訪問の理由
きなこの低く唸るような声と、薄く犬歯をのぞかせる様子に強い警戒を感じた。この子がそんな風に威嚇を露にする相手は……ある人物の顔が脳裏に過った。だけど、もう接点はなくなっていたはず……なのに、どうして……
そんなことを考えている間も車は家に近づき、いつもの場所へと辿り着く。匠海さんが軽トラから降りてきて、その助手席から別の男性が下りてきた。その姿に息を呑む。
「高階、課長……」
どうしてあの人がここに? しかも匠海さんと一緒って……あの二人に接点なんかあったの? 思いがけない組み合わせなのもあって警戒心が一気に増した。どういうこと? 彼は過去を覚えているの? 何のためにこんな田舎までやってきた? 匠海さんはどうしてここにいるの? あの人と知り合いだった? いくつも疑問が湧いて出るけれど推測出来るものが何もない。
「音羽、気を抜くなよ」
「う、うん……」
もうとっくに過去に追いやったはずの人物に動揺している。だけど、そんな風に見られるわけにはいかない。
「音羽ちゃん、ちょうどよかった!」
匠海さんが笑顔で手を振りながらこちらに向かってきた。どうしてこの二人がとも思ったけれど、匠海さんの性格からして何となく察しがついた。
「匠海さん、どうしたの? どうしてこの人と?」
無視するわけにもいかず課長に視線を向けると、こちらに向かいながら会釈してきたのでこっちも軽く頭を下げ返した。一応元上司、前世の記憶があるなしに関係なく同じ会社にいた者としての態度は崩せない。
「ああ、親戚ん家まで爺ちゃんを送っていく時に見かけたんや」
カラッとした笑顔でそう言われた。
「最初は帰省の人かと思たんやけど、帰ってくる際に音羽ちゃん家の方に登って行くのが見えて。知り合いならいいけど迷子やったら大変やと思って声かけたら、音羽ちゃんの前の職場の人や言うで、それで連れて来たんや」
「それは……ありがとうございます」
さすがに余計なことを、と言うわけにもいかずお礼を言った。匠海さんの親切なところ、私も随分助けられているから。もしそれがなかったらここでの生活、早々に心折れていたかもしれないくらいにはお世話になっているもんね。
「久しぶりだね、佐野さん」
「高階課長、ご無沙汰しておりました。どうしてこちらに?」
こっちもにこやかな笑顔を向けて来た。これだけ暑いのに汗一つかいていないような爽やかさだけど警戒心が拭えない。記憶があるの? ないの? 何をしに来た? 今すぐその頭の中を覗いてやりたい……
「いや~すれ違わなくてよかったわ。じゃ、俺はこれで」
そう言うと匠海さんが帰ろうとしたけれど……待て待て待て、帰っちゃったらこの人と二人きりになっちゃうじゃない! それはさすがに遠慮したい!
「た、匠海さん、せっかく来ていただいたし、お茶くらい飲んでいってくださいよ」
「え? そやけど……」
匠海さんがちらっと彼を見た。一応会社の上司と部下だから気を遣ってくれた? でも今はその気遣い捨てていいから! そんな匠海さんの足元にきなこが身体をこすり付けてから見上げて「にゃぁ」と鳴いた。うん、どこからどう見ても普通の猫だ。きなこ、ナイスアシスト! さすがきなこ、空気読むのが上手すぎる。何とか引き止めたいと思った私の気持ちを察して動いてくれた。
「きなこもそう言っていますから」
「えええ?」
「ふふっ、この子がこんな風に誰かに懐くの、初めて見ました。さぁ、暑いから中へどうぞ」
あの人を家に入れたくはないけれど、さすがにここで追い返すわけにもいかないよねぇ。くそう、一人で押しかけて来たのなら他人の振りするか居留守で乗り切ったのに……こうなったら匠海さんに同席してもらうしかないし、話が終わったら連れて帰ってほしい。こんな高給取り、私の運転で怪我でもさせたら洒落にならない。いや、一応任意保険は入っているけど。
幸いというべきか、エアコンは帰る頃には涼しくなっているようタイマーを掛けておいたからリビングは涼しかった。二人をソファに座らせてお茶を出し、買ってきた食材を先に冷蔵庫に移させてもらった。きなこは匠海さんの膝の上で、帰らないようしっかり押さえ込んでいる。さすがきなこ、抜かりはない。
しかし、あの人、わざわざこんな田舎まで何しに来たんだろう。いや、今はお盆休暇中だけど。こうなったら匠海さんが帰ると言い出す前に話を終わらせないと。さっき買ってきた割れせんべいを茶菓子に出した。
「あ、山川のおかきや。これ、ようけ入ってて安くてうまいんや」
匠海さんが嬉しそうに手を伸ばした。スーパーのレジ近くでドカンと置いてあったんだけど地元のだったのか。訳ありで量も多くて安かったから酒の肴にいいかな~と思って買ったんだけど。
「それで、課長、一体こんな田舎まで何用で?」
匠海さんに続いておかきに手を出した課長に尋ねた。何か不備でもあったっけ? 備品は全部返したし、総務から退職手続き完了のメールは貰ったけど。とにかくどうやってここまで来たのか知らないけれど、車じゃないならバスかタクシーだよね? バスなんてこの辺通っていたっけ? とにかく早く帰ってもらわねば。
「あ、ああ。先ずはこれを」
そう言って取り出したのは……離職票と判の押された大判の封筒だった。そういえば退職後に送るってメールにあったっけ。すっかり忘れていた。でも……
「まさか、これを届けるためにわざわざ?」
こんなもん、郵送でいいでしょうに。確かにぽつんと一軒家だけど、郵便物はちゃんと届きますけど。
「あ、ああ。今日はその、謝罪も兼ねて」
「……謝罪?」
思わず声が固くなってしまった。謝罪って……まさか……前世の記憶が一気に頭の中を駆け巡る。もう思い出したくない、嫌な感情しか残っていない過去。今更謝られても……
「その、戸田と藤永のことだ。あの二人は君に仕事を押し付けていたのだろう?」
「……はぁ」
思わず気の抜けた声が出てしまった。なぁんだ、香害男と華恋のことかぁ……警戒して損した。
「君が辞めた後、あの二人の粗が次々と表に出て。戸田は担当していた顧客の半分から担当を変えてほしいとクレームが来て大騒ぎになったんだ。藤永もだ。仕事を引き受けては他の奴にやらせて自分がやったように見せかけていて、周りから顰蹙を買って大騒ぎになったんだ」
「あ~やっぱり。そうなるでしょうねぇ」
それはご愁傷様だけど、二人共予想通りの未来に突っ込んでいたんだ。そりゃあ、さぞかし面白い、いや大変なことになっただろう。
「君が辞めた理由も、それだったか」
「はい。何度も山田課長に何とかしてほしい、これ以上は無理だと言いましたが、一向に改善されなかったので」
華恋に強く言えなくて、なあなあでやってきた結果があれだったからね。
「やっぱりそうだったのか。いや、俺が課長になってからあの二人への苦情が次々に上がってきて、それで部内の調査をしたんだ。そうしたら……」
「出るわ出るわ、パワハラの数々が、ですか?」
「……まったくその通りだ」
課長ががっくりと肩を落とした。なるほど、さすがに他の営業たちもあの二人に腹を立てていたのか。まぁ、私がいなくなって一番困ったのはあの二人だろうけど、他の人にもしわ寄せは行ったよねぇ。香害男の同じ大学出の後輩なんか、部署違うのに仕事押し付けられていたって噂もあったくらいだし。
「本当に申し訳なかった」
改まった態度で課長が頭を下げた。どうやら本当に謝罪に来たらしい。管理職は大変だなぁ。
「もしかして、謝罪のためにわざわざこんなところまで?」
「ああ、君にもちゃんと謝罪すべきだと思ったんだ。それに、幾つか確認したいこともあって……」
そう言ってこれまでの顛末を話した後、契約書を渡された。辞めた後で見ていいのかな、これ。そうは思ったけれど話が終わらないと帰ってくれなさそうだから仕方なく目を通した。戸田が適当に作った資料のせいで、彼が担当していた数社から契約継続を断られたらしい。保留になっている会社もあり、引き止めるために必死に会社へ説得に通っているという。
そんな中で契約内容についてはっきりしない点がいくつもあったため、それを確かめたかったのだとか。確かに細かくてどうでもいいように見えて、相手にとっては大事なことばかりだった。これは思い出せる範囲で正直に話した。まぁ、あの二人が自滅したのは当然としても、とばっちりが取引先にまで及ぶのは本意ではないし、この契約を取るために必死に資料を作ったのは私だ。辞めたとはいえそれをなかったことにされるのも納得いかなかったのもある。それに、また来られても困るし。
「ありがとう、助かったよ」
来た時はどこか硬かった笑顔が和らいでいた。疑問が消えて安心したらしい。まぁ、香害男は営業に向いているとは思えなかったし、そんな奴を営業として採用した会社が悪いんだけど、それを増長させたのは山田課長だ。
「それで、今三課はどうなってます?」
辞めた後の顛末が気になる。戸田と華恋が自滅するのは予想していたけど、今も三課にいる? それとも異動になった? せっかく来たんだから今夜の酒の肴になるようなネタになるような話の一つもあるといいのだけど。
「ああ、実は……」
課長が小さく一つ物憂げにため息をついた。きなこはまだ匠海さんの膝の上で、じっと課長を見据え耳を後ろに倒していた。




