第九話 逃げ回る鼠を捕らえる方法は、一つに非ず
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
リリアーナが意識を取り戻してから、二日が経過した。
まだ寝台から起き上がることは許されていなかったものの、少しずつ食事も取れるようになり、短い会話であれば問題なくできるまでに回復していた。
もっとも、身体の状態が改善したからといって、恐怖まで消えたわけではない。
食事を前にすると、どうしても手が止まってしまう。
毒を盛られたときのことを思い出すからだ。
医師が安全を確認したものだと説明してくれても、頭では理解できるのに、身体が受け付けない。
昨日も、サリナが運んできた果実の煮込みを見て、思わず顔を背けてしまった。
そんな自分が情けなくもあったが、サリナは何も言わず、別の料理を用意してくれた。
そして今日も、寝台の傍らにはサリナが控えている。
「……サリナ」
「はい、リリアーナ様」
「お茶が飲みたいわ」
「かしこまりました」
サリナが用意してくれたのは、香りの穏やかな温かいお茶だった。
もちろん、医師が許可したものだ。
リリアーナは差し出された茶器を見つめた。
少しだけ、手が震える。
「……大丈夫ですよ」
サリナは、それ以上何も言わなかった。
リリアーナはしばらく茶器を見つめた後、ゆっくりと口をつけた。
温かいお茶が喉を通る。
何も起こらない。
当たり前のことなのに、それだけで胸がいっぱいになった。
「……美味しい」
「それはようございました」
サリナが微笑む。
リリアーナも、ほんの少しだけ笑った。
「……ねえ、サリナ」
「はい」
「お姉様を呼んでもらえる?」
「エレオノーラ様でございますね?」
「ええ。少しお願いしたいことがあるの」
サリナは一瞬だけ主人を見つめた。
「……お仕事でございますか?」
「……お願いよ?」
「同じことではございませんか?」
「違うわよ。私が働くわけじゃないもの」
サリナは小さく息を吐いた。
「承知いたしました。ただし、長時間のお話はお控えくださいませ」
「わかっているわ」
リリアーナは素直に頷いた。
以前なら、ここで少しぐらい大丈夫だと言い張っていたかもしれない。
けれど、今は違う。
自分の身体が、まだ思うように動かないことを嫌というほど理解していた。
何より、再び倒れて周囲を心配させることだけは避けたかった。
◇
「リリアーナ、具合はいかが?」
しばらくして、エレオノーラが寝室を訪れた。
その手には、小さな花束が握られている。
「庭園で綺麗な花が咲いておりましたの。少しでも気分が明るくなればと思いまして」
「ありがとうございます、お姉様」
エレオノーラは花をサリナに預けると、寝台の傍らに腰を下ろした。
「今日は顔色がよろしいようですわね」
「ええ。少しずつですが、楽になってきました」
「それは何よりですわ。ですが、無理は禁物ですからね?」
「わかっています」
リリアーナが素直に頷くと、エレオノーラは少し驚いたように目を瞬かせた。
「……随分と素直ですわね」
「私だって、反省ぐらいしますわよ」
「ふふっ。そうですわね」
姉が笑う姿を見て、リリアーナも微笑んだ。
けれど、すぐに表情を引き締めた。
「……お姉様、お願いがあるのですが」
「何でしょう? 欲しいものでもございますの?」
「婦人方をお招きして、お茶会を開いていただけませんか?」
「……お茶会、ですか?」
エレオノーラは首を傾げた。
「ええ。できれば、いろいろな家の方々をお招きしていただきたいのです」
「それは構いませんけれど……何のために?」
「情報収集です」
エレオノーラは、しばらく妹の顔を見つめた。
「……情報収集?」
「はい」
リリアーナは小さく頷いた。
「お兄様方が、貴族裁判の準備を進めてくださっていますでしょう?」
「ええ。ヴィクトリアお姉様を中心に、証拠や証言の整理が進められておりますわ」
「ですが、裁判で語られることが、すべてとは限りません」
エレオノーラは静かに頷いた。
「……確かに、そうですわね」
「ですから、お姉様には、婦人方からお話を聞いていただきたいのです」
「なるほど……。それを裁判で得られた情報と照らし合わせるのですね?」
「はい」
リリアーナは微笑んだ。
「例えば、最近どこの家とどこの家が親しくしているのか。誰が誰と会っていたのか。いつもと違うことがなかったか……そういったお話です」
エレオノーラは少し考え込んだ。
「ですが、そのようなことを直接尋ねても、警戒されるのではありませんか?」
「もちろんです。ですから、直接尋ねる必要はありません」
「……と、申しますと?」
「普段どおりのお茶会を開いていただければよいのです」
リリアーナは、ゆっくりと言葉を続けた。
「最近のお買い物のお話でも、流行の衣装のお話でも、どこかのお屋敷で開かれた夜会のお話でも構いません。婦人方が普段どおりにお話しされる中で、気になることがあれば覚えておいていただきたいのです」
エレオノーラは目を細めた。
「……なるほど。事件のことを尋ねるのではなく、普段の人間関係を知るためのお茶会ですのね」
「はい。事件のことばかり尋ねてしまえば、皆様も警戒なさるでしょうから」
「確かにそうですわね」
エレオノーラは微笑んだ。
「それでしたら、私にもできることがございますわ」
「ただし、一つだけお願いがあります」
「何でしょう?」
「噂を、そのまま事実だと思わないでください」
エレオノーラは、静かに頷いた。
「もちろんですわ」
「誰かが誰かと親しくしているからといって、事件に関係しているとは限りません。反対に、仲が悪いと言われているからといって、本当にそうなのかもわかりません」
「ええ。お茶会での会話には、誇張も勘違いもございますもの」
「ですから、気になったことを記録して、裁判で得られた情報と照らし合わせていただきたいのです」
エレオノーラは、しばらく考え込んだ。
「……そうなりますと、ヴィクトリアお姉様とも連携する必要がございますわね」
「はい。お姉様が集めた情報を、ヴィクトリアお姉様に確認していただければと思います」
「承知いたしました」
エレオノーラは微笑んだ。
「では、早速準備を進めましょう。もっとも、あまり大勢を一度にお招きすると、かえって不自然ですから、何度かに分けた方がよろしいでしょうね」
「そのあたりは、お姉様にお任せします」
「ふふっ。随分と簡単に任せてくださるのね」
「だって、私よりお姉様の方が詳しいでしょう?」
エレオノーラは、少しだけ目を見開いた。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「……そうですわね」
リリアーナも笑った。
「ですから、よろしくお願いします」
「ええ。お任せくださいませ」
エレオノーラは妹の手を握った。
「ですが、リリアーナ」
「はい?」
「あなたは、もうお仕事禁止ですわよ?」
「……はい」
「本当にわかっていらっしゃる?」
「お願いしただけですもの」
「ふふっ。それなら、よろしいですわ」
エレオノーラは笑いながら立ち上がった。
「では、早速準備を始めますわね」
「ありがとうございます、お姉様」
リリアーナは、安心したように微笑んだ。
◇
その日の午後、エレオノーラはヴィクトリアの執務室を訪れた。
「……お茶会?」
ヴィクトリアは、書類から顔を上げた。
「ええ。リリアーナからお願いされましたの」
エレオノーラは、妹から聞いた話を説明した。
婦人方を招いてお茶会を開き、普段の人間関係や最近の動向について話を聞く。
そして、そこで得られた情報を貴族裁判の証拠や証言と照らし合わせる。
説明を聞き終えたヴィクトリアは、しばらく考え込んだ。
「……なるほど。裁判の場では得られない情報を、別の場所から集めるわけですね」
「ええ。もちろん、噂をそのまま信じるつもりはございませんわ」
「それは重要ですね」
ヴィクトリアは頷いた。
「裁判では、証拠として扱えるものと、単なる噂を明確に区別する必要があります」
「承知しておりますわ。ですから、私が集めた情報を、お姉様に確認していただきたいのです」
「ええ。喜んで協力いたします」
ヴィクトリアは、机の上に置かれた書類へ視線を落とした。
「現在、実行犯たちの証言を整理しているところです。誰が、いつ、どこで、誰と接触したのか。その記録と照らし合わせれば、何か見えてくるかもしれません」
「でしたら、私の方でも、できるだけ詳しくお話を聞いてまいりますわ」
「ただし、無理に事件の話題へ誘導しないでくださいね」
「もちろんですわ」
エレオノーラは微笑んだ。
「お茶会は、あくまでもお茶会ですもの」
ヴィクトリアも微笑んだ。
「……それにしても、リリアーナはよく考えましたね」
「ええ。本当に」
エレオノーラは、少しだけ目を伏せた。
「……あの子、まだ怖がっているのです」
ヴィクトリアの表情が変わった。
「……そうですか」
「食事を前にすると、手が震えてしまうこともあるそうですわ。それでも、私たちに何かできることはないかと考えてくれているのです」
ヴィクトリアは、しばらく黙っていた。
そして、静かに口を開いた。
「……でしたら、なおさら私たちが頑張らなければなりませんね」
「ええ」
エレオノーラは頷いた。
「今度は、私たちがあの子を守る番ですわ」
◇
翌日、エレオノーラは早速、お茶会の準備を始めた。
まずは、普段から交流のある婦人方へ招待状を送る。
ただし、今回の事件に関係していると思われる家だけを集めるようなことはしなかった。
それでは、こちらの意図を悟られてしまう可能性がある。
あくまでも、普段どおりの交流を装う必要があった。
「……さて、どなたをお招きしましょうか」
エレオノーラは招待客の一覧を眺めながら、静かに考え込んだ。
今回の目的は、犯人を探し出すことではない。
それぞれの家が、最近どのような動きをしているのかを知ることだ。
そのためには、特定の派閥だけに偏らず、さまざまな立場の婦人方を招く必要がある。
エレオノーラは、何人かの名前を選び、招待状を用意させた。
そして数日後。
王宮の一室で、小規模なお茶会が開かれた。
「エレオノーラ殿下、本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、お越しいただきありがとうございます。どうぞ、おくつろぎくださいませ」
エレオノーラは、いつもと変わらない微笑みで客人たちを迎えた。
話題は、最近の流行や衣装、王都で評判の菓子店など、他愛のないものから始まった。
やがて、話は自然と貴族家同士の交流へと移っていく。
「そういえば、先日、ラングレー家の夜会にお招きいただきましたの」
「あら、そうでしたの?」
「ええ。最近は随分と多くの方をお招きになっているようですわね」
「そういえば、以前はあまり交流のなかった家の方々も、お見かけいたしましたわ」
エレオノーラは、何気ない様子で相槌を打った。
「まあ、そうでしたの。随分と賑やかな夜会だったのでしょうね」
「ええ。それはもう」
婦人方は楽しそうに話を続けた。
エレオノーラは、その会話を静かに聞いていた。
誰が、どの家の夜会に参加していたのか。
最近、どの家同士の交流が増えているのか。
普段とは違う動きがなかったか。
もちろん、これらの話だけで何かがわかるわけではない。
けれど、何気ない会話の中に、後から重要になる情報が含まれている可能性はあった。
エレオノーラは、決して話を急がせなかった。
相手が話したいことを、自然に話してもらう。
それが、今回のお茶会の目的だった。
◇
お茶会が終わった後、エレオノーラは執務室へ戻り、記憶している内容を書き留めた。
誰が、どのような話をしたのか。
誰の名前が、どの場面で出てきたのか。
そして、どの情報が本人の経験で、どの情報が人づてに聞いた話なのか。
それらを区別しながら整理していく。
「……さて、これをヴィクトリアお姉様にお渡しすればよろしいのね」
エレオノーラは書類をまとめ、侍女に連絡を頼んだ。
しばらくして、ヴィクトリアの執務室で二人は再び顔を合わせた。
「こちらが、本日のお茶会で伺ったお話ですわ」
「ありがとうございます」
ヴィクトリアは書類を受け取り、内容を確認した。
いくつかの名前を見つけ、手元にある調査記録と照らし合わせる。
「……なるほど」
「何かございました?」
「いえ、まだ何とも申し上げられませんが……」
ヴィクトリアは、一つの記録へ視線を落とした。
「こちらの家は、事件の数日前に、ある人物と接触していたことが確認されています」
「まあ……」
「ただし、それだけで事件との関係を疑うことはできません。偶然の可能性もございます」
「ええ。ですから、ほかの情報とも照らし合わせる必要がございますわね」
「そのとおりです」
ヴィクトリアは頷いた。
「ですが、調査の方向を考えるうえでは、参考になります」
エレオノーラは、少しだけ微笑んだ。
「それでしたら、お茶会を開いた甲斐がございましたわ」
「ええ。引き続き、お願いできますか?」
「もちろんですわ」
エレオノーラは頷いた。
「リリアーナから頼まれたお仕事ですもの。最後まで、きちんと務めさせていただきます」
◇
一方、レオナルドは貴族家の動向を確認していた。
裁判の準備が進められているという情報は、すでに王都の貴族たちの間にも広まり始めている。
王族への毒殺未遂という重大事件である以上、関心が集まるのは当然だった。
しかし、その反応は家によって異なっていた。
事件の早期解決を求める家。
裁判の公正さを重視する家。
そして、慎重な姿勢を崩さない家。
レオナルドは、それぞれの反応を記録していた。
「……さて、誰が何を考えているのかな」
机の上に広げられた書類を眺めながら、レオナルドは静かに呟いた。
もっとも、表向きの反応だけで判断するつもりはなかった。
事件に関係していない家であっても、王族が狙われたとなれば慎重になるのは当然だからだ。
重要なのは、これまでの動きとの違いだった。
裁判の話が出る前と、出た後。
その変化を確認する必要がある。
「……ヴィクトリアとエレオノーラの情報が揃えば、もう少し見えてくるかもしれないね」
レオナルドは、手元の書類へ新たな記録を書き加えた。
◇
ユリウスは、実行犯たちの取り調べを進めていた。
隣国の動向についても部下に調査を命じていたが、現時点で目立った変化は確認されていなかった。
事件に関係した者たちは、現在、厳重な警備のもとで拘束されている。
その中には、家族を脅されて犯行に加担した者もいた。
ユリウスは、彼らの証言を一つずつ確認していた。
「……つまり、お前は指示されたとおりに粉末を混ぜた。それ以上のことは知らないというのだな?」
「は、はい……」
取り調べを受けていた男は、震える声で答えた。
「誰から指示を受けた?」
「……名前は、わかりません……」
「顔は見たのか?」
「……いいえ。顔を隠しておりましたので……」
ユリウスは、しばらく男を見つめた。
そして、手元の記録へ視線を落とした。
「……わかった。今日はここまでだ」
男が連れ出されると、ユリウスは側近へ指示を出した。
「証言に出てきた場所を、もう一度確認しろ。出入りした人物の記録が残っていないか調べるんだ」
「はっ!」
「それから、関係者の家族の警護も継続しろ。黒幕が口封じを図る可能性がある」
「承知いたしました!」
側近が退出すると、ユリウスは深く息を吐いた。
「……必ず見つけ出してやる」
その声には、静かな怒りが込められていた。
◇
数日後。
ヴィクトリアの執務室には、四人の兄姉たちが集まっていた。
机の上には、これまでに集められた調査記録が並べられている。
「……それでは、現在の状況を整理いたしましょう」
ヴィクトリアが口を開いた。
「まず、実行犯については、すでに身柄を確保しております。毒物を混入させた経緯についても、一定の証言が得られています」
ユリウスが頷いた。
「ただし、指示を出した人物については、まだ特定できていない」
「ええ。そこで、今回の貴族裁判を利用し、関係者の動きを確認したいと考えております」
レオナルドが口を開いた。
「貴族たちの反応については、僕の方でも記録をまとめているよ。裁判の話が広まってから、いくつかの家で動きが見られるようになった」
エレオノーラも頷いた。
「私の方でも、お茶会で伺ったお話を整理しておりますわ。まだ直接事件に結びつくものはございませんけれど、家同士の交流については、いくつか気になる点がございます」
ヴィクトリアは、三人の報告を聞きながら頷いた。
「ありがとうございます。これらの情報を照らし合わせれば、裁判で確認すべき点も明確になるでしょう」
レオナルドが微笑んだ。
「それにしても、リリアーナはうまく役割を振り分けたね」
「ええ。本当に」
エレオノーラも微笑んだ。
「私たちそれぞれが、得意なことを活かせるように考えてくれたのでしょうね」
ユリウスは腕を組んだ。
「……本人は寝ているだけだがな」
その言葉に、三人は思わず笑った。
「ふふっ。それがあの子らしいところですわ」
ヴィクトリアが微笑む。
「ですが、今はそれでよいのです。リリアーナには、しっかり身体を治してもらわなければなりませんから」
四人は頷き合った。
そして、ヴィクトリアが静かに口を開いた。
「……では、貴族裁判の準備を進めましょう」
◇
それからさらに数日が経過した。
王都では、貴族裁判の開催が正式に告知された。
王族への毒殺未遂という重大事件を扱うため、関係する貴族家には出席を求める通知が送られた。
当然ながら、王都の貴族たちは騒然となった。
誰が関与しているのか。
どのような証拠があるのか。
裁判で何が明らかになるのか。
さまざまな憶測が飛び交った。
しかし、王宮は詳細を公表しなかった。
実行犯が拘束されていることと、事件の調査が進められていることだけが伝えられた。
そして、裁判当日。
王宮の大広間には、多くの貴族たちが集まっていた。
その表情は、緊張に包まれている。
やがて、扉が開かれた。
ヴィクトリアを先頭に、レオナルド、ユリウス、エレオノーラが入場する。
四人は、それぞれ定められた席へと向かった。
リリアーナの姿はない。
まだ療養中であり、医師から外出を許されていなかったからだ。
それでも、彼女が示した方針は、確かにこの場へと繋がっていた。
ヴィクトリアは、集まった貴族たちを見渡した。
そして、静かに口を開いた。
「それでは、これより、王族毒殺未遂事件に関する審理を開始いたします」
広間が静まり返った。
貴族裁判が、始まろうとしていた。
お読み頂き、ありがとうございます。




