第1話 奪われた光
「――レオンさん、本当に申し訳ありません。でも、私……もう貴方と一緒にいても、将来が見えないんです」
「………え?」
目の前に差し出されたのは、冷めきった紅茶のカップと、俺が先月彼女――エリスの誕生日に贈った銀のペンダントだった。
王都の片隅にある小さなカフェ。午後の木漏れ日がテーブルを照らしているが、俺の心は凍りついたように冷たかった。
「エリス……どういう、ことだ?将来が見えないって……」
俺、レオン・ヴァルハイトは三十歳。元・Aランク冒険者だ。
あれは三年前、Sランク指定の大魔物・獄炎狼との戦闘で、俺は仲間の盾となり魔力回路を激しく損傷した。
それ以来、まともに魔法を使うことも、激しい戦闘をすることもできなくなった。
それでも、俺は絶望しなかった。前線から退いた後は、冒険者ギルドで後進の育成に力を注ぎ、自分の知識と技術のすべてを次の世代に引き継ごうと生きてきた。エリスもそんな俺を支えてくれると、ずっと信じていた。
「言葉通りの意味ですよ」
エリスは溜息をつき、呆れたように肩をすくめた。
「貴方はもう落ちぶれた元冒険者。ギルドの小さな講習で雀の涙ほどの報酬を得るのが関の山じゃないですか。私、いつまでこんな安賃で質素な生活を続ければいいんですか? 私だって、華やかなパーティに出て、綺麗なドレスを着たいわ」
「エリス……すまない。だが、俺も近いうちに新しい魔道具の開発で権利収入が得られる見込みが――」
「もういいです、そういう言い訳は」
「………」
彼女は冷たく遮った。その瞳には、かつて俺に向けられていた愛や尊敬の面影は微塵もなかった。ただ惨めな者を見る哀れみと蔑みだけを俺に向けた。
「それに……私を本当に幸せにしてくれる人が、現れたんです」
「……え?」
その時、カフェの扉が開いた。
カランコロンと涼やかな鈴の音が鳴り、店内が一瞬でざわめく。集まった客たちの視線が、入口に立った男に集中した。
身丈に合った上質な漆黒の軽鎧に、金糸で刺繍されたマント。腰には王宮御用達の鍛冶師が打ったとされる光輝く細身の剣。眩しいほどの金髪に、甘いマスク。
「――お待たせ、エリス」
男は迷いのない足取りで俺たちのテーブルに歩み寄ると、ごく自然にエリスの腰に手を回した。エリスは頬を赤らめ、嬉しそうにその身体を男に預ける。
「……シディス……?」
俺はこの光景に目を疑った。
そこに立っていたのは、俺の唯一の弟子であり、今や最年少Sランク冒険者として王都中の称賛を浴びる青年――シディスだった。
「おや、レオン師匠。こんなところで何を話していらっしゃるんですか?」
シディスは爽やかな笑顔を浮かべて俺を見下ろした。だが、その瞳の奥には、粘着質で陰湿な愉悦が揺らめいているのが分かった。
「お前……どうしてエリスと一緒に……? いや、それより腰に寄せた手はなんだ」
「ふふ、察しが悪いですね師匠。言ったでしょう? エリスを幸せにする人が現れたって。それが僕ですよ」
シディスはエリスの腰をぐっと抱き寄せ、彼女に愛おしそうにキスをした。エリスは嫌がるどころか、うっとりと目を閉じている。
頭の中で、何かがぶちりと切れる音がした。
「シディス……お前、自分が何をしているか分かっているのか!? エリスは俺の婚約者だぞ! 俺が……俺がお前をどれだけ信頼して、どれだけの技術を教えてきたと思っているんだ!」
俺は立ち上がり、テーブルを叩いた。周りの客が一斉にこちらを見る。シディスは俺が幼い頃、孤児院で飢えていたところを俺が拾った男だ。
剣の握り方から魔力の流し方、戦術のいろはまで、俺は自分の持つすべてを彼に叩き込んだ。怪我をして前線を退いた俺にとって、シディスは自分の夢を託した実の弟のような存在だったんだ。
その男が、俺の恋人を寝取ったというのか?だが、シディスは激昂する俺を見ても、クスリと嘲笑うだけだった。
「全く師匠、声を荒らげないでくださいよ。格落ちの元冒険者が騒ぐと見っともないですよ?」
「なんだと……?」
「『信頼して教えてきた』? ハハッ、笑わせないでください。貴方が僕に教えたことなんて、ぜんぶ古い時代の古臭い理論じゃないですか。僕がSランクになれたのは、僕自身の圧倒的な才能があったからですよ。貴方のおかげじゃない」
「な……っ!」
「むしろ感謝してほしいくらいですよ。落ちぶれて使い物にならなくなった貴方の代わりに、僕がエリスの面倒を見てあげているんですから。ねえ、エリス?」
「ええ、その通りよシディス。レオン、貴方と過ごした時間は本当に無駄だったわ。シディスと出会って、私初めて知ったの。本当の『強い男』に抱かれるのが、どれだけ素晴らしいことか」
エリスは俺に向かって、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。胸がむかむかするほどの吐き気が襲いかかる。三年以上連れ添い、結婚の約束までしていた女が、俺の教え子と裏でつながり、俺を嘲笑っている。
「嘘だ……エリス、お前、そんな女だったのか……?」
「嘘じゃないわ。貴方が私を抱けない間、シディスがどれだけ私を満足させてくれたか……教えましょうか?」
「やめろ……! それ以上言うな!」
だが、シディスの嫌がらせはそこで終わらなかった。彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、俺の目の前に放り投げた。
「そうそう、師匠。これ、ギルドからの通達です。読んでみてください」
落ちた紙を開くと、そこには冒険者ギルド長のアザラシのようなサインと、正式な捺印が押されていた。
『レオン・ヴァルハイト殿。貴殿のギルド専属講師としての契約を解除し、併せて冒険者資格を剥奪する』
「……資格剥奪?なぜだ、俺が何をした」
「何をした、ですか?」
シディスは心底おかしそうに嗤う。
「貴方が先月ギルドに提出した『魔力循環による怪我の早期回復理論』……あれ、僕の論文を盗用したものでしょう?」
「……は?お前は何を言っているんだ!?あの理論は、俺が自分の怪我を治すために何年も研究して積み重ねてきた――」
「いいえ、僕のアイデアです」
シディスは冷たい声で俺の言葉を打ち消した。
「ギルド長にも説明しましたよ。『落ちぶれた師匠が、弟子である僕の功績を嫉妬して盗んだ』ってね。ギルド長も信じてくれましたよ? なにしろ、今の僕は国に一人のSランク冒険者で、貴方はただの『出来損ないの障害者』ですから。どっちの言葉に価値があるか、そこら辺の子供でも分かりますよね」
「シディス……お前、そこまで……っ!!」
血が頭に上り、俺は無意識に拳を握りしめてシディスに飛びかかろうとした。
だが――
ガツンッ!
「ぐはっ……!?」
シディスの鋭い前蹴りが、俺のみぞおちに突き刺さった。視界が激しく揺れ、身体が宙を舞う。俺はカフェの床をゴロゴロと転がり、壁に激突した。
「カハッ……がはっ……!」
上手く呼吸ができない。肺の中の空気のすべてが叩き出されたようだった。損傷した魔力回路が悲鳴を上げ、全身に激痛が走る。
「レオンさん!」
店員が駆け寄ろうとしたが、シディスが冷酷な視線を向けると、恐怖で足の動きを止めた。
シディスはゆっくりと歩み寄り、床に倒れて苦しむ俺の頭を踏みつけた。革靴の底が、俺の頬を強く踏みにじる。床に顔を押し付けられ、口の中に血の味が広がる。
「痛いですか、師匠?それとも、心が痛いですか?」
「いえ、《《心も》》痛いですか?」
シディスは屈み込み、俺の耳元で嘲笑うように囁いた。
「言ったでしょう?貴方はもう終わりなんです。金も、地位も、名誉も、恋人も……全部奪った。貴方には何も残っていない」
「シ、ディス……なぜだ……。俺が……俺が、お前に……何を……」
俺は絞り出すような声で問うた。
俺は一度だってシディスを酷く扱ったことはない。実の子供のように可愛がり、自分の知識を惜しみなく授けたはずだ。なぜ、ここまで俺を憎み、踏みにじるのか。
シディスは靴に体重をかけ、俺の顔をさらに押し潰しながら、狂気に満ちた目で微笑んだ。
「なぜ?……ん〜、簡単な理由ですよ、師匠」
彼は瞳を細め、心底歪んだ声音で言った。
「貴方のその『いい人ぶった顔』が、昔から反吐が出るほど嫌いだったからです」
「……なに?」
「僕を助けた? 育てた? ふざけないでくださいよ。貴方はただ、哀れな孤児を拾って『師匠ごっこ』をして、満足していただけだ。自分より才能のある僕を下に置くことで、優越感に浸っていただけだ!」
「ち、違う……俺はそんなつもりで――」
「うるさい!!」
シディスは俺の頭を蹴飛ばした。頭の中で鐘が鳴ったような衝撃が走り、視界が真っ赤に染まる。
「貴方がどう思っていようが関係ない!」
シディスは吐き捨てるように言うと、俺の胸ポケットに手を突っ込み、残っていた僅かな金貨の袋を抜き取った。
「あ、それから。貴方が住んでいるあの家、僕が家主に頼んで解約しておきました。今日限りで追い出しです。まあ、街の路地裏で乞食でもして生きていってくださいよ」
「シディス……貴様……!」
「じゃあね、元・師匠。僕とエリスはこれから、最高級ホテルで挙式のための打ち合わせがあるんです。……あ、そうそう」
シディスは立ち上がり、思い出したように懐から小さな魔道具を取り出した。それは音声を記録できる水晶石だった。
「これ、プレゼントです。エリスが僕のベッドでどんな声で喘いでいるか、録音しておきました。寂しい夜にでも聴いて、僕たちの幸せを噛み締めてください」
「残念ながら映像はありませんが、これだけでも一人で楽しめますよね?」
ポンと、その水晶石が俺の頭の上に落ちてきた。エリスはシディスの腕に抱きつきながら、冷たい目を俺に向けた。
「さようなら、レオン。もう二度と私たちの前に姿を現さないでね。汚らしいから」
二人は仲睦まじく寄り添い、カフェを出て行った。あとに残されたのは、静まり返った店内と、床に這いつくばり、顔から血を流す俺だけだった。
周囲の客たちからの視線が突き刺さる。同情、蔑み、関わりたくないという拒絶。誰も俺に手を差し伸べようとはしなかった。
「う……あ…………」
指先が震える。
頭の上に転がった水晶石から、微かにエリスの淫らな声と、シディスの歓喜の笑い声が漏れ聞こえてくる。
奪われた。
俺が人生をかけて積み上げてきたもの。
仲間を護って失った誇りも。
弟子を育てた情熱も。
愛した女との未来も。
すべて、踏みにじられた。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!!!!」
俺は血の混じった叫び声を上げた。
胸の奥から、ドロドロとした黒い感情が溢れ出してくる。
絶望? 悲しみ? 違う。
――殺してやる。
絶対に許さない。
シディス。エリス。俺を裏切り、嘲笑い、尊厳を踏みにじった奴。
奴らが俺にした以上の絶望を。築き上げた栄光を、信頼を、快楽を、すべて激痛と恐怖に変えて、地獄の底へ突き落としてやる。
「ハハ……ハハハハハ……ッ!」
俺は血を吐きながら、笑った。
壊れた魔力回路が、俺の強烈な殺意に反応して、異常な熱を帯び始めていた。
(待っていろ、シディス。お前が手に入れたものを……俺が地獄の果てまで引きずり降ろしてやる)
どん底の暗闇の中で、レオン・ヴァルハイトの復讐の炎が静かに、決して消えぬ猛火となって燃え上がった。




