第六話 情けは人の為ならず
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
リリアーナが倒れてから、三日目の朝を迎えた。
エレオノーラは寝室の窓から差し込む朝日を眺めながら、妹の手を握っていた。
昨夜も大きな変化はなかったと医師から聞かされていたが、それは決して容態が改善しているという意味ではない。毒の種類がわからない以上、症状を抑える処置を続けながら、身体が持ちこたえてくれることを願うしかないのだ。
王宮の医師たちは、昼夜を問わず治療にあたっていた。
その努力を疑うつもりはないし、感謝もしている。
けれど、どれほど多くの医師が集まっても、妹が目を覚まさないという現実だけは変わらなかった。
「……リリアーナ、今日は少し顔色がよろしいように見えますわね」
エレオノーラは、眠っている妹へ静かに語りかけた。
実際に顔色がよくなっているのか、それとも自分がそう思いたいだけなのかはわからない。
それでも、何も言わずに座っているよりは、話しかけていた方が気持ちが落ち着いた。
「トランプ地方から、あなたを診てくださるお医者様が向かっていらっしゃいますのよ。毒の治療に詳しい方だそうですから、きっと何かわかるはずですわ」
医師が見つかったのは、リリアーナが倒れた当日だった。
その日のうちに返答が届き、すぐに王都へ向かってくださることになったものの、トランプ地方から王都までは通常であれば四日以上かかる。
昨日も何度か移動状況を問い合わせたが、途中の停留所から届く報告は限られていた。
順調に進んでいることはわかっても、いつ到着するのかまでは判断できなかった。
「……あと少しですからね」
エレオノーラは妹の手を両手で包み込んだ。
「もう少しだけ、頑張ってくださいませ」
そのとき、寝台の反対側にいた医師が、何かに気づいたように身を乗り出した。
「……お待ちください」
「先生?」
医師はリリアーナの脈を確かめると、すぐに別の医師を呼んだ。
二人は短く言葉を交わし、呼吸の状態を確認し始める。
その様子を見て、エレオノーラの胸に不安が広がった。
「何か、ございましたの?」
「……殿下、申し訳ございません。少し場所を空けていただけますか」
「え?」
「呼吸が、先ほどよりも弱くなっております」
その言葉を聞いた瞬間、エレオノーラの身体が強張った。
医師たちが次々と集まり、寝台の周囲が慌ただしくなる。
リリアーナの胸が上下する動きは、確かに先ほどよりも小さくなっていた。
「……リリアーナ?」
呼びかけても、返事はない。
それどころか、妹の顔色が急速に悪くなっていくように見えた。
「先生! 妹はどうなっておりますの!?」
「容態が急変しております! 殿下、どうかお下がりください!」
エレオノーラは言われるままに立ち上がったものの、その場から離れることができなかった。
医師たちは呼吸を補助するための処置を始め、脈拍や身体の反応を確認しながら、次々と指示を出している。
しかし、リリアーナの状態は一向に落ち着かなかった。
「……どうして」
昨日までは、少なくとも大きな変化はなかったはずなのに。
トランプ地方から医師が来てくださるまで、あと少しのはずなのに。
「どうして、今なのですか……!」
エレオノーラの声は、誰にも届かなかった。
◇
容態の急変は、すぐに国王と兄姉たちへ伝えられた。
最初に駆けつけたのは、近くで執務を行っていたヴィクトリアだった。
「エレオノーラ、リリアーナは!?」
「お姉様……!」
エレオノーラは振り向いたものの、上手く言葉を続けられなかった。
医師たちが必死に処置を行っていることも、先ほどから呼吸が弱くなっていることも説明しなければならないのに、喉が詰まってしまう。
ヴィクトリアは妹の肩を抱き、寝台の方へ視線を向けた。
そこでは医師たちが絶え間なく動き続けていた。
「……先生、状況を説明してください」
ヴィクトリアの問いに、医師の一人が振り向いた。
「先ほどから呼吸と脈拍に異常が見られ、現在、可能な限りの処置を行っております。毒による影響が進行している可能性がございますが、原因を特定できておりません」
「回復の見込みは?」
「……現時点では、何とも申し上げられません」
ヴィクトリアは唇を引き結んだ。
それ以上問い詰めたところで、答えが変わるわけではない。
「わかりました。治療に必要なものがございましたら、遠慮なく申し出てください」
「ありがとうございます」
医師が再び治療へ戻ると、ヴィクトリアはエレオノーラの方へ向き直った。
「トランプ地方の医師は、まだ到着していないのですね?」
「……はい」
「移動状況は確認していますか?」
「昨日から何度も問い合わせております。途中の停留所を通過したという報告は届いておりますけれど、王都への到着予定までは……」
エレオノーラは震える声で答えた。
「お姉様、どうしましょう……。このままでは、リリアーナが……」
その先を口にすることはできなかった。
ヴィクトリアは妹を抱き締め、静かに背中を撫でた。
「まだ、諦めてはいけません。医師たちも懸命に治療してくださっています」
「……はい」
「私も、到着予定を確認してまいります。あなたはここで、リリアーナのそばにいてあげてください」
エレオノーラは小さく頷いた。
ヴィクトリアが部屋を出ていった後、彼女は再び寝台へ視線を向けた。
医師たちの動きは、ますます慌ただしくなっている。
その光景を見つめながら、エレオノーラはただ祈ることしかできなかった。
◇
それから、どれほどの時間が経過したのだろう。
窓から差し込んでいた朝日は、いつの間にか部屋の奥まで届くようになっていた。
医師たちは交代することも忘れたかのように治療を続けている。
レオナルドとユリウスも駆けつけ、国王も一度寝室を訪れたが、治療の妨げにならないよう、必要な報告を受けた後は隣室で待機していた。
誰もが、リリアーナの回復を待っていた。
けれど、容態は一向に安定しなかった。
「……先生」
エレオノーラが声をかけると、年配の医師が顔を上げた。
「妹は、まだ……」
「現在も、全力で処置を続けております」
医師はそう答えたものの、その表情には疲労が色濃く浮かんでいた。
エレオノーラは、それ以上何も言えなかった。
医師たちが必死に努力していることは、十分に理解している。
だからこそ、これ以上何を求めればよいのかわからなかった。
そのときだった。
廊下から慌ただしい足音が聞こえ、扉が勢いよく開かれた。
「エレオノーラ殿下!」
駆け込んできた文官は、息を切らしながら叫んだ。
「トランプ地方の医師が、到着いたしました!」
「……え?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
トランプ地方。
医師。
到着。
頭の中でその言葉が繋がった瞬間、エレオノーラは椅子から立ち上がった。
「本当ですの!?」
「はい! ただいま、こちらへご案内しております!」
「……っ!」
エレオノーラは思わず両手を握り締めた。
通常であれば、四日以上かかるはずだった。
それなのに、医師は三日目に到着したのだ。
どうしてこれほど早く来られたのか。
疑問はあったけれど、今はそれを考えている場合ではない。
「すぐにお通ししてください!」
「承知いたしました!」
文官が廊下へ戻ると、ほどなくして一人の男性が姿を現した。
年齢は五十歳前後だろうか。
旅装のままで、顔には長旅の疲れが浮かんでいる。
それでも、その足取りに迷いはなかった。
「トランプ地方より参りました、医師のオルフェンと申します」
男性は簡潔に名乗り、エレオノーラへ一礼した。
「長旅でお疲れのところ、申し訳ございません。ですが、妹の容態が急変しておりまして……!」
「承知しております。まずは患者を診せていただけますか」
「もちろんです! こちらへ!」
エレオノーラが寝台へ案内すると、オルフェンはすぐに王宮の医師たちへ声をかけた。
「これまでの症状と、行った処置について教えてください」
王宮の医師たちは、用意していた記録を差し出しながら説明を始めた。
オルフェンはそれを確認し、リリアーナの脈や呼吸、瞳の反応などを慎重に調べていく。
途中、いくつか質問を重ねながら、症状が現れた順序や変化について詳しく確認していた。
「……なるほど」
しばらくして、オルフェンは小さく呟いた。
「何か、おわかりになりましたか?」
エレオノーラが尋ねると、オルフェンは真剣な表情で答えた。
「まだ断定はできませんが、毒の種類について、ある程度の見当がつきました」
「……本当ですの!?」
「はい。トランプ地方でも、過去に似た症状を見たことがございます。ただし、今回のものがまったく同じ毒とは限りませんので、慎重に判断する必要があります」
オルフェンは王宮の医師たちへ向き直った。
「いくつか確認したいことがあります。それから、必要な薬剤を用意していただけますか」
彼が薬剤の名前を挙げると、医師の一人が頷いた。
「そちらでしたら、王宮の薬庫にございます」
「では、すぐにお願いします。量については、患者の状態を確認しながら調整します」
医師たちが動き出した。
エレオノーラは、その様子を見つめながら胸の前で手を握った。
これまで、毒の種類さえわからなかった。
それが今、ようやく治療の方向が見えてきたのだ。
けれど、安心するにはまだ早い。
薬が効くかどうかは、実際に投与してみなければわからないのだから。
◇
治療が始まってからも、時間はゆっくりと過ぎていった。
オルフェンは王宮の医師たちと協力しながら、リリアーナの状態を確認し、必要な処置を続けていた。
投薬後もすぐに変化が現れたわけではなく、しばらくは呼吸や脈拍の状態を注意深く見守る必要があった。
エレオノーラは寝台から少し離れた場所で、その様子を見つめていた。
何度も時計を確認した。
けれど、時間が進んでいること以外、何もわからない。
医師たちが短く言葉を交わすたびに胸が締めつけられ、誰かが動くたびに何か起きたのではないかと身構えてしまう。
そんな時間が、何時間も続いた。
やがて、オルフェンがリリアーナの脈を確認した後、王宮の医師へ何かを伝えた。
医師は頷き、再び呼吸の状態を確認する。
それから、オルフェンは静かに息を吐いた。
「……呼吸が、少し落ち着いてきました」
その言葉に、エレオノーラは顔を上げた。
「本当ですの?」
「はい。脈拍も先ほどより安定しております。投与した薬剤が作用している可能性が高いでしょう」
「では、リリアーナは……!」
思わず駆け寄ろうとしたエレオノーラを、オルフェンは穏やかな声で制した。
「まだ安心はできません。毒によって身体が受けた影響もございますので、引き続き慎重に経過を観察する必要があります」
「……はい」
エレオノーラは足を止めた。
わかっている。
今すぐ目を覚ますわけではないことくらい、理解している。
それでも、希望が見えたことが嬉しかった。
それからさらに時間が経過し、リリアーナの呼吸は徐々に安定していった。
王宮の医師たちも、先ほどまでの切迫した表情から、少しずつ落ち着きを取り戻している。
そして、オルフェンが改めて診察を終えたところで、エレオノーラはようやく尋ねることができた。
「……先生。妹は、助かるのでしょうか?」
オルフェンは少しだけ考えた後、静かに答えた。
「峠は越えました。しかし、意識が戻るかどうかは、まだ何とも申し上げられません」
その言葉に、エレオノーラは唇を噛んだ。
助かった。
そう言い切れるわけではない。
それでも、少なくとも今すぐ命を失う危険は、先ほどよりも小さくなったのだ。
「……ありがとうございます」
エレオノーラは深く頭を下げた。
「本当に……ありがとうございます……!」
声が震え、涙が頬を伝った。
オルフェンは静かに首を振った。
「まだ治療は終わっておりません。今後も慎重に経過を見守る必要がございます」
「はい……。どうか、よろしくお願いいたします」
エレオノーラは何度も頷いた。
そして、ようやく少しだけ落ち着いたところで、以前から気になっていたことを思い出した。
「……ところで、先生」
「はい」
「トランプ地方ですと、早くて四日はかかると思っていましたのに、どうやってこれほど早く……?」
エレオノーラの問いかけに、オルフェンは少し驚いたような表情を浮かべた後、穏やかに微笑んだ。
「私も驚きましたよ。道が整備され、停留所があるお陰で、他の馬車を追い越しながら走らせることができました。それに、ジョーカー領の方が寝ずに夜も走らせてくださったのです。絶対に間に合わせてみせると」
「……ジョーカー領の方が?」
「ええ。王女殿下の命がかかっているとお伝えしたところ、すぐに馬車を用意してくださいましてね。途中の停留所でも馬を替えながら、昼も夜も走り続けてくださいました。私の方が、少しは休まれた方がよいのではないかと心配したほどです」
オルフェンは、長旅を思い出したのか、小さく笑った。
「それでも、御者の方は頑として譲られませんでした。自分たちが走れば、その分だけ王女殿下のもとへ早く到着できるのだから、と」
その言葉を聞いた瞬間、エレオノーラの目に涙が浮かんだ。
ジョーカー領の人々。
これまでリリアーナたちが進めてきた道路整備や交通網の改善に関わり、その恩恵を受けてきた人々だった。
もちろん、道を整備したのはリリアーナ一人ではない。
各地方の領主や職人、工事に携わった人々、停留所を運営する者たち。多くの人々が力を合わせ、少しずつ便利な交通網を築き上げてきた。
けれど、その取り組みが今、妹の命を救うために役立っている。
それだけではなかった。
ジョーカー領の人々は、誰かに命じられたからではなく、自らの意思で馬車を走らせてくれたのだ。
妹を助けるために。
「……妹のために、ありがとう」
エレオノーラは涙を拭うことも忘れ、深く頭を下げた。
すると、オルフェンは少し困ったように微笑んだ。
「姫様方にはお世話になりっぱなしですから」
「……え?」
「私も、道中で何度もそのような話を聞きました。以前は移動するだけでも苦労していた道が、今では随分と通りやすくなったそうです。商売がしやすくなったと喜んでいる方もいらっしゃいましたし、遠くの町へ行けるようになったと話してくださる方もおりました」
オルフェンは、静かに言葉を続けた。
「御者の方も仰っていましたよ。自分たちが困っていたときに力を貸してくださったのだから、今度は自分たちが力になる番だと」
「……っ!」
エレオノーラは、思わず口元を押さえた。
リリアーナは、いつも自分が楽をするためだと言っていた。
仕事を減らしたい。
面倒事を避けたい。
できることなら、何もせずにのんびり過ごしたい。
そんなことばかり口にしていた妹だった。
それなのに、誰かが困っていると、結局は放っておけなくなる。
自分だけで何とかしようとするのではなく、兄姉たちや各地方の人々と協力し、少しでも多くの人が暮らしやすくなる仕組みを考えてきた。
その積み重ねが、人々の生活を変えた。
そして今度は、その人々が妹を助けようとしてくれている。
「……そう、でしたのね」
エレオノーラは涙を拭い、オルフェンへ微笑みかけた。
「先生も、長旅でお疲れでしょうに、本当にありがとうございました」
「医師として当然のことをしたまでです。もっとも、あの御者の方には、私からも改めてお礼を申し上げたいところですがね」
「ええ。私からも、必ずお礼を伝えますわ」
エレオノーラはそう答えると、寝台に横たわる妹へ視線を向けた。
リリアーナは、まだ目を覚まさない。
けれど、その呼吸は先ほどまでとは違い、穏やかになっていた。
エレオノーラは寝台の傍らに腰を下ろし、妹の手をそっと握った。
「……リリアーナ」
返事はなかった。
「あなたがしてきたことは、ちゃんと皆様に届いていたのですわね」
妹はきっと、自分が誰かを導いているなどとは考えていないだろう。
むしろ、そんなことを言われたら、仕事が増えそうだからやめてほしいと嫌がるに違いない。
それでも、リリアーナの行動に影響を受け、自ら考えて動くようになった人々がいる。
そして、その人々が、今度はリリアーナを助けてくれた。
「……本当に、あなたという子は」
エレオノーラは、涙を浮かべながら微笑んだ。
「自分が楽をすることばかり考えているくせに、いつの間にか、こんなにも多くの方々を動かしてしまうのですから……」
妹の手を両手で包み込む。
「ですから、今度こそ、あなたが助けられる番ですわ」
まだ意識は戻らない。
医師からも、今後どうなるかはわからないと告げられている。
それでも、妹の命はつながった。
遠く離れた地方から駆けつけた医師と、昼夜を問わず馬車を走らせてくれた人々によって。
「……もう少しだけ、頑張ってくださいませ」
エレオノーラは妹の手を握ったまま、静かに語りかけた。
「あなたが目を覚ましたら、皆様にお礼を申し上げに行きましょうね」
リリアーナが聞いていたなら、きっと移動するのは面倒だと言うだろう。
それでも、最後には何だかんだと理由をつけて、会いに行くに違いない。
エレオノーラは、そんな妹の姿を思い浮かべながら、そっと微笑んだ。
長い三日間の末に、ようやく見えた希望だった。
今はただ、その希望が失われないことを願っていた。
お読み頂き、ありがとうございます。




