初めての釣り
青い空に筆で撫でたような薄い雲、日差しを受けた海は紺碧に染まり水面が煌めく。私は今、四方を海に囲まれていた。
「音羽ちゃん、船酔いは大丈夫そう?」
「大丈夫、そうです」
生まれて初めての釣り船は遊覧船とはまた違う揺れを生み出しているように感じられた。いや、遊覧船に乗ったのは高校の修学旅行以来だから記憶も薄れて判別にしようもないけれど。それでも、出向してから30分の今、吐き気が襲ってくる様子はなかった。そのことに深く安堵する。
出勤時間と同じ時間に集合と言われたその日、里桜さんに釣りに誘われて意気揚々と出かけた私だったけれど、いきなり船釣りだと言われて面食らったのはほんの少し前のこと。
「えええ? 私、釣り具を手にしたこともないのに? いきなり船?」
「大丈夫。道具も全部貸してあげるし、ちゃんと教えてあげるから!」
そう言われてしまえば今更帰るとも言えない。何と言ってもここでは数少ない同年代女子、それに全く興味がなかったわけじゃない。いや、不安はあるけど。
結局押し切られて船に乗せられて今に至る。彼女の助言通りTシャツの上にはラッシュガード、作業着を買った店で一緒に買ったカーゴパンツにツバが大きめの帽子とスニーカー。そして貸してもらったライフジャケット。長靴も念のため持参している。
参加者の殆どは壮年の男性で、女性は私たちを入れて4人だけど私たち以外は男性たちの奥さんっぽい。それだけで浮いた感じだけど、服装的には大丈夫そうだった。むしろ短パンにタイツの里桜ちゃんが目立っている。背が高いからモデルさんのようだ。羨ましい……
船の速さにちょっと引き気味だったけれど、慣れて来ると爽快感というか疾走感が気持ちいい。ちなみにこの船は里桜ちゃんのお祖父さんの持ち物で、普段は漁にも使っているけれど、休みの日などは釣り愛好家を乗せて海に出るという。船長は当然ながら彼女のお祖父さんで、背は高くないけれど日に焼けてがっしりした体格の人だった。同じ日焼けしている梅沢家とは雰囲気が違うかも。
「音羽ちゃんや、辛くなったら早めに言えや」
里桜ちゃんが道具の準備をしているとお祖父さんから声をかけられた。この人も距離が近いようで挨拶した直後からちゃん付けで呼ばれている。う~ん、梅沢家の男性陣は匠海さんを除いて寡黙だけど、この人は逆っぽい。さっきからお客さんともず~っと喋っているし。そういう意味では話しかけ易いかも。
程なくして船の進みが落ちて、そのうち停まった。乗客が竿を手にし、船べりに立って竿を振った。
「音羽ちゃんはこれね」
そう言って渡されたのは一本の竿。リールが付いていて、糸の先には網状のカゴがあり、その先には飾りの付いた針が並んでいて、最後に重りが付いていた。えっと……?
「これ、サビキ用や。初心者でも楽しめるから音羽ちゃんでも釣れるよ」
「あ、ありがと」
なるほど、よくわからないけれど里桜ちゃんがそう言うのならそうなのだろう。サビキが何のことかわからないから後で調べてみよう。そうしている間に糸に付いている小さなカゴに里桜ちゃんが何かを入れた。
「それは?」
「ああ、オキアミっていうちっこい海老。これで魚を集めるや」
なるほど、餌を撒いて魚を呼ぶのか。でも、こんなに入れたら魚はそれだけで満足しないのかな? いや、海は広いから魚はいっぱいいるのかもしれないけれど。そう思っていたらあちこちから声が上がった。そっちを見ると竿がしなっているから魚が食いついたらしい。凄い、まだ始まったばかりなのに。
「さ、これでいいよ。無理に遠くに投げなくてもいいから」
「う、うん」
言われた通りに海に向かって軽く竿を振る。これでいいのかな? お手本がほしい……
「そう、それでいいよ。タナまで落としてね」
「タナ?」
「魚がいる水深のこと。軽くなったら言ってね。重りが底に届いたってことだから」
軽くって……情報量に戸惑っていたらふっと軽くなった。これのこと?
「軽くなったよ」
「だったらリールを7回くらい巻いて」
「こ、こう?」
「うん、いい感じ。竿の持ち方はこうで、角度はこのくらいね」
まさに手取り足取りの状態で教えてもらった。言われた通りにするのに必死だけど、なんか楽しい……そうしている間にあちこちで成果が上がったようで歓声が上がっていた。海のど真ん中でこの一画だけが賑やかで別世界だなぁ。私にも1匹くらい釣れたらいいんだけど……
「はぁ?」
突然引っ張られる感覚がして変な声が出てしまった。凄い力で今にも竿を持って行かれそう……
「り、里桜ちゃん!」
これ、どうしたらいいの? そうは思うけど名を呼ぶだけで精一杯だった。
「わ、もう掛った? 音羽ちゃん、筋いいかも」
「それよりも、これどうしたらいい? 持って行かれそうなんだけど!」
褒められるよりもこれをどうにかしてほしい。力が凄くて限界なんですけど……! そうは思うのに里桜ちゃんは横で指示を出すだけで手を貸してくれなかった。言われた通りにこなすのに精いっぱいだし、何なら指示の意味が全く分かんない。それでも……
「つ、釣れた……?」
数十分の格闘はほんの数分だったかもしれないけれど、私には長く感じた。それでも……必死に巻いた糸の先には……魚が2匹、くっ付いていた。うそ、私この2匹を相手にしていた? だったらあの力も納得だ。里桜ちゃんがてきぱきと魚から針を外していく、手慣れているなぁ……針はちょっと痛そうで魚に申し訳ない気がした。目が合ったからかもしれないけれど。
「これ、何?」
「アジやね。わ、こっちは20、いや25近くあるね。大物や」
一匹は手のひらに載るほどの大きさだったけれど、もう一匹は想像していたよりも大きかった。まさか釣れるとは……これがビギナーズラック? それからも「里桜ちゃんが仕掛けを作ってくれて私がそれを投入する」を繰り返した。面白い。でも……
「里桜ちゃん全然釣っていないよね? いいの?」
「いいのいいの、私は何時でも釣れるから。今日は音羽ちゃんを釣り沼に落とすのが最優先事項だから!」
どうやら釣り仲間を得る方が重要らしい。有り難いというべきか、いや、そこまではさすがに考えていないですよと正直に言うべきか……でも、何度かやってみないとわからないよね。家に道具があるし、せっかくのご厚意なので色々尋ねながら今日を堪能した。
あっという間に時間が経ち、陽光が真上から降り注いでいた。海面に反射して想像以上に眩しい……里桜ちゃんを始めとした乗客がサングラスをしている意味が分かった。今度があればサングラスを持ってこよう。
「結構釣れたね~」
「うん、こんなに釣れると思わなかった……」
正直言ってこんなに釣れると思わなかった。結局あれから何度も魚が掛かって、アジやサバ、イサキやカサゴだけでなく、名前のわからない魚も釣れた。中にはそのまま海に返したものもあるけど、30匹くらいは釣ったように思う。どれも20㎝もいかないものばかりで、最初に釣ったアジが一番大きかった。それでも、初めてだから釣れないだろうと思っていただけに驚きしかない。
今日は午前中のコースだったのでここで終わりだ。名残惜しいけれど体力的には限界だった。普段使わない筋肉を多大に使った。腕なんか明日は絶対に筋肉痛だ。梅沢家での仕事で少しは鍛えられたと思っていたけれど、使う筋肉が違う。そして日にも焼けた。海、侮り難し……!
「さ、これ、どうして食べたい?」
「魚はさっぱり……むしろ教えてほしい」
「そっか。そうだねぇ、この大物は刺身がお勧め。やっぱ新鮮なのは生でいただくのが一番だよ。小さいアジは南蛮漬けが定番だけど……下ろして塩振って焼くだけでも美味しいよ」
「塩焼き?」
それなら炭火で焼けそう? 聞けば他の魚も塩焼きで美味しく食べられるという。だったらそれをしない理由はない。
「里桜ちゃん、今日の予定は?」
「え~特にないよ」
「だったら家で一緒に食べない? 魚の捌き方も教えてほしい」
「もっちろん」
こうして我が家での魚の捌き方教室とBBQが決まった。私のワンボックスで共に我が家に向かう。
「相変わらずだね~この道も」
助手席の里桜ちゃんが周囲を見ながらしみじみと言った。
「そう?」
「うん。何度か伊東のおんちゃんの家には行ったことがあるんだ。お祖父ちゃんと仲良かったから」
そっか、里桜ちゃんは我が家が初めてじゃないのか。祖父とのことを知っているのなら、そのうちどんな人だったのか聞いてみたい。
「それって釣り仲間で?」
「そう。おんちゃんもよく船釣りしていたよ。石塚のおんちゃんと一緒に」
里桜ちゃんのお祖父さんと祖父、そして石塚さんの三人は釣り仲間で仲がよかったという。里桜ちゃんのお祖父さんの顔が浮かんだ。最初から好意的だったし、ちゃん付けで呼んでくれたのはそれもあったのかな? 母のこともあってか梅沢さんのところのパートさんは余所余所しいだけにその差が際立った。う~ん、もしかして梅沢のお祖父さんと祖父は仲がよくなかった? 意地悪はされていないからいいけど……そのうちこれも里桜ちゃんに聞いてみよう。




