第2話 零れ落ちた雫と、開かれた禁忌
冷たい雨が、王都の石畳を叩いていた。
カフェを追い出された俺――レオン・ヴァルハイトは、冷気と痛みに身体を震わせながら、あてもなく路地裏を彷徨っていた。
雨水が髪を伝い、頬の傷口に染みて激痛が走る。シディスに踏みにじられた顔面は大きく腫れ上がり、視界の半分は血と腫れで塞がっていた。
「……ハッ、惨めなもんだな」
自嘲の笑いが漏れる。
ほんの数時間前まで、俺にはまだ未来があったはずだった。丹精込めて育て上げた弟子が最年少Sランクになり、長年連れ添った恋人との結婚も目前。
怪我で第一線を退いたとはいえ、後進の指導と魔道具の研究で穏やかな幸せを手に入れられるはずだった。
それが、今やどうなった。
恋人は弟子に寝取られ、自分の功績は盗作だと濡れ衣を着せられた。
冒険者資格を剥奪され、アパートも解約され、手持ちの金まで奪われた。
(俺が何をした……? ただ、誠実に生きようとしただけじゃないか……!)
胸の奥から湧き上がるのは、煮え湯のような怨念だった。あの二人の嘲笑が、頭の中で何度も蘇る。
『落ちぶれた元冒険者』
『本当の強い男に抱かれるのが、どれだけ素晴らしいことか』
『貴方のその「いい人ぶった顔」が、昔から反吐が出るほど嫌いだった』
爪が掌に食い込み、血が滲む。
許さない。絶対に許さない。シディスも、エリスも、俺をゴミのように捨てたあのギルドの連中も……全員、地獄の底へ叩き落としてやる。
だが――今の俺には、力がない。
損傷した魔力回路のせいで、まともな攻撃魔法すら使えない。ただの一般人に毛が生えた程度の筋力しかない俺が、今や破竹の勢いで頭角を現すSランク冒険者・シディスに勝てるはずがなかった。
「くそ……くそっ……!!」
俺は雨の降る路地裏の壁を拳で殴りつけた。薄皮が切れ、赤い血が冷たい石壁を汚す。
その時だった。
「……おいおい、ずいぶんと景気の悪い顔をしてるじゃねえか」
路地裏の暗がりから、数人の下品な笑い声が響いた。振り返ると、濡れた革鎧を身にまとった三人組の男たちが立っていた。腰には粗悪な意匠の剣。ギルドのならず者――CランクやDランクの粗暴な冒険者たちだ。
「……お前たちは……」
「忘れたとは言わせねえぞ、レオン・ヴァルハイト」
先頭に立つ柄の悪い大男が、ペッと唾を吐き捨てた。
「先月の講習会で、俺たちの剣筋を『無駄が多い』だの『基本ができていない』だの偉そうに説教してくれたなぁ? あの時はギルドの専属講師様だから我慢してやったが……噂は聞いてるぜ? 弟子の功績をパクって資格剥奪されたんだってなぁ!」
「ハハッ! しかも彼女をその弟子に寝取られて、家も追い出されたんだろ? マジで最高に惨めじゃねえか!」
男たちが腹を抱えて抱腹絶倒する。
俺は無言で彼らを睨みつけた。
以前の俺なら、こんなチンピラなど片手でひねり潰せただろう。だが、今の俺は身も心も満身創痍で魔力も使えない。
「何だその目? 落ちぶれた癖に、まだ格上気取りかよ」
大男の目が殺気立った。彼は腰の剣を抜くと、その身の平で俺の胸を強く突いた。
「おい、土下座しろよ」
「……なんだと?」
「土下座して『申し訳ありませんでした、強い冒険者様』って靴を舐めろ。さもなきゃ、この雨の中で二度と起き上がれねえ体に仕込んでやるぞ」
周りの男たちも下衆な笑いを浮かべながら、短剣や棍棒を構える。
(またか……)
腹の底から、冷たい怒りが波及していく。
シディスだけじゃない。エリスだけじゃない。俺が落ちぶれたと知った途端、これまで俺の指導を有難がっていた連中までが、群がり寄るハイエナのように俺を踏みにじりに来る。
弱者は叩く。落ちた者はどこまでも踏みつける。それが、この世界の真実か。
「……断る」
俺は低い声で言い放った。
「なんだと……?」
「俺はお前たちみたいな雑魚に屈するために、ここまで堕ちたわけじゃない。失せろ」
「この野郎……! 死にぞこないが調子に乗るなァッ!!」
大男が顔を真っ赤にして丸太のような腕を振り上げた。大振りな一撃。見切ることは容易だった。俺は半身を引いて攻撃をかわそうとした――だが。
「……!?」
胸の奥、傷ついた魔力回路が激痛を発した。身体が痺れ、追いつかない。
「ぐっ……!?」
バギッ!
鈍い音が響き、大男の拳が俺の顔面に直撃した。視界が急回転し、俺は激しく雨の泥水へと叩きつけられた。
「ハハハ!口ほどにもねえ! おい、痛めつけろ! 元Aランクのプライドを完璧にへし折ってやる!」
靴が、棍棒が、雨のように俺の体に振り下ろされる。肋骨が軋み、息が詰まる。口の中に溢れる血を吐き出しながら、俺は必死に頭を抱えて耐えた。
痛い。苦しい。悔しい。
だがそれ以上に――心が、灼けるように熱かった。
(足りない……力が足りない……! 俺に力を……あいつらを殺すための力を……!!)
「ケッ、つまんねえな。もう息も絶え絶えじゃねえか」
しばらくして、殴打が止んだ。
大男が俺の髪を掴み上げ、血と泥に塗れた俺の顔を覗き込む。
「これに懲りたら、二度と冒険者の前に面を見せるなよ、ゴミ屑が」
大男は俺の顔に唾を吐きかけると、仲間と共に嘲笑いながら路地裏の奥へと去っていった。
冷たい雨が、俺の身体に降り注ぐ。
指一つ動かすのも億劫だった。このまま冷たくなって死んでいくのだろうか。そんな思いが頭をよぎる。
だが、俺の心の中の炎は、死ぬどころかますます激しく燃え上がっていた。
「……死ねるか……こんなところで……」
俺は泥を噛み締めながら、匍匐前進のように腕だけで身体を前に進めた。
向かう先は、一つしかなかった。
王都の最北端、貧民街のさらに奥深くにある『開かずの地下倉庫』
かつて俺がAランク冒険者だった頃、ある古代遺跡の最奥で見つけ、あまりの禍々しさゆえに誰にも言えず、秘密裏に封印・保管していた「ある物」がある場所だ。
正統な冒険者として生きようとしていた頃の俺は、それを使うことを自らに禁じていた。
人を外れる悪魔の業だと思っていたからだ。だが――いまの俺に、倫理も正義も関係ない。
悪魔に魂を売ってでも、俺は復讐の力を手に入れる。雨の中、血の痕を引いて這いずりながら、俺は数時間かけて地下倉庫の扉へとたどり着いた。
錆びついた鉄の扉。厳重にかけられた魔法の鍵。俺は残された僅かな魔力を振り絞り、解呪の法陣を描く。損傷した回路が悲鳴を上げ、目と鼻から血が吹き出したが、かまわず魔力を注ぎ込んだ。
ガコン……!
重い解呪の音が響き、鉄の扉がゆっくりと開いた。埃とカビ、そして――特有の「死臭」が漂う地下室。
その中央の台座に、黒い布で覆われた一冊の書物が置かれていた。
布を剥ぎ取る。
現れたのは、人間の皮膚で装丁されたかのような、禍々しい漆黒の魔導書。
『黒蝕の書』
かつて世界を震撼させ、歴史から抹消されたとされる「解体と侵食」の禁忌魔導書。
人の魔力回路を正常に循環させるのではなく、「壊れた回路を毒と怨念で再構築し、相手の存在そのものを分解する」という、狂気の術式が記された禁術の書だ。
「ハ……ハハ……」
俺は血に濡れた手で、その本を開いた。
その瞬間――
『――力を求めるか、哀れな敗北者よ――』
脳内に直接、おどろおろしい無数の声が響き渡った。視界が黒い霧に包まれ、魔導書から溢れ出した漆黒の触手が、俺の腕を、胸を、そして心臓を貫いた。
「があぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!???」
先程の比ではない激痛が全身を駆け巡る。
損傷していた俺の魔力回路に、黒い毒のような魔力が無理やり流れ込み、ズタズタに引き裂きながら再構築していく。
「ぐ、あぁっ! あがあぁぁっ……!!」
肉体が内側から焼き尽くされるような感覚。普通なら正気を失い、精神が崩壊して死に至るだろう。
だが、俺の胸に渦巻く「シディスとエリスへの殺意」が、その激痛を上回っていた。
(壊せ……!俺の身体なんてどうなってもいい……! 奴らを殺す力を……奴らの栄光をすべて腐らせる力をくれぇぇぇっ!!)
俺の怨念に呼応するように、黒い魔力が一層激しく渦巻いた。魔導書のページが猛烈な勢いでめくられていく。
やがて――激痛が嘘のように引き、地下室に静寂が戻った。
俺は膝をつき、荒い息をついた。
自分の手を見る。
皮膚の下を流れる血脈が、一瞬だけ黒く発光し、すぐに元に戻った。胸の奥の不快な疼きが消えている。
いや、消えたのではない。壊れていた魔力回路が、黒い魔力によって「歪んだ形」で完全に繋ぎ合わされたのだ。
「これは……」
手の中の魔力を意識する。
かつてのような澄んだ属性魔力ではない。
触れたものの構造を理解し、内側から崩壊させる――『腐食と解体』の黒い魔力。
「……ハハハハハッ!!」
笑いが止まらなかった。
手に入れたのだ。シディスの持つ「完璧な才能」すらも、内側から腐らせて破壊する地獄の力を。
その時だった。
「ふうん……まさか本当に、その本に適合する人間がいるなんてね」
地下室の暗がりから、鈴の転がるような涼やかな、だがどこか浮世離れした少女の声が響いた。俺は即座に振り返り、黒い魔力を手に宿して警戒した。
「誰だ……!?」
影の中から歩み出てきたのは、一人の小女だった。
艶やかな銀髪に、吸い込まれるような紫の瞳。ゴシック風の黒いドレスを身に纏い、その背後には人間のものとは思えない膨大な魔力の残滓が揺らめいている。
見た目は10代半ばの少女だが、その眼光は数百年を生きた者のように深く、冷たかった。
「警戒しないで頂戴、哀れな復讐者さん。私はシェラ。……まあ、君たちが言うところの『忌み子』あるいは『古の魔女』ってヤツかしら」
少女――シェラはクスクスと笑いながら、俺に近づいてきた。
「君のことは知っているわ、レオン・ヴァルハイト。弟子に裏切られ、女を奪われ、誇りを踏みにじられた可哀想な男」
「……俺を嘲笑いに来たのか?」
「滅相もない。逆よ」
シェラは紫の瞳を怪しく光らせ、俺の胸にそっと手を当てた。
「私はね、美しく燃える復讐の炎が大好きなの。君の胸の中にある絶望と憎悪……最高に芳醇で美しいわ。だから、手伝ってあげることにしたの」
「手伝う……?」
「そう。君が手に入れたその『黒蝕』の力は強力だけど、今のままだとシディスに届く前に自滅するわ。君の肉体を補強し、復讐の舞台を整えるための『相棒』が必要でしょう?」
シェラはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「私は君に、シディス達を完璧に社会的・精神的に抹殺するための知識と手段を与える。その代わり……彼らが絶望の底で苦しむ最高の『復讐劇』を、特等席で見せてちょうだい」
俺はシェラの目をじっと見つめた。
彼女が何者であろうと関係ない。悪魔だろうが魔女だろうが、俺の復讐に利用できるなら喜んで手を取る。
「……いいだろう。取引成立だ、シェラ」
俺はシェラの差し出した手をとった。
「さて、それじゃあ最初の『準備』に取りかかりましょうか」
シェラは楽しそうに指を鳴らした。
「今頃ね、君を追放したシディスとエリスは、王都の豪華なパーティ会場で君の悪評を振りまいて、有頂天になっているわ。……まずは、彼らが必死に築こうとしている『信用』の足元に、小さな毒を打ち込んであげましょう」
俺の唇が、自然と冷酷な笑みの形に歪んだ。
「ああ……楽しみにしているよ。シディス、エリス……お前たちの最高に幸せな時間を、じっくりと地獄に変えてやる」
雨はいつしか上がり、漆黒の夜が王都を包み込んでいた。闇の底から、復讐の怪物が目覚めた瞬間だった。




