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俺はただ君に会うためにこの世界にやってきた  作者: たかき いさな
第2章
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24/25

第24話〈温泉〉

 ああ、またやってしまったかもしれない。

 今日、トーキの言ってることに少しイライラしてしまって、その言い方について話した。そうしたら、夜になってトーキが元の世界のことを思い出したみたいで、ものすごく落ち込んでしまった。それで、励まそうと思って頭をなでたら泣き出して、思わずトーキの頭を抱きしめた。

 そのまま、トーキは泣いて動かなかったけど、私はだんだん恥ずかしくなって離れた。

 トーキを残して自分のテントに入って、すぐに毛布にくるまって目を瞑ったけど、眠れない。

 やっぱり、抱きしめたのはやりすぎだ。いくら落ち込んでいるように見えたからって、トーキだって大人の男性なのに。


 私がテントの中でうずくまっていると、外でトーキが立ち上がる気配がした。そのまま、トーキも自分のテントに入ったみたいだ。元気になってくれればいいけど、と思いながら私も眠りにつく。



 …………………



 翌朝、聞き慣れない鳥のさえずりに起こされて、私はテントを出る。朝の森は薄く霧がかかっていて、ひんやりとした空気が心地良い。周りが山に囲まれているせいか、まだ日は昇っていない。トーキも寝ているようで、テントから微かに寝息が聞こえた。

 少し早すぎたかな、と思った私は周りの森へ軽い散歩に出た。


 しばらく歩くと水音が聞こえ、近くに川があるようだ。そのまま、音に誘われて森を降りていくと岩場があり、細く流れる清流がある。

 私でもひと飛びで渡れそうなほどの小さな川。しかし、水の勢いは速く、透明な水流が泡立つ波を作っている。

 私は川岸に座って水を掬い、顔を洗った。思った以上に水が冷たくて、最初はびっくりしたが、すぐに慣れて気持ち良かった。


 さっぱりとした気分でテントのところに戻ると、トーキも起きてお湯を沸かしていた。

「おはよう。昨日はよく眠れた?」

 私は、ちょっと気まずい気もしたが、思い切って話しかける。


 トーキは、少し赤くはらした目で振り返り、柔らかく笑った。

「おはよう。まあ、一応眠れたよ」

 どう見てもあまり眠れなかったみたいだけど、それ以上突っ込んで聞くのは憚られた。


「今日もたくさん歩くから、無理はしないでね。あ、近くに川があったから、トーキも顔を洗ってくれば?」

「そうなんだ。じゃあ行ってこようかな」


 そう言ってトーキが森を降りていく。私はトーキが沸かしていたお湯で朝食にスープを作る。山を歩きながら採った山菜に、燻製肉を薄く切って少し入れた簡単なスープ。山菜が新鮮なので、思ったよりも美味しくできた。


 そして、昨日の夜の残りのパンを焚火で軽く焼いていると、トーキが戻ってくる。

「朝ごはん、出来てるよ。もうすぐパンも焼けるから」

「ありがとう。ごめんね、全部やってもらって」

「トーキもお湯を沸かしてくれたでしょう! そんなの気にしないで! ほら、パン焼けてるから、食べよ!」


 昨日の夜を引きずっているらしいトーキが、いちいち謝ってくるのがちょっと鬱陶しかった。もう昔のことなんて気にしないで、元気になってくれたらいいのに。


「ご飯食べ終わったら出発しよう! まだまだ当分、山道が続くから早めに出た方がいいかな。今日は天気も良さそうだし、たくさん進めるといいね!」

 私が、出来るだけ明るくそう言うと、トーキはしおらしい声で「そうだね」とつぶやいた。


 出発した私たちは、相変わらず鬱蒼とした山道を慎重に進む。朝は元気のなさそうだったトーキも、遅れることもなく私の後に続いた。私は、魔獣除けのベルを持ちながら、少し歌いだしたくなるのを我慢して、淡々と歩いた。


 太陽がてっぺんの半分くらいまで登ったころ、ひときわ大きな樹の生えた広場に出る。

 いったいどれほどの年月ここに立っているのか、一本でまるで一つの森のような樹。私とトーキが二人で両手をひろげたよりももっと太い幹。そこから節くれだってうねるような枝が何本も伸びている。

「すごい! なんて大きな樹。私が見たことのある樹で一番大きい。ねえトーキ、トーキの世界にはこんなに大きな樹ってあった?」

「そうだね、俺は直接見たことはないけど、縄文杉だったかな? 何千年も生きている樹があるよ」

「何千年か……。エルフよりも長生きだね。この樹もそのくらいここに生えてるのかな?」

「きっとそうだろうね」


 私はその場に座り、リュックからノートを出す。スケッチしようと思って、手を止める。

「トーキ、ルールを決めようと思うんだけど」

「ルール?」

「そう。私が絵を描いてるときは、どんなに気になってもアドバイスはしないで。私が自分からトーキに見せた時だけ、思ったことを言って。それでどう?」

「うん。いいよ。そういう風にはっきり決まってる方がいい。俺、空気を読むみたいなのが苦手だから」

「私の絵に、どんな感想でも言ってもらって構わないけれど、言い方があんまり良くないと思ったら、私も言うから。これまで、少し我慢してたけど、言うことにする」

「あ、我慢してたんだ……。ごめん」

「だから、謝らなくてもいいよ。これまでのことはいいの。これからは、ちゃんと話し合おうよ。話し合ってわかり合えない事なんてないんだから」

「そうだね。この世界で、話し合ってわかり合えないことなんてない。それじゃあ、これからもよろしく」

「うん。よろしく!」


 トーキは、ようやくからりと笑った。その笑顔に、私は右手を差し出して握手をする。

 互いに大きさのほとんど変わらない手をしっかりと握り、私たちは改めて笑い合った。



 ……………………



 その日は、そうしてただ山の中を歩き続けるだけで一日が終わった。途中に何度か休憩し、そのたびに私は近くの花や樹々をスケッチしていた。

 私のスケッチに口をはさむことを禁じられたトーキは、手持ち無沙汰になって、最初はそのあたりをウロウロしていた。しかし、そのうちに何か思いついたのか、トーキもノートに何かを書き始めた。


 夜、前夜と同じように焚火に向かって二人で並んで座り、食事を終えたころに私はトーキに尋ねる。

「ねえトーキ。私がスケッチをしてる間、ノートに何を書いてたの?」

「え? 大したことじゃないんだけど、日記、みたいな感じ」

「日記? へえ、そういうのこれまでも書いてたの?」

「いや、書いてない。子供の頃はちょっと書いたこともあるけど、ぜんぜん続かなかったし」

「ふうん。急にどうしたの?」

「いや、こうして違う世界に来たことを書き残すのもいいかなと思って」


 前夜に比べたら、すっかり柔らかくなったトーキの表情に、私もくつろいだ気分になる。

 元気になったみたいで本当に良かった。


「ね、見ていい? そのノート」

「ん、いいけど……。読めないと思う」

 そう言ってトーキが開いたノートには、私には見たこともない文字が書かれていた。


「これ、トーキの世界の文字なんだ! 確かに読めないね。なんだか不思議な文字。いろんな形の字があるし、凄く複雑な形もある」

「『日本語』っていう言葉で、『ひらがな』、『カタカナ』、『漢字』って三種類の文字が混ざってるんだ」

「ええー! 三種類も文字があるの。難しそう!」

「こっちの世界の文字は、シンプルな形で数も少ないものね。すごく合理的な文字って感じがするよ。それに比べると『日本語』は難しいかもね」

「ねえ、トーキの名前ってどう書くの?」


 〈松原時紀〉

 トーキは、複雑な文様をさらさらと流れるように書く。


「すごい! よくそんな難しそうな文字を覚えられるね! え、あんなに長い名前なのに、たったの四文字なの?」

「はははっ。そうだよ。『漢字』なんだ。『漢字』は一文字でもいろいろな読み方があるから。ちなみに、そんなに難しい字じゃない」


 トーキは、本当になんでもないことのように言う。

 だけど私は、この未知の文字を当たり前のように操るトーキに驚愕する。


 焚火に照らされたノートを埋める、不思議な文字。

 トーキの手は、その精妙な形を魔法のように紡ぐ。

 私は、意味の分からないそれを見ているだけでも、飽きることがなかった。



 ……………………



 私たちは、焚火の前の倒木に二人並んで座り一つのノートを覗き込む。

 自然と私は、トーキと身体が触れ合うほど近づいていた。


 夢中でノートを見ていた私。トーキの顔は、気付けばもう触れ合いそうなくらい近かった。

 あ、と思って顔を上げる。

 目の前にあるトーキの顔。黒い瞳は、真っ直ぐに私の目を見ている。

 トーキの片手が、私の頬を優しく撫でる。


 ぱちぱちと聞こえる焚火の音。揺れる炎の明かりに照らされたトーキの顔もオレンジ色に見える。私の顔も焚火の熱気で火照っていく。


 トーキは、手にしていたノートを静かに閉じた。目は私の方を見たままだ。

 顔はますます近づいて、唇がもう触れそうになる。


 え?

 これはなに?


 焚火の熱が移ったように、熱さを感じる視線でトーキは私を見続ける。

 そして、間近に迫っていた唇で微かにささやく。

「リテ。大好きだよ」


 な! え? ちょっ!

 聞いた瞬間、私の心拍は、爆発的に速くなった。

 いや、好きなのは知ってましたけど⁉ なんで、改めて言うの?

 それに、どうして私はこんなにドキドキするの?


 トーキはそっと目を閉じて、顔を私に向けて傾けながら近づける。


 もう唇が触れてしまう! 


 この時、私の頭の中で、旅に出る直前にお母さんに言われたことが蘇る。

 そうだ。今トーキは、お母さんの言っていた男と女の行為を、私としようとしている。

 この状況になって、はっきりわかった。


 私の中の半分くらいは、このままトーキの勢いに身を任せてしまってもいいか、と思ってしまっていた。トーキのことは、もちろん嫌いではないし、二人きりで焚火を眺めている雰囲気の中で、少しだけトーキがカッコよく見えてしまった。


 でも、もう半分の私の意思は、ダメ、というのだ。

 なぜダメなのか、うまく言えないけれど、今はダメだ。


 近づいたトーキの顔をよけるように、私はすっくと立ちあがる。

「あ、あー今日はたくさん歩いたから疲れたー。もう眠くなったから寝るよ。ト、トーキも早く寝た方がいいよ。明日も歩くんだから」


 私は、わざとらしく言って、風のようにテントに入った。

 取り残されたトーキは、しばらくそのまま焚火の前に座っていたみたいだが、程なくして自分のテントに入る気配が聞こえた。


 私は、テントの中で毛布を被り、収まらない自分の鼓動をずっと聞き続けた。



 …………………



 どこからか、燻製肉が焼ける香ばしい匂いがする。

 それに惹かれて、霞の中にあった意識がだんだんとはっきりしていく。

 もう朝だ。昨夜からそんなに時間が経った気がしない。

 ずいぶん遅くまで眠れず、眠りも浅かったからだ。

 空腹感を感じつつ、重たい頭を何とか持ち上げて起き上がる。


 気配から、トーキは既に起きている。

 テントの中で着替えをし、髪を整える。

 深呼吸して頭を覚ましてから外に出る。


「あ、おはよう。よく眠れた?」

「お、おはよう。うん……」


 トーキは朝食に燻製肉を焼きながら、意外にも普段と変わらない様子で私に声をかけてきた。

 昨夜のことを、どう思っているんだろうか。


「えーと、リテ」

「ん、なに?」

「あの、その昨日は……」

「あ、そう! 昨日ね。トーキも昨日は眠れた? 遅くまで起きてたみたいだけど」

「ああ、うん。大丈夫。まあ、眠れたよ」

「そ、そう。それなら、良かった。今日もたくさん歩くからね」

 私とトーキは、ぎこちない会話を交わして朝食を食べた。


 うん。昨日は何もなかった。トーキもそう思ってくれてるみたいだし。

 私たちは、今日もいつも通り友達で、仲間で同志だ。問題ない。


 そして、何事もなく朝食を終えて、私たちは出発した。

 今日も山道。いい加減、山の中も飽きてきた。



 ……………………



 なんだかんだ言って、歩き出してしまえば昨夜のこともあまり意識にはのぼらない。

 山道は気を抜けないし、休憩中は、私はスケッチをしトーキは日記を書いていたので、会話もそれほどなかった。


 お昼の休憩を終えた後、私は地図を出して道を確認する。

「この先の谷を降りた川岸に、ドネルコさんの言っていた温泉があるよ」

「温泉!」


 この言葉に、トーキの目が輝く。

「この世界の温泉か~。どんなかんじだろう。こんな山の中にあるなんて相当な秘湯だね!」


「自然に湧いた温泉で、河原の岩場が天然の浴槽になってるんだって。この道を通るなら、絶対に行った方がいいってドネルコさんが言ってたよね」

「天然の秘湯か~。楽しみだな~」

「トーキ、わかってると思うけど、入るのは別々に交代だからね」

「ん、わかってるよ。当たり前じゃん」

「それならいいけど」


 すっかり気分の良くなっているトーキは、ペースを上げて山道を先導していく。

 しかし、温泉があるという河原には、かなり入り組んだ山道を降りていかねばならず、予想以上に時間がかかった。


 本当に道なのか怪しいほど草が伸び、立ち木の茂った中を進んでようやく河原に出たころには、日は傾いて夕方になっていた。茜色の太陽に照らされて、眼前いっぱいに広がっている岩々がオレンジに染まっている。


「あ、あそこだ! 湯気が見える! リテ、温泉だよ温泉!」

 予想していたよりもずっと広く、岩で覆いつくされた河原をしばらく進んだところで、トーキが叫んだ。

 びっくりするくらい喜んでいる。本当に温泉が好きみたい。

 私としては、思いのほか時間がかかってしまったので、ささっと汗を流して休みたい。


 先走ったトーキは、河原の中でもひときわ大きな岩に上って、湯気の立つ方を眺めている。

 そこから温泉が見えるらしい。

 私もその大岩を上り見えたのは、一面に湯気をあげ、夕日を反射して輝く、お湯の湖と呼べるほど広大な温泉だった。


「すげぇ! 思ってたより百倍広い! うおおおお」

 こっちが驚くほど興奮して、トーキは温泉に駆けだした。

 確かに、ここまで広いとは思ってなかったけど、子供みたいにはしゃぐトーキが可笑しかった。


 私は近づいて、温泉の岸に立つ。広い河原全体が湧き出た温泉に浸っていると言っていい。

 深いところでも私の腰くらいの深さだろうか。普通につかるのにちょうど良さそうだ。ここからよく見えない奥の方はもっと深そうだが、そこまでは行かなければいい。


 そっと手を入れてみると、少し熱いけれど気持ち良い。

「トーキ、先に入っていいよ」

「いや、リテが先にどうぞ!」

「え、そんなに嬉しそうなんだから、トーキが先に入れば?」

「いや、俺はリテの後にゆっくり入るから」

「そう。じゃあ、先に入るね」


 トーキには、見えないようにさっき上った大岩の陰で待っていてもらう。

 私は、トーキが岩で隠れて見えないことを確認して、汗ばんだ服を脱いだ。

 下着も脱いで、魔石だけはしっかりと握りしめて、そろりと温泉に足を浸す。


 うん、良い温度だ。

 温泉の中は、河原の丸石が敷き詰められたようになっていて、感触も心地良い。

 足を進めて少し深いところで腰を下ろす。

 肩まで温泉につかると、じんわりと熱が身体に染み込む。


「ああ~~」

 なんか、変な声が出た。トーキに聞こえていないだろうか。まあいいか。


 河原を渡るひんやりした風が顔を撫でていく。

 遠くに鳥の声が聞こえる。魔石は首にかけて、しっかり握る。

 目を閉じる。風で髪が揺れる。温泉がちゃぷちゃぷと音を立てる。

 ほんの少し、硫黄の匂いがする。

 温まった身体が、お湯に溶けていくように感じる。

「ぎもちいい~~」

 つい口から出た。

 もう、トーキに聞かれてもどうでもいい気分だ。



 …………………



 温泉の温かさに身体も慣れてきて、私は改めて自分の裸が目に入る。

 短い脚。

 小さな胸。

 肌も姉さんや母さんほど白くない。


 見慣れた自分の身体だけど、こうして明るい屋外で見ると、余計に貧相に見える。

 だいたい、トーキはこんな私のどこが好きだっていうのだろうか。

 お母さんやお姉ちゃんを見ても、私が好きだなんて、ちょっと信じられない。


 そして私は、お母さんに言われたことを思い出す。

 旅に出る直前、珍しくお母さんが私の部屋に来て、二人きりで話した。

 お母さんは私が大人の身体だということを理解してくれている。

 トーキ、男性と二人きりで旅に出るにあたって、知っておかなければならないこととして、私にいろいろと教えてくれた。


 それは、女と男が、子供を作るためにする行為のこと。


 女と男が、どうしたら子供が出来るのか、その身体の仕組みは既に知っていた。

 私が、普通のエルフでは在り得ない年齢で生理がきた時に、お母さんが教えてくれたのだ。だが、そのために具体的にどんな行為をするのかは、その時は教わらなかった。


 実際にどんな行為をして、どうすれば子供が出来るのか。

 お母さんから聞いた内容は、かなり衝撃的だったけど、これはとても大切なことなんだと教えてくれた。


 エルフは、結婚して生涯を共にすると誓った相手としか、そういう行為はしない、ということも教わった。

 だから、ドワーフのメルギィの父母が一緒に住んでないのは驚いた。そういう価値観もあるのだというのは理解できる。

 だけどこの行為に関しては、やっぱり私はエルフの価値観の方がしっくりくる。


 お母さんは、私とトーキがそういう行為をして、良いとも悪いとも言わなかった。

 私の意思に任せてくれたんだと思う。

 ただ、こう言っただけだ。

「あなたが本当に信頼できる相手とだけするのよ」


 お母さんのこの言葉は私の中にある。

 昨夜のトーキと自分のことを思い返してみても、その場の雰囲気に流されるような決断をしなくてよかった。


 恋愛経験が乏しい、というか皆無と言っていい私は、まだ本気で人を好きになるということが良くわからない。でも、これはきちんと考えて決めなければいけないことだ。

 いずれトーキの気持ちにも向き合わなければいけないけれど、まだ解答は見つけられていない。



 ……………………



 しばらくお湯につかって、いろんなことを考えて意識もぼんやりしていった頃、湯気の向こうで何か大きなものが動いたように見える。


 魔獣か?

 気づけば、太陽も落ちかけている。魔獣が出てもおかしくはない。


 私は一気に緊張して魔石を握りしめる。

 そうだ、魔獣除けのベル。

 温泉の岸に置いたはずだ。


 ゆっくりと動いて岸まで行き、ベルを見つけて振る。

 コーンと、音が鳴り響く。

 魔獣なら、これで逃げていくはず。

 私は、一瞬安堵するが、湯気の向こうを見て異変に気付く。


 湯気の中に見える魔獣の影が、動いていない。

 どうしてだ?


 もう一度ベルを振る。

 やはり動かない。


 魔獣じゃないんだろうか。

 そう思っていると、さらに大きな何かが目の前の湯気を切り裂いて現れた。


 私の目の前。ほんの2メーリほどだろうか。

 見たこともない巨大な魔獣だった。


 家ほどもある巨体。茶色い長い体毛。ずんぐりとした身体。丸い顔に短い角。

 そいつは、はるか上からちらりと私を眺めて、そのまま温泉の奥へと入っていった。


 あんなに大きな魔獣、初めてだ。種類も分からない。

 しかも、私に気付いたのに、逃げも襲いもしない。

 なぜだ?


 私が疑問に思っている中、さらにいくつもの影が湯気の中を動いていく。

 どれも、普通の魔獣の何倍も大きく見える。


 山の谷間の河原、日が沈んで急激に風が吹いた。

 今まで湯気で隠れていた温泉の全貌があらわになる。


 そこには、巨大な魔獣がひしめいていた。

 広大な温泉を埋め尽くす魔獣たち。

 みな、ゆったりとこの温泉につかっている。


「ここ、魔獣の温泉だったんだ……」



毎週月曜日、朝6:00更新です

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