雨の記憶
三連休の最終日は雨だった。よかった、祭りの日に降らなくて。今日は仕事もお休みなので家でのんびりすることにした。毎週のように会っていた里桜ちゃんから連絡がないので、多分帰省中の友達と会っているんだろう。そこを邪魔する気はないし、たまには一人で過ごしたい。たくさんの人に囲まれて過ごすのに慣れていないから、昨日みたいなイベントの後はちょっと充電したい。
雨音に何もやる気が起きず、ベッドの上でぼ~っと外を眺めていた。寝室の窓からは海が見える。いつもは青々としている水面も今は雨でけぶり、色彩が抜けて輪郭もぼやけて見えるせいか水墨画みたいだ。
ざーっと雨が世界を叩く音に前世が思い出された。あの日もこんな雨だったよね。景色は違っても雨の音は変わらない。
「きなこ~~」
なにがどうというわけじゃない。でも、空虚に向かいそうになる心を押し留めたくて、あの記憶を共有する存在を抱きしめた。ふわふわした毛並みに顔を埋める。
「どうした、急に?」
「……雨だから」
「なんじゃ、それは」
呆れたようにそう言いながらも好きにさせてくれるのは私の言いたいことをわかってくれていたからだと思いたい。私よりも高い体温が冷えそうになった心を温めてくれた。記憶が戻るまでは好きだった雨も雨の音も、今は心を虚しくしてくるから苦手だ。誰かと一緒に過ごせたら少しはマシなんだろうけど、こんな時に限って誰もいないんだよね。いや、今日は誰とも会いたくないんだけど。
こんなに感傷的になったのは、否、前世のことを思い出したのは、昨日あの人からメールが来ていたせいだろう。システム管理部に頼んであった、私が作ったマニュアルを共有フォルダから消した人物がわかったというもので、案の定犯人は華恋だった。最初は白を切っていたあの子だったけれど、華恋が「自分で作った」とあの人に提出したマニュアルが、実は私が作ったそれとまったく同じだったことを指摘されると、渋々ながらも認めたという。
マニュアルを消すだけでなく、私が作ったものを自分で作ったと言って提出した根性に呆れしかなかった。まぁ、あの子がやったんだろうと思っていたから「やっぱり」との感想しかなかったけど、そこまで性根が腐っていたとは思わなかった。
その華恋は周囲からの冷たい視線に耐え切れず、今月で退職するという。坂下課長の元ではお得意の甘え攻撃も利かず、仕事が出来ないことを指摘される毎日ですっかり精彩を欠いているのだとか。正直、ざまぁみろとしか思わなかった。
因みに山田課長は管理職としての適性なしとして降格処分になり、それが不満で早々に退職していったとか。一方の香害男は地方に飛ばされたけれど、こっちも厳しい所長と連帯感の強いメンバーの中で孤立し、半月ほどで出社拒否になってしまい、最後は無断欠勤を理由に解雇になったとか。こっちも華恋と同じでざまぁみろと思ったけど、だからといって私に利があるわけでもない。ただ、あの人との縁が切れたことにはホッとした。それだけだ。
「……東京に、戻りたいかも」
「何を言うておる?」
「だって、変な噂流されるから」
気にならなかったはずなのに、直接そう言われ、それを真に受けて近付こうとする存在があったことが思った以上に心に重く圧し掛かっていた。時間が経って考える時間が増したせいかもしれないけど。それにしたって面倒臭いことこの上ない。東京じゃ他人のことなんて誰も気にしていなかった。いや、会社で噂は流れていたし、幸いにも悪質な噂が耳に届かなかっただけかもしれないけれど、少なくとも家に帰ればそういうしがらみはなかったと思う。隣がどんな人かなんて、誰も気にしていなかったし。
「噂は噂、そんなものでお主の本質が歪められるわけではなかろう」
「それはそうなんだけど。でも……」
前世はそれで追い詰められて破滅したから不安が増す。東京とここでは一人ぼっちの意味合いが違い過ぎる気がする。
「好きにするがよい。お主が戻るというのならわしは一緒に行くだけじゃ」
「付いてきてくれるの?」
「愚問じゃな。そんな風に言われるとは心外じゃ」
「ご、ごめん」
試すようなことを言いたかったわけじゃなかったのに。そんな言葉が出てしまったのはきっと雨のせいだ。
「詫びはカツオのたたきで手を打ってやる」
「……好きだねぇ」
「お主も好きなものを食えば元気が出るじゃろう」
「そう、だね」
でも、今日はBBQをする気がしない。雨なのもあるけど。再びきなこのお腹に顔を当てた。いつもの匂いにささくれた気分が解れていく。
「少し休め。疲れたんじゃろ」
「……ん」
珍しい、いつもは早く起きろ、腹が減ったと言うのに。でもその気持ちが嬉しい。しっかり寝たらこんな嫌な気持ちも消えているはず。そう願いながら目を閉じた。
「ん~頭、痛ぁ……」
目が覚めたら頭が痛くて寒かった。マズい、この感覚って……
「……38度、5分かぁ」
久しぶりに熱が出た。風邪をひいたらしい。ここ一年、風邪なんか引かなかったのに……祝日だから医者は休みだし、そもそもこの辺りに医者がいるのかもわからない。考えるのも面倒だ……
「寝ているしかあるまい。薬はあるのか?」
「あったっけ……え~っと、どこ片付けたかなぁ」
引っ越しした時に何処かにまとめたはずだけど、思い出せない……探しに行くのも億劫だし。頭は痛いけど他は痛みもないし、吐き気もなく咳も出ない。うん、面倒だから寝よう。そのうち治るだろう。いつも寝ていれば治ったし。
「治癒魔術は使えんのか?」
「使えるかもしれないけど……熱を下げるほどの効果は出ないと思う……」
「だったら寝ているしかないな」
「うん、なにかあったら起こして」
動きたくない。きなこにペットボトルのお茶を持ってきてもらって掛け布団を頭からかぶった。明日は美容室に行く予定だから下がってほしいなぁ……仕事もあるし。秋野菜が出始めて忙しくなっていたところだし、有休とかないから休んだらその分収入が……まぁ、そこはいいんだけど。美容室の電話番号、何番だったっけ? いや、それは明日でいいかな。きなこのご飯は……自分でするって言っていたっけ。だったらいいか。うん、寝よう……
「……は、音羽や」
「……ん」
きなこの声がするけれど、頭がぼ~っとして動きたくない。生返事でごめんと思いながらも瞼が上がらなかった。眠いし……
「きなこ……」
「なんじゃ」
「……寒い」
掛け布団を被っているのに温かくない。むしろ寒い。きなこが布団に入り込んできた。僅かな隙間から入る風が冷たく感じたけど、懐に寄り添ってくれる身体は温かかった。
「風邪、うつさないかな」
「猫ではないから大丈夫だろう」
「そっか……」
だったらいいかな。温かいし。胸元に抱きしめて目を閉じた。何時だろ……明るいからまだ夜じゃないよね。
それからも熱は下がらず、食欲もなかったからペットボトルのお茶だけ飲んでその日が終わった。丸一日食べなかったなんて久しぶりだ。まぁ、昨日は食べ過ぎたからちょうどよかったかもしれない。そう思うことにした。作る気も起きなかったのもある。
翌朝になると熱は下がっていた。ちょっと怠いのは昨日一日寝ていたのと、何も食べなかったからだろう。食欲がないけど、食べないと仕事中に力尽きそうだしなぁ……
考えた末、温めた牛乳を飲んだら気が済んでしまった。お腹が空いたら休憩の時に食べればいいか。あそこの休憩のおやつは豪勢だから。
「行ってくるね」
「付いて行かなくていいのか?」
「熱は下がったし、大丈夫だよ」
さすがに職場に猫を連れて行くのも変かと思い、最近はずっとお留守番だ。その間はあんこと一緒にTVを見たり、外に出て見回りをしたりしているらしい。なんだかんだ言ってきなこはあんこに甘いと思う。きなこ曰く、使えるものを上手く使っているだけらしいけど。
外に出ると小雨だった。そのせいと日の出が遅くなったのもあって外は暗かった。それにしても今日はちょっと寒いかも。作業服の下に長袖を着て正解だった。今日は一日雨らしいからハウスで収穫か袋詰めかな。怠いから座り仕事の袋詰めがいいなぁ。
そんなことを考えながら車を走らせると梅沢さん家に着いた。
「あ、音羽ちゃん、おはよう。昨日はごめんな」
屋根付きの駐車場で荷物を運んでいる匠海さんが声をかけてきた。いつもの作業着姿に何故かホッとする。手招きされたのでそちらに向かった。屋根付きの駐車場っていいなぁ。私も欲しい……
「いえ、こちらこそ庇ってくれてありがとうございます」
「いや、間に合わんくてごめん。あの人の酒癖の悪さ知っていたで、さっさと酔い潰す予定やったんやけど」
あの男性、しっかり日本酒を進めていたから最初からその予定だったんだ。つまり毎回集まりに出てきたら酔い潰して無力化していたと。相当嫌われているんだなぁ……私も嫌いだけど……
「音羽ちゃん?」
「……はい?」
名前を呼ばれて、じっと見られたけど……何?
「ちょっとごめん」
そう言われて何が?と思っている間に影が差した。額がひんやりした。気持ちいい……
「音羽ちゃん、熱あるやんか! 母さん!」
「え? 熱って? 音羽ちゃん、大丈夫か?」
奥から涼音さんが出てきて俄かに周りが騒がしくなったけど……熱って……下がったんじゃなかったの?




