彼らの顛末と新たな問題
「えっと……俺、そろそろ帰った方がよくない?」
声を上げたのはおかきを食べながらきなこの背を撫でていた匠海さんだった。さっきから居心地悪そうにしていたけれど、ちょっとした間が出来た隙に帰宅宣言をされてしまった。困る、今出ていかれるのは物凄く困る……課長と二人きりなんて絶対に遠慮したい。仮にあの人に前世の記憶があったとしても、言い出すタイミングを与えずに二度と会わなきゃ問題ないはず。どうしたらいい? 引き止めるのも不自然だし……
「にゃぁ」
きなこが姿を消したと思ったら、何かを咥え戻ってきた。あれって……
「ええ? これで遊べって?」
「にゃあ」
再び匠海さんの膝に乗ると、口に咥えた猫じゃらしもどきを匠海さんの手に押し付ける。きなこ、さすがにちょっとやり過ぎじゃ……そう思ったのだけど……
「え? 遊んでいいんか?」
匠海さんの目がキラキラしていた。えええ? もしかして匠海さん、猫好き? きなこがまた「にゃぁ」と鳴いてリビングの反対側に向かうと匠海さんがその後を追った。座り込んで猫じゃらしを振り出すときなこがそれを追いかける。いいのか、きなこ。いや、ありがたいけれど。
ふと視線を感じて振り返ると、課長と目が合った。うう、なんか気まずい……
「彼、いい人だね」
「え? あ、そうですね」
「猫があんなに懐くなんて……羨ましいよ」
課長は猫じゃらし遊びに興じる一人と一匹を、羨ましそうに見ていた。
「課長、猫好きだったんですか」
「動物は何でも好きだよ。昔は犬も猫も飼っていたし。でも、猫はなかなか懐いてくれなくて」
「そ、そうですか」
犬と違って猫はなかなか懐かないよね。きなこは最初から懐いてくれていたけどあれは前世の記憶がきなこにあったから例外だ。しかし意外だ、動物好きには見えなかったから。
「以前、猫を飼おうと思ったんだけど、周りに反対されてね」
「反対、ですか?」
眉が下がって寂しそうな笑顔になった。そこまで好きだったとは。
「ああ、帰るのも遅いし休日出勤も多い。構えないんじゃ猫が可哀相だと」
「そ、そうですね」
あ~確かにそれはあるかもしれない。私もきなこを拾ったまではよかったけど、全然構えない時期があったから。病気とかしなかったからよかったものの、動物病院に駆け込む事態もあり得たんだよね。まぁ、あの子の場合、そんな心配は無用だったけど。
「ああ、すまない。あいつらのその後だけど」
「あ、はい」
「戸田は後輩への高圧的な態度が問題視されて、ハラスメント研修を受けた後、地方に異動になったんだ」
「それは、平和になったでしょうね」
静かになっただろうなぁ。声もデカいから顧客との会話も丸聞こえだった。お陰で他の営業が顧客に電話するのを控えていたくらいだし。でも異動先は大丈夫なのかな。
「新しい部署は厳しくて有名な所長がいるところでね。少人数だし、結束が強い地域だからもう無茶なことは言えないだろう」
そっか、そういうところなら大丈夫かな。華恋とも離されて不本意だっただろうなぁ。変にプライドだけは高かったからそのうち辞めそうだけど。
「あと藤永だが、彼女は坂下課長の下に入った」
「坂下課長?」
思わず声が大きくなってしまったけれど、坂下さんと言えば営業五課のシゴデキ課長だ。三十代前半で営業成績は優秀、自分に厳しく周りにも高いレベルを要求することで有名だ。女性、しかも美人だから華恋が媚びる余地が一切ない。あ~あの子にとっては一番嫌な相手かもしれない。
「それは……ご愁傷様ですね」
「ああ。以前はあちこちの部署で油を売っていたようだけど、今はそんな暇もなくデスクに張り付いているよ」
目の下に隈を作って髪を振り乱す華恋の姿が浮かんだ。坂下課長かぁ、あの人の下じゃ周りの男性に頼れないよね。それを許す人とも思えないし。
「君が、辞める前に対処出来たらよかったんだが……」
「お、お気遣いありがとうございます。でも、仮に改善されていても、ここに移住したと思いますから」
この人がいるとわかった以上、職場の環境がよくても辞めたと思う。過去は過去、今は今だけど、嫌な記憶を思い出す相手と一緒に働くなんてごめんだ。いや、今の彼には何の罪もないんだけど。これは単なる感情の問題だ。
「よかったです。これで周りの人も働きやすくなったでしょうから」
「はは、皆もそう言ってくれているよ」
そうだろうなぁ、戸田も上司や先輩には卑屈なくらいに媚び売っていたから、上からの受けはよかったんだよね。成績は悪かったけど。
「ところで、お願いがあるんだが……」
「お願い、ですか?」
お願いって、何? 一気に警戒感がせり上がってきた。
「何でしょう? 内容によりますが」
「その、連絡先を交換したいんだ」
「連絡先、ですか?」
なんでそうなる――!? もう辞めたんだから放っておいてほしいんですけど!
「す、すまない。辞めた君にお願いすることじゃないとは思うんだが、その、戸田の顧客の情報に不安があって……」
申し訳なさそうな表情が一層深まった。この人、こんな表情もするんだ。いや、前世とは顔が違うんだけど、そういう表情は見せない人だと思っていた。
「でも、ちゃんと引継ぎ用のマニュアル作っておきましたけど?」
「マニュアル?」
怪訝な顔をされてしまったけど……え? どういうこと? 作ったよ、マニュアル。
「山田課長に有給消化を認められなくて、最後の月はマニュアル作りをしていました。そこに各社の情報などもまとめておきましたけど」
そう告げると一層眉間の皺が深くなったけど、もしかして、気付いてない?
「共有フォルダに、入れておきましたけど?」
「三課の?」
「はい。三課の中にマニュアルという名のフォルダを作って、そこに」
あったよ、作ったよ。華恋には何度も説明したし、山田課長にだって報告したし。
「山田課長と藤永さんは知っているはずです。あの子に、わからないことがあったらここを見てって言っておきましたから」
「藤永さんに? でも彼女、君が何の情報も残さず辞めたと……」
「はぁああああ!?」
思わず大きな声が出てしまって、匠海さんときなこがこっちを向いた。何でもないとの意を込めて手を振ると、きなこが隙ありと言わんばかりに猫じゃらしに食いついた。
しかし、あんの小娘、最後の最後まで私を馬鹿にしやがって……三年ほどしか勤めなかったけれど、私だってそれなりに矜持を持って仕事をしていた。あの子が困らないよう考えに考えてわかりやすく作ったのに、辞めた後もそんな悪評を広めていたなんて……
「そんなはずありません。半月近くかけて作ったんですよ」
「だが、確かに共有フォルダには……」
まさかあの子、フォルダごと消しちゃったの? 信じられない……
「あ! 私が使っていたパソコン、今は誰が?」
「ああ、補充が出来ていないからまだ誰も……」
「だったら、私が使っていたパソコンを見てください。そこに原本が残っているはずです」
誰が使うかわからないけれど、後任になった人が困らないよう念のため残しておいた。
「わかった。調べてみる」
「お願いします」
「しかし、一体誰が……まさか藤永が……」
「あ~やりそうですよねぇ、あの子なら」
その上で「課長~助けてくださぁ~い」とか言ってこの人に泣きつくつもりだったんだろう。それで山田課長も戸田も骨抜きだったし。でも、勤務中に作ったマニュアルを消すって、会社に損害を与えたことになるんじゃ……
「そういう子だったのか」
「そういう子だったんです」
まぁ、男性は気付かないよね、特に狙った男性にはいい顔しか見せないから。
「わかった。帰ったらすぐに調べると約束しよう。君の名誉のためにも」
不本意だけど、この件の顛末が知りたくて連絡先を交換してしまった。だけど、あのマニュアルは私の三年間の集大成だった。そりゃあ、他人から見たら大袈裟だと思うかもしれないけれど、私なりに頑張ったんだぞ。それを蔑ろにされて黙っているわけにはいかない。それでも、渡した連絡先は誰もが使っているSNSアプリではなく、今はほとんど使っていないメインではないメルアドにした。これならこの件が片付いた後にメルアドを削除すれば接点はなくなる。
「あ、俺、そろそろ行かないと。この後婆ちゃんにお使い頼まれてたんだ」
えええ、匠海さん、ここで帰っちゃうの? だったらこの人も……
「どうする? 今なら送っていけますけど?」
匠海さんが話しかけたのは課長だった。匠海さん、ナイス!
「課長、その方がいいですよ。私、ペーパードライバーで今特訓中なので、安全を保障出来ませんから」
これは事実だから嘘ではない。いや、早く帰ってほしいのが本音だけど。
「そうか。だったら、お願いしてもいいだろうか?」
「もちろん」
匠海さんの超コミュ力に感謝しかない。だけど私の運転が危ういのは事実だ。課長だってこんな田舎で事故りたくないだろう。
「では、また」
そう言って課長は匠海さんと共に帰ってくれた。よかった、長居されなくて。
「きなこ~ありがとう~色々助かったよ~」
匠海さんの軽トラックが見えなくなると、相棒を抱きしめた。
「うむ、わしに感謝するんだぞ」
「もちろん。今度の買い出しではカツオのたたき、必ず買うから」
「忘れるでないぞ」
カツオのたたきで済むならいくらでも買っちゃう。さすがに遠征と思いがけない来客に疲れ果てて、その日はBBQをする気力も失せて早々にベッドにもぐりこんだ。もう二度と会うことがありませんようにとの願をかけて。




