第十四話 父親
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
事件からしばらくが経ち、リリアーナの体調も随分と回復していた。
まだ長時間の外出や激しい運動は控えるように言われているものの、日常生活に大きな支障はなくなっている。
食事も少しずつ以前の量に戻り、先日は兄姉たちとのお茶会を楽しむこともできた。
何より、仕事をしなくていい。
医師から療養を命じられている以上、堂々と休んでいられるのである。
もちろん、毒を盛られたことは恐ろしかったし、二度と経験したくない。
それでも、ようやく穏やかな日常が戻りつつあることに、リリアーナは心から安堵していた。
そんなある日の午後。
自室で読書を楽しんでいたリリアーナのもとへ、サリナが慌ただしくやって来た。
「リリアーナ様」
「んー? どうしたの?」
「陛下がお見えになりました」
「…………え?」
リリアーナは本から顔を上げた。
「……お父様が?」
「はい。間もなくこちらへお越しになるそうです」
「……何か、用件は?」
「特には伺っておりません」
「…………」
リリアーナは、そっと本を閉じた。
嫌な予感がする。
非常に嫌な予感がする。
父がわざわざ自室まで訪ねてくるなど、そうそうあることではない。
しかも、事前に用件が伝えられていないとなれば、なおさらだった。
「……サリナ」
「はい」
「私、何かやらかしたかしら?」
「……心当たりがございますか?」
「ないから聞いてるのよ!」
リリアーナは頭を抱えた。
今回の事件については、兄姉たちが見事に解決してくれた。
伯爵も捕らえられ、自供したと聞いている。
自分は療養に専念していただけだ。
何もしていない。
いや、何もしていないことが問題なのだろうか。
まさか、そろそろ仕事に復帰しろという話では。
「……まだ療養中よね?」
「はい」
「先生も、無理はしないようにって言ってたわよね?」
「はい」
「……よし」
リリアーナは小さく頷いた。
医師の言葉を盾にすれば、多少の仕事は回避できるはずだ。
そう自分に言い聞かせたところで、扉が叩かれた。
「陛下がお見えになりました」
「……っ!」
リリアーナは慌てて立ち上がった。
「ど、どうぞ!」
扉が開く。
入ってきたのは、プレイング王国の国王だった。
そして、その顔を見た瞬間。
リリアーナは固まった。
明らかに機嫌が悪そうだったのである。
眉間には深い皺が刻まれ、口元は固く結ばれている。
いつもの威厳ある表情とは、少し違っていた。
怒っている。
間違いなく怒っている。
リリアーナは背筋を伸ばした。
「お、お父様! 本日はどのようなご用件で……!」
国王は答えなかった。
ただ、リリアーナの顔をじっと見つめている。
「……リリアーナ」
「は、はい!」
「身体の具合はどうだ」
「えっ?」
予想していなかった質問に、リリアーナは目を瞬かせた。
「あ、はい。おかげさまで、かなり回復いたしました」
「……そうか」
「食事も普通に取れるようになっておりますし、先日はお兄様方とお茶会もいたしました!」
「……そうか」
国王は短く答えた。
そして、再び黙り込んだ。
「…………」
「…………」
気まずい。
非常に気まずい。
リリアーナは、助けを求めるようにサリナへ視線を向けた。
サリナは静かに一礼すると、紅茶の準備を始めた。
どうやら、しばらく滞在するらしい。
リリアーナは、ますます緊張した。
◇
やがて、二人は向かい合って紅茶を飲んでいた。
国王は、ほとんど口を開かなかった。
リリアーナも、何を話せばいいのかわからない。
ただ、時折カップを持ち上げ、紅茶を口に運ぶ。
そして、そっと父の様子を窺う。
相変わらず、不機嫌そうな顔をしていた。
何か言いたいことがあるのだろう。
しかし、国王は何も言わない。
沈黙だけが続いていく。
リリアーナは、心の中で必死に考えていた。
何だろう。
何を言われるのだろう。
今回の事件についてだろうか。
もしかすると、王族としての自覚が足りないと叱られるのかもしれない。
確かに、自分にも落ち度はあった。
王族でありながら、出された菓子を何の疑いもなく口にしてしまった。
警戒心が足りなかったと言われれば、そのとおりだろう。
結果として、多くの人に迷惑をかけてしまった。
父も、兄姉たちも、サリナも、ケインも。
皆が、自分のために動いてくれた。
そう考えると、リリアーナは次第に申し訳なくなってきた。
叱られる前に、自分から謝った方がいいかもしれない。
リリアーナは、そっとカップを置いた。
「……お父様」
国王が顔を上げた。
「何だ」
「……その、今回の件なのですが」
「…………」
国王は、黙って娘を見つめていた。
リリアーナは、膝の上で両手を握り締めた。
「私の警戒が足りなかったのだと思います」
国王の眉が、わずかに動いた。
「王族でありながら、出されたものを何の疑いもなく口にしてしまいました」
「…………」
「その結果、皆様に大変なご迷惑とご心配をおかけしてしまって……」
リリアーナは、深く頭を下げた。
「本当に、申し訳ございませんでした」
静寂が訪れた。
国王から、返事はなかった。
リリアーナは、頭を下げたまま待っていた。
どんな叱責が飛んでくるのだろう。
王族としての自覚が足りない。
危機管理がなっていない。
もっと周囲に注意を払え。
何を言われても仕方がない。
そう覚悟していた。
すると、椅子が静かに動く音が聞こえた。
国王が立ち上がったのだ。
リリアーナは、思わず身を固くした。
足音が近づいてくる。
一歩。
また一歩。
そして、目の前で止まった。
「……お父様?」
リリアーナが顔を上げる。
次の瞬間。
国王は、椅子に座ったままのリリアーナを、そっと抱きしめた。
「……え?」
リリアーナは、何が起きたのかわからなかった。
父の腕が、自分の背中へ回されている。
強く締めつけるわけではない。
まるで、壊れ物に触れるかのように、優しく抱きしめられていた。
「……お父様?」
戸惑うリリアーナの耳元で、低い声が響いた。
「……馬鹿者」
リリアーナの肩が、びくりと震えた。
やはり、怒られるのだろうか。
そう思った。
しかし、続いた言葉は、予想とはまったく違っていた。
「……お前が謝ることなど、何一つ無い」
「……え?」
国王は、娘を抱きしめたまま続けた。
「お前は、ただ菓子を食べただけだ」
「…………」
「何の疑いもなく、出されたものを口にした。それが、何だというのだ」
国王の声は、いつもより低かった。
しかし、そこに怒りは感じられなかった。
「王宮で出された食事を、安心して口にすることすら許されぬというのか」
「……お父様」
「王族だからといって、常に毒を疑い、周囲のすべてを警戒して生きなければならぬというのか」
国王は、静かに首を振った。
「……違う」
抱きしめる腕に、わずかに力がこもった。
「そんなことを、お前に求めた覚えはない」
リリアーナは、何も言えなかった。
国王は、しばらく黙っていた。
そして、絞り出すように言葉を続けた。
「むしろ……臣下の暴走を止められなかった私こそ、責められるべきだ」
「……っ」
「王として、国を治める者として……あのような事態を招いた責任は、私にある」
リリアーナは、目を見開いた。
父が、自分に謝ろうとしている。
その事実が、すぐには理解できなかった。
「……お父様、そんな……」
「リリアーナ」
国王が、娘の名前を呼んだ。
いつものような、威厳に満ちた声ではなかった。
ただ、一人の父親が、娘へ語りかける声だった。
「……本当に、すまなかった」
その言葉を聞いた瞬間。
リリアーナは、ようやく気づいた。
自分を抱きしめている父の手が、震えている。
ほんのわずかだった。
けれど、確かに震えていた。
そして。
ぽたり。
何かが、リリアーナの肩へ落ちた。
温かな雫だった。
「…………」
リリアーナは、息を呑んだ。
父は、泣いていた。
あの厳格な父が。
王として、常に威厳を保ち続けてきた父が。
今、自分を抱きしめながら、涙を流していた。
リリアーナの胸が、ぎゅっと締めつけられた。
そうか。
そうだったのか。
父は、怒っていたのではない。
何を言えばいいのかわからなかったのだ。
自分が毒を盛られ、五日間も意識を失っていたこと。
命を落としていたかもしれないこと。
その恐ろしさを、父もずっと抱えていたのだ。
王としてではなく。
一人の父親として。
娘の身を案じていたのだ。
リリアーナは、ゆっくりと両手を上げた。
そして、父の背中へ腕を回した。
「……お父様」
国王は答えなかった。
ただ、娘を抱きしめている。
リリアーナは、そっと目を閉じた。
これまで、父のことを恐ろしいと思ったことは何度もあった。
厳しい王命を下され、仕事を任され、休暇だと思えば新たな仕事が待っている。
自分を働かせることに関しては、誰よりも容赦がない人だと思っていた。
けれど。
今、目の前にいるのは、そんな国王ではなかった。
娘を失いかけたことを、心から悔やんでいる父親だった。
リリアーナは、小さく微笑んだ。
「……ありがとうございます、お父様」
その言葉に、国王の腕がぴくりと動いた。
「……何を、礼など」
「だって……」
リリアーナは、父の背中を優しく撫でた。
「こんなにも、私のことを心配してくださっていたんですもの」
「…………」
「……嬉しいです」
国王は、何も答えなかった。
ただ、抱きしめる腕の力が、少しだけ強くなった。
リリアーナも、父の背中へ回した腕に、そっと力を込めた。
部屋の中には、静かな時間が流れていた。
サリナは、少し離れた場所で二人を見守っていた。
そして、音を立てないように、そっと部屋を後にした。
今だけは、誰にも邪魔されない方がいい。
国王と王女ではなく。
ただの父と娘として。
二人が過ごす時間なのだから。
窓から差し込む午後の日差しが、寄り添う親子を優しく照らしていた。
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