これぞ求めていた生活
ベッドもBBQ道具も買い揃え、食料も確保してからの日々は穏やかに過ぎていった。時間を気にせず好きなだけ寝て、目が覚めたら起きる。お腹が空いたら食事をして、夕方からはBBQで一人と一匹の宴会に興じ、程よく酔ったらシャワーを浴びて寝る。まったく、一月前には考えられなかった悠々自適な生活がここにあった。
「はぁ……お風呂最高~~」
髪を拭きながらソファに掛けてビールのプルタブを引いた。プシュッと音を立ててビールの泡が僅かに顔を出す。それを一気に喉に流し込めば、苦みと共に冷たい感触が食道を通って腹に向かった。はぁぁ、幸せ~~暫くソファにもたれかかってその幸せに浸った。
「この暑い中、よく熱い湯に浸かろうと思うな」
「そう? でも、エアコンに弱いから入らないと辛いのよ」
冷えに弱いのもあるけど、会社は男ばかりの部署だったせいかエアコンが強くて辛かった。そのせいで毎日お湯に浸かるようになったのだけど、その習慣は今も続いている。結局ここも暑くてエアコンなしでは暮らせない。お湯に浸かると身体が冷えているのを実感するから。まぁ、朝シャワーを浴びるのもあって、夜もシャワーで終わる日もあるのだけど。
「足を伸ばせるお風呂って最高だよねぇ」
「アパートは半分しかなかったからのう」
きなこの言う通りで、物理的に半分しかなかったし、もしかしたら半分もなかったかもしれない。祖父に感謝することが日に日に増えている。それくらいこの家は快適だった。まぁ、築古のアパートと比べるのが間違いなのかもしれないけれど。
「ビールは美味しいし、今日のBBQも美味しかった~」
「今日は即席ラーメンだったではないか」
「焚火で沸かしたお湯がいいの! それにウインナーは炙ったわよ。きなこだってキャットフード炙って食べていたじゃない」
インスタントだって焚火で沸かしたお湯で食べると何故か美味しいんだからいいじゃない。食べた後は網を外して焚火をしながら夕陽が沈んでいくのを眺めるのも一興だ。火が燃えるのって、なんかいいんだよねぇ。結界魔術で蚊に刺されることはないから心置きなく外にいられるし。
それでも、さすがに陽が沈んだ後は真っ暗になってしまい、心許ないので早々に家に引っ込んだけど。隣家は見えないほど距離があるし、防犯の意味でも夜に外に出るのはちょっと怖い。暗くなったらシャワーを浴びてソファで一杯やりながら、TVを見たり本を読んだりする時間は物凄く贅沢な時間だった。こんなにのんびり過ごしたの、高校の夏休み以来かもしれない。大学はバイト三昧だったし、社会人になってからは夏休みもなくなったから。
「……そう言えば、華恋たち、無事にやっているかなぁ……」
きなこを膝にのせて柔らかい毛並みを堪能しながらビールを一口飲んだら、不意にそんな言葉が出ていた。TVに映るドラマの舞台が元いた職場に似ていたからかもしれない。
「何じゃ、気になるのか?」
「まぁ、少しは」
散々私に仕事を押し付けていた香害男と華恋。そう言えば課長はあの人に代わったんだよね。課の空気は随分変わったんだろうなぁ。香害男は不満が溜まる日が続いているだろう。仕事を押し付ける私がいなくなって仕事が滞っていそうだし、狙っていた華恋は新課長に夢中だから。まぁ、本人は華恋と一番仲がいいと思っていたようだけど、それは奴の幻想だ。華恋は「戸田先輩? ないない!」と同期の女子に言っていたから。ご愁傷様だ。
「苦労しているだろうな~~」
「お主に仕事を押し付けていた輩か」
「そう。私がいたから何とか格好が付いていたけど、もう手伝ってくれる人いないからねぇ」
事務は他にもいたけれど、課長と同年代で部長にだって物申す人たちばかりだったから、香害男が気安く仕事を頼める相手じゃない。
「今頃、書類が間に合わないって喚いていそう。ああ~見たかったなぁ~あの男の末路を」
きっと大々的に仕事が出来ないのが露呈するだろう。するはずだ。だって契約書一つまともに作れなかったのだから。私に押し付けていたから恰好が付いていただけ。華恋も新課長に媚びを売るのに必死だから手伝うなんてしないだろうし。私がいた時だってやっていなかったのだから。
「そう言えば、あの男はお主に気付いたのか?」
あの男とは元婚約者と思われる新課長のことよね。ちょこんとこっちを見上げるお目目が可愛い。昔の姿もかっこよかったけれど、今の姿は癒されるよねぇ。頬が緩む。
「どうかなぁ……殆ど接点なく終わったから、気付いていないんじゃない?」
結局、あの香害男から庇ってくれたのが最大の接点で、その後は数回顔を合わせるだけで話す機会もなかった。まぁ、事務所に来るとすぐに華恋が声をかけていたからっていうのもあったけど。でも、気付いていたら話しかけて来たと思う。そう願いたい。そもそも向こうに記憶なんかないかもしれないし、その前に私の勘違いの可能性もある。
「もう会うこともないし、仮に記憶があってもわざわざここまで会いになんか来ないでしょ」
「それもそうじゃな」
前世は前世、今世は今世だ。嫌な思い出しかなかったから離れられたのはラッキーだよね。まぁ、なんで記憶が戻ってきたのかはよくわからないけれど、考えても仕方がない。私は今を楽しみながら生きるんだから。
「あんな会社、辞めてよかった。ほんと、社畜だったよねぇ……」
「ようやく気付いたか」
きなこ、容赦ない――そう思いながらもまったくもってその通りだから言い返したりはしなかった。今の私はとっても機嫌がいいから。時間と食料と心に余裕があると人間、大抵のことは流せるらしい。まぁ、働いていた頃はそんなことを考える余裕もなく、ただ目の前のことを終わらせるだけで精一杯だったけれど。
「これからは自分のために生きるのじゃな。前世の分まで」
「そうだね」
きなこの言う通りだ。そして好きなことをして生きる方法を見つけた。そりゃあ、このままじゃ経済的に厳しいけれど、母と祖父の遺産と自分の貯金に僅かだけど退職金もある。家賃は要らないし、ここの物価は東京よりもずっと安い。貸倉庫の家賃収入もあるし、すぐには貰えないけど失業保険も貰えるはず。大学時代から働き尽くめだったんだから暫くのんびり過ごしても罰は当たらない、と思いたい。
「さぁ、明日は何しようかな」
テーブルの上のタブレットを手に取る。これさえあれば世界は広がる。まったくいい時代に生まれ変わったよねぇ。
「あ、今度は竹串買ってこよう。肉や野菜を刺して焼くと雰囲気出ない?」
「そういうものかのう」
「そういうものなの。網もトングも予備がほしいなぁ。あ、飯盒も。あれでお米を炊いたら絶対美味しそうだし」
タブレットの向こうには便利そうな道具が私に「買って」と呼びかけてくる。うう、我慢我慢、ベッドとか買ったから結構資金を減らしてしまったし。それに贅沢したいわけじゃない。今あるもので楽しむのがソロキャンの極意だって芸人さんも言っていたもの。私がしたいのは豪華なグランピングじゃないから。
タブレットを眺めているといつの間にか夜も更けていた。そろそろ寝ないと。いくら自由になったとはいえ、昼夜逆転はさすがに遠慮したい。
「きなこ、寝るよ~」
「うむ」
ずっとリビングのソファで眠っていたけれど、ベッドを買った翌日からは主寝室で寝るようになった。とはいっても、西日が当たって暑いから、寝る一時間くらい前からエアコンをかけて冷やさないといられないけれど。
それでも……
「はぁ~~ベッドが大きくて幸せ~~」
大の字になってマットレスの柔らかさを背で感じる。ダブルベッドを独り占め出来る幸せは言葉では言い表せない。小柄な方だからシングルでも困りはしなかったけれど、寝返りして落ちそうになったことは何度もあったから、大きなベッドに憧れがあった。
「きなこ~~」
「なんじゃ、いきなり抱き付くな」
「だって、幸せなんだもの~~」
きなこの背に顔を埋めてその匂いを吸い込む。はぁ、癒される……
「ねぇ、きなこ、明日はたらいに水張って、足を付けながらBBQしよっか」
物置を漁ったら大きなたらいをみつけた。あれに水を張って足を浸したら冷たくて気持ちよさそう。どうせ火事対策にバケツに水は張っておかなきゃいけないし。
「なるほど、それはいい案じゃな」
「じゃ、決まり」
後は何を焼こうかな。そろそろ肉も魚も尽きてきたから移動式スーパーに行ってみるのもいいかも。朝晩に一回ずつ、車の運転の練習のため大通りまで行くのも慣れてきたから、今度はもっと楽に行けるはず。問題なかったら少しずつ距離を伸ばして、秋が来るまでにはスーパーに行けるようにしたい。まだまだ私の野望は始まったばかりだ。




