第五話 それぞれの役割
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
リリアーナが倒れてから、二日目の朝を迎えた。
エレオノーラはほとんど眠れないまま、妹の寝室で夜を明かしていた。
医師たちは交代で診察を続けていたが、容態が改善する兆しは見られなかった。幸い、昨夜から急激に悪化することもなかったものの、それが安心できる状態を意味するわけではない。
毒の種類が特定できていない以上、今後どのような症状が現れるのかさえ、正確には予測できないのだ。
「エレオノーラ殿下、少しお休みになられてはいかがでしょうか」
医師の一人が、気遣うように声をかけてきた。
「……妹の容態に変化がございましたら、すぐに知らせていただけますか?」
「もちろんでございます。何かございましたら、直ちにお呼びいたします」
エレオノーラはしばらくリリアーナの顔を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
自分がここにいたところで、治療の手助けができるわけではない。
それに、まだやらなければならないことがあった。
「では、少しだけ席を外します。どうか、妹をお願いいたします」
医師に深く頭を下げ、エレオノーラは部屋を後にした。
廊下へ出ると、控えていた侍女が心配そうに近づいてくる。
「殿下、朝食のご用意をいたしましょうか?」
「……今は、あまり食欲がありませんの」
「ですが、昨日もほとんど召し上がっておりません」
その言葉に、エレオノーラは足を止めた。
確かに、昨日からまともな食事を取っていなかった。
けれど、空腹を感じる余裕さえなかったのだ。
「……では、軽いものをお願いいたします。それから、各地方へ送った問い合わせについて、新しい返答が届いていないか確認してください」
「かしこまりました」
侍女が下がるのを見届け、エレオノーラは執務室へ向かった。
トランプ地方から医師が来てくれることは決まっている。
しかし、到着までにはまだ時間がかかる。
ほかにも毒の治療に詳しい医師が見つかれば、少しでも早く手を打てるかもしれない。
可能性がある限り、探すことをやめるつもりはなかった。
◇
同じ頃、王宮の別室では、レオナルド、ヴィクトリア、ユリウスの三人が集まっていた。
机の上には、第二回交流会の参加者名簿と、当日の警備記録が並べられている。
「まず、昨日の時点で確認できたことを整理しよう」
レオナルドが口を開くと、ユリウスは手元の報告書を取り上げた。
「交流会に参加していた貴族たちの身元は確認した。招待状を持たない者が会場へ入った記録はない。ただし、給仕や警備の者まで含めれば、当日広間へ出入りした人間は相当数になる」
「つまり、参加者だけを調べても不十分ということですね」
ヴィクトリアの言葉に、ユリウスは頷いた。
「そうだ。料理や飲み物に毒が混入された可能性もある。調理場から配膳までの経路についても調査を進めている」
「ほかの参加者に、同じような症状は出ていないのかな?」
「現時点では報告されていない」
レオナルドは少し考え込んだ。
「それなら、リリアーナだけが口にしたものが原因だった可能性もあるね」
「その可能性は高い。ただし、毒の種類がわからん以上、摂取から発症までの時間も断定できない。交流会で口にしたものが原因とは限らん」
ユリウスの指摘はもっともだった。
リリアーナが倒れたのは交流会の最中だったが、それ以前に毒を摂取していた可能性も否定できない。
もし時間差で症状が現れる毒であれば、調査の範囲はさらに広がることになる。
「では、リリアーナが昨日一日で口にしたものを、可能な限り確認する必要がありますね」
ヴィクトリアがそう言うと、ユリウスは別の報告書を差し出した。
「すでに侍女たちから聞き取りを行っている。朝食と昼食については、ほかの者と同じ料理を口にしているものも多い。交流会で何を食べたかについては、現在確認中だ」
「食べ物だけではありません。飲み物や、服用した薬なども確認しておいた方がよいでしょう」
「無論だ」
三人はそれぞれの報告を確認しながら、調査の進め方について意見を交わした。
ユリウスは警備と関係者の行動確認を担当し、ヴィクトリアは集まった証言や記録の整合性を調べる。レオナルドは各貴族家との連絡を受け持ち、必要に応じて協力を求めることになった。
それぞれ得意とする分野が異なるからこそ、役割を分担した方が効率的だった。
「それにしても……」
ヴィクトリアが、参加者名簿へ視線を落とした。
「王宮で開催された交流会で、このようなことが起きるとは思いませんでした」
「そうだね。しかも、父上が主催した会だ。参加者たちも動揺しているだろうね」
レオナルドは静かに答えた。
今回の事件は、単に王女が倒れたというだけでは済まない。
王宮の警備体制に問題があった可能性もあるし、招待された若手貴族たちの中に犯人がいるとなれば、各家との関係にも影響する。
だからといって、事件を曖昧に処理することはできなかった。
「誰が関わっていようと、必ず突き止める」
ユリウスが低い声で言った。
「王宮で王族に毒を盛ったのだ。見過ごすわけにはいかん」
「ええ。ただし、証拠のない段階で誰かを犯人と決めつけることは避けなければなりません」
ヴィクトリアが釘を刺す。
「わかっている。だからこそ、証言と記録を集めている」
「うん。焦る気持ちは僕も同じだけど、今は慎重に進めよう」
レオナルドの言葉に、二人は頷いた。
そのとき、扉が叩かれた。
「失礼いたします。交流会に参加していた貴族の方々から、新たな証言が届きました」
文官が差し出した報告書を、ヴィクトリアが受け取る。
そこには、リリアーナが倒れる前に誰と話していたのか、何を口にしていたのかについて、複数の証言がまとめられていた。
「……エドガー・ラングレー」
ヴィクトリアが、一つの名前を読み上げた。
「どうした?」
「リリアーナが倒れる少し前に、この方と話していたという証言がございます」
レオナルドとユリウスが報告書へ目を向ける。
「二人は軽食の置かれたテーブルの近くで会話をしていたそうです。リリアーナが果実菓子を口にしていたという証言もあります」
「その菓子は、ラングレーが渡したものなのか?」
「そこまでは確認できておりません。少なくとも、会話をしていたことと、リリアーナが菓子を食べていたことは、複数の証言で一致しています」
ユリウスは報告書を受け取り、内容を確認した。
「ラングレー本人からも話を聞く必要があるな」
「ええ。ただし、現時点では単に近くにいただけの可能性もあります」
ヴィクトリアが答える。
「わかっている。まずは当日の行動を確認する。菓子についても、調理場から配膳までの経路を調べさせよう」
レオナルドは静かに頷いた。
「本人には、通常の聞き取りとして協力をお願いしよう。ほかの参加者たちにも同じように話を聞いているのだから、特別扱いする必要はないね」
事件の全容は、まだ何一つ明らかになっていなかった。
それでも、少しずつ情報は集まり始めていた。
◇
昼過ぎ、エレオノーラのもとへ新たな報告が届いた。
各地方からの返答は少しずつ増えていたものの、毒の治療に詳しい医師はなかなか見つからなかった。
中には薬草や一般的な中毒症状に詳しい者もいたが、王宮の医師たちが確認した症状を伝えると、明確な治療方法を示せる者はいなかった。
「……そうですか」
報告を聞いたエレオノーラは、小さく息を吐いた。
期待していた返答が得られないことは、もちろん残念だった。
けれど、そこで落ち込んでいる時間はない。
「引き続き、確認をお願いいたします。それから、トランプ地方の医師の方について、現在の移動状況はわかりますか?」
「出発されたことは確認できております。ただ、途中の停留所からの報告は、まだ届いておりません」
「……そうですか」
トランプ地方から王都までは、通常であれば四日以上かかる。
昨日出発したばかりなのだから、今日中に到着するはずがないことくらい、エレオノーラにも理解できていた。
それでも、少しでも早く来てほしいという気持ちを抑えることができなかった。
「停留所への連絡は、予定通り進んでおりますのね?」
「はい。医師の方が到着され次第、すぐに馬を替えられるよう手配しております」
「ありがとうございます。引き続きお願いいたします」
文官が部屋を出ていくと、エレオノーラは窓の外へ目を向けた。
王都の空は、雲一つないほど晴れ渡っている。
こんなにも穏やかな日なのに、妹は今も苦しんでいる。
そのことが、ひどく理不尽に思えた。
「……リリアーナ」
思わず名前を呟いた。
昨日の交流会で、妹は楽しそうに笑っていた。
最初は参加を嫌がっていたくせに、いざ始まってみれば、多くの人々と会話を楽しんでいたのだ。
あのとき、もっと早く異変に気づいていれば。
妹が倒れる前に、何かできたのではないか。
そんな考えが、何度も頭をよぎる。
けれど、いくら考えても、昨日に戻ることはできなかった。
「……今、できることをしなければ」
エレオノーラは自分に言い聞かせるように呟き、机の上に積まれた報告書へ手を伸ばした。
◇
夕方になり、エレオノーラは再びリリアーナの寝室を訪れた。
医師たちは引き続き治療を続けていたが、妹の容態に大きな変化はなかった。
「先生、リリアーナは……」
「現在のところ、昨日から急激な悪化は見られておりません。ただ、依然として意識は戻らず、予断を許さない状況です」
「……そうですか」
エレオノーラは寝台の傍らに腰を下ろした。
リリアーナの顔色は、昨日よりも少し悪くなっているように見えた。
実際にそうなのか、それとも自分が不安だからそう感じるのかはわからない。
医師に尋ねても、容態が安定しているとは言い切れないという答えしか返ってこなかった。
「……リリアーナ」
妹の手を握り、そっと呼びかける。
「今日も、たくさんの方々があなたのために動いてくださっていますのよ」
返事はない。
「お兄様方も、ヴィクトリアお姉様も、皆様一生懸命ですわ。お父様も、必要なものは何でも用意するようにと仰ってくださいました」
エレオノーラは妹の顔を見つめながら、静かに言葉を続けた。
「ですから、あなたは何も心配なさらなくてよろしいのです。お仕事のことも、領地のことも、今は全部忘れてしまいなさい」
リリアーナは、いつも仕事を減らしたいと言っていた。
面倒事を嫌い、できることなら昼寝をして過ごしたいと願っていた。
それなのに、誰かが困っていると、結局は放っておけなくなる。
自分が楽をするためだと言いながら、周囲の人々が働きやすくなる仕組みを考え、問題を解決してしまう。
そんな妹のことを、エレオノーラは誇らしく思っていた。
だからこそ、今だけは何も考えずに休んでいてほしかった。
「……あなたが目を覚ましたら、私からもお父様にお願いして差し上げますわ」
少しだけ笑おうとした。
「しばらくは、何のお仕事もさせないでくださいませ、と」
返事はなかった。
それでも、エレオノーラは言葉を続けた。
「そうすれば、あなたも喜ぶでしょう?」
静かな部屋に、医師たちが動く音だけが響いていた。
「ですから……」
握った手に、少しだけ力を込める。
「どうか、戻ってきてくださいませ……」
◇
その夜、王宮の医師たちは再び集まり、リリアーナの症状について意見を交わしていた。
これまでに確認された症状や、その変化を整理し、考えられる毒の種類を一つずつ検討していく。
しかし、いくつかの特徴は既知の毒と一致するものの、すべての症状を説明できるものは見つからなかった。
「……やはり、特定は難しいか」
年配の医師が、疲れた表情で呟いた。
「はい。現時点では、症状を抑えながら経過を観察するほかありません」
「トランプ地方の医師が到着するまで、持ちこたえられるだろうか」
その問いに、誰もすぐには答えられなかった。
昨日から大きな悪化が見られないとはいえ、毒が体内でどのように作用しているのか、十分に把握できていない。
いつ容態が急変しても、おかしくはなかった。
「……我々にできることを続けよう」
年配の医師は、静かに言った。
「殿下の命がかかっている。最後まで諦めるわけにはいかん」
ほかの医師たちも頷いた。
その頃、エレオノーラは妹の寝室で、再び長い夜を迎えようとしていた。
遠く離れたトランプ地方からは、毒の治療に詳しい医師が王都を目指している。
しかし、その医師が到着するまで、あと何日かかるのか。
そして、リリアーナがそれまで持ちこたえられるのか。
誰にも、わからなかった。
ただ一つ確かなのは、王宮にいる誰もが、リリアーナの回復を願っているということだけだった。
お読み頂き、ありがとうございます。




