」
「え?」
匠海さん、目敏い。よく見ているなぁ。いや、絆創膏貼っているし、隠すつもりもなかったけど。
「昨日転んだ時、ちょっと擦りむいちゃって」
「転んだ?」
怪訝そうな目を向けられたけど、カゴを投げられて転んだことを話していいのかな。一瞬迷ったのだけど……
「もしかして、あの女?」
僅かに屈んで顔を覗き込まれてしまった。イケメンの顔が近付いて思わず息を呑む。うう……圧が強い。涼音さんも笑顔でこっちを見ているけど……怒り方がそっくりだった。さすが親子……これ、話さないという選択肢は……はい、無理ですね。そもそも雇用主に逆らえないし。
結局、洗いざらい話す羽目になった。美形二人に詰められて抵抗など出来るはずもない。この二人怖い……勝てる気がしなかった。
「そっか。痛かったやろ?」
また打ち上げの時みたいに笑顔で怒るかと思ったけど、表情は凄く柔らかかった。そのことにホッとした。そっと手を取られて大きな手に心臓が跳ねた。
「だ、大丈夫です。ちょっと擦りむいただけですし、絆創膏はばい菌が入らないようにするためだから」
「そう。でも、今日は泥触らん作業にしような」
「は、はい」
穏やかそうに聞こえる声だけど、有無を言わせない力を感じて素直に応じた。うん、こういう時は逆らわないに限る。イケメンに気遣われる貴重な機会だし。
ところで今日の配達はどうするんだろう……そう思っていたら物凄く申し訳なさそうに配達を頼まれた。
「ごめんな、私が行けたらよかったんやけど、パートさんは休みやし、匠海のお父さんも今週は納品が多いで余裕なくて」
「いえいえ、これくらい大丈夫です」
本音は行きたくないけど、仕事だから感情で否などと言えるはずもない。うう、一度身に付いた社畜根性は簡単には消えないみたいだ。それでも、相手によって仕事ぶりが変わる、なんて梅沢さん家の面々に思われたくないし、あの人の思い通りにするのも癪に障る。車の中で深呼吸をして気合を入れてから向かったのだけど……
「ちょっと。昨日の野菜、腐っていたわよ! どうなってるのよ!」
「……え?」
出てきたあの職員に開口一番、厳しく咎められた。思いがけない突然の指摘に、一瞬何を言われているのかわからなかった。だけど目の前には目を吊り上げて腕を組み仁王立ちしている。野菜が腐っていたって、昨日のが?
「昨日の野菜が、ですか?」
「そうよ。どうなっているのよ、あんたんとこは」
居丈高な物言いに不快感が増したけれど、落ち着け、クレーム対処はまず相手の話を聞くことから、ここで感情的になるわけにはいかない。梅沢さんの面々がそんな不手際をするとは思えない。それに昨日持って行く時に私も確かめたけれど、傷んではいなかった。それは間違いない。
「では、その腐っていた野菜を見せていただけますか?」
「はぁ? そんなもの、とっくに捨てたわよ」
「そうですか。では次回からは捨てずに取っておいていただけますか。そういう契約になっていますから」
「は?」
今度は向こうが気の抜けた声を上げた。言い返されるとは思わなかったらしい。
「契約って、どういうことよ?」
「傷んでいたと言われるまま弁償していてはこちらも商売が成り立ちません。そのため、問題があった食材は翌日そのまま戻していただく約束になっています。補償なりするのは商品を確かめてからになります」
そもそも、そういう場合は直接電話がかかってきて直ぐに代替品を届けることになっている。給食で量が足りないなんて許されないから。
「そんなこと、聞いていないけど」
「契約書にそう明記されています。不審に思われるようでしたらご確認いただけますか?」
そう言うと言葉を詰まらせた。う~ん、これは嘘っぽいなぁ。
「昨日納めたのはほうれん草とネギで、昨日の朝収穫したものです。傷むには早すぎるし、葉の一枚一枚確かめてから出しているので、そんな短時間で腐るとは思えません。保存方法も教えていただけますか?」
「し、知らないわよ、そんなの!」
「そうですか。だったら、どなたかわかる方を……」
「も、もういいわよ! でも、今度同じことをしたら承知しないからね!」
そう言うとズンズンと足音がしそうな勢いで去っていった。う~ん、ますます怪しいなぁ……とりあえず帰ったら報告だけど、これ以上エスカレートしないといいんだけど。
報告をしたら匠海さんが「自分が行く」と言い出したけれど、それは丁重にお断りした。そんな余裕はないし、今のところ嘘なのは間違いない。実際、給食室からそんなクレームは出ていなかったから。次に何かあったら今度こそ動くというのが梅沢家の総意だった。このまま大人しくなってくれることを祈っていたんだけど……
「昨日もらった野菜、また腐っていたわよ。ほら、これが証拠よ」
五日後、納品に行くといきなり何かが飛んできた。咄嗟に受け止めようとして、失敗した。肩とお腹に何かがぶつかった。結構痛いんだけど……何かと思ったらジャガイモだった。痛かったのも納得だけど勿体ない。いや、そうじゃなくて。
「いきなりなにするんですか。危ないじゃないですか」
「なによ、偉そうに。受け取れない方が悪いんでしょ」
少しも悪びれることなくそう言い放った。思った以上に大胆な行動に出て来たなぁ。大丈夫かな、この人。別の意味で心配になった。
「これ、何時納めた品ですか?」
「ああ、三日前にあなたが持ってきたやつよ。もう忘れたの?」
「三日前、ですね。間違いありませんね」
ここは大事なことだから念を押しておく。
「そう言っているでしょ? わかったらさっさと持って帰りなさいな。この件は伯父さんにも報告してあるの。それがどういう意味か、分かるかしら?」
得意げに顎を上げていう様子は滑稽なほどに自信に満ちていた。
「伯父さんは私の言うことなら何でも聞いてくれるのよ、でも、匠海さんが謝りに来てくれたら伯父さんに取り成してあげてもいいわ」
そこまでして匠海さんをここに呼び出したいの? その執着心が気持ち悪かった。
「わかりました。そのように伝えます」
言質は取ったし、証拠の品も手に入れた。だったらこれ以上の長居は無用だよね。今日の分の野菜を渡して園を後にした。




