幕間 ジョーカーの役割
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
リリアーナ殿下がジョーカー領を去られてから、数日が経過した。
私は、執務室の窓から街を眺めていた。
以前と比べ、随分と人通りが増えたものだ。
街道には荷馬車が行き交い、商人たちの声が響いている。
かつては領民が必要な物資を手に入れることさえ難しかったこの領地に、今では他領から様々な商品が運ばれてくるようになった。
もちろん、こちらから送り出す商品もある。
折り畳み椅子や机、天幕など、殿下が考案された道具は、今やジョーカー領を代表する商品となっていた。
五つの領地による共同事業も、順調に進んでいる。
輸送はダイヤ領を中心に整備され、商業ではハート領との協力が進み、クラブ領との情報共有によって街道の安全も確保されつつある。
さらに、スペード領が中心となって書類の様式を統一したことで、各領地とのやり取りも以前より円滑になった。
殿下がいらっしゃらなくなった今も、それぞれの担当者が自分たちで考え、仕事を進めている。
……ありがたいことだ。
私は、机の上に置かれた報告書へ目を向けた。
殿下が赴任されたばかりの頃には、これほど多くの報告書が届く日が来るなど、想像もしていなかった。
いや、正確には、報告するほどの仕事がなかったのだ。
領内で生産されたものは領内で消費され、外へ売り出せる商品も限られていた。
商人たちが訪れる機会も少なく、領民の暮らしは決して豊かではなかった。
だが、今は違う。
「……さて」
私は、書類を閉じた。
今日は久しぶりに、街の様子を見て回ることにしている。
報告書だけでは分からないこともある。
何より、領民たちがどのように暮らしているのか、自分の目で確かめたかった。
私は上着を羽織ると、屋敷を後にした。
◇
最初に向かったのは、街の中心にある市場だった。
以前の市場は、決して賑やかとは言えなかった。
店の数も少なく、並んでいる商品も限られていた。
遠方から訪れる商人は珍しく、領民たちは必要な物が手に入らなければ、次の商人が来るまで待つしかなかった。
だが、今は違う。
「いらっしゃい! 今日は新鮮な魚が入ってるよ!」
「そっちの布はハート領から届いたものかい?」
「ああ! 昨日入ったばかりだ!」
「次の荷馬車はいつ来るんだ?」
「三日後だってよ!」
市場には、活気のある声が飛び交っていた。
私は、ゆっくりと店の間を歩いた。
見慣れた野菜や魚の隣には、他領から運ばれてきた布や調味料、日用品などが並んでいる。
かつては王都へ行かなければ手に入らなかった品も、今ではこの市場で購入できるようになった。
その一方で、ジョーカー領で作られた商品を買い付ける商人の姿も増えている。
「おや、伯爵様!」
声をかけてきたのは、以前からこの市場で商売をしている男だった。
「おはようございます。随分と繁盛しているようですね」
「ええ! ありがたいことです!」
男は、嬉しそうに笑った。
「昔は仕入れようにも荷馬車が来ませんでしたからね。今じゃ定期的に商品が届くし、こっちの商品も運んでもらえるんです」
「それは何よりです」
「それに、街道の警備も良くなりましたからね。商人たちも安心して来てくれるようになりました」
男は、店先に並べられた商品へ目を向けた。
「おかげで、うちの倅も商売を手伝うようになりましてね」
「ほう。それは良かった」
「ええ。以前は仕事を探して他領へ出ると言っていたんですが、今じゃここで店を大きくしたいなんて言ってますよ」
私は、思わず微笑んだ。
……そうか。
領地に残りたいと思ってくれる若者が増えたのか。
それは、何より喜ばしいことだった。
これまで、ジョーカー領の若者たちは、仕事を求めて他領へ出ていくことが少なくなかった。
それ自体が悪いわけではない。
だが、生まれ育った土地で暮らしたいと願っても、それが叶わない者がいることを、私はずっと心苦しく思っていた。
今は、その選択肢が増えつつある。
「これからも、商売に励んでください」
「もちろんです! 伯爵様も、どうかお元気で!」
私は軽く頭を下げ、その場を後にした。
市場を歩きながら、ふと思い出す。
リリアーナ殿下が、初めて市場をご覧になったときのことを。
あの方は、商品が少ないことを嘆くよりも、どうすれば必要な物が手に入るのかを考えておられた。
……いや。
正確には、ご自身が欲しい物を手に入れるためだったのかもしれない。
殿下は、そういうお方だった。
だが、その発想が、結果として多くの領民の暮らしを変えた。
◇
次に向かったのは、街の外れにある工房だった。
中へ入ると、木を削る音や、職人たちの声が響いてきた。
「そこはもう少し薄く削れ!」
「こっちの金具を先に取り付けてくれ!」
「次の注文は天幕が二十張りだ!」
以前、この工房で働いていた職人は、ほんの数人だった。
それが今では、十数人が忙しそうに手を動かしている。
私は、作業の邪魔にならないよう、工房の隅から様子を眺めた。
「おお、伯爵様!」
工房の親方が、こちらに気づいて駆け寄ってきた。
「これはこれは、わざわざお越しいただきまして!」
「構いません。仕事は順調ですか?」
「ええ! おかげさまで!」
親方は、誇らしげに工房を見渡した。
「折り畳み椅子も机も、注文が途切れません。最近じゃ、天幕の注文まで増えてきましてね」
「それは忙しそうですね」
「忙しいなんてもんじゃありませんよ!」
そう言いながらも、親方の顔には笑みが浮かんでいた。
「ですが、ありがたい話です。仕事が増えたおかげで、若い連中も雇えるようになりましたから」
工房の奥では、若い職人が年配の職人から指導を受けていた。
慣れない手つきで木材を削り、失敗してはやり直している。
それを見守る年配の職人も、どこか楽しそうだった。
「そういえば、トランプの製作も始めたそうですね」
「ええ。あれも面白いものでして」
親方は、近くの作業台を指差した。
そこでは、紙を切る者、木版を使って絵柄を刷る者、仕上がった札を揃える者が、それぞれの作業を進めていた。
「最初は一人で全部やっていたんですが、殿下が作業を分けたらどうかとおっしゃいましてね」
「そうでしたね」
「試してみたら、これが驚くほど効率が良くなりまして!」
親方は、楽しそうに笑った。
「もっとも、作りすぎるなとも言われましたがね」
「注文に合わせて生産するように、ということですね」
「ええ。おかげで、材料を無駄にせずに済んでいます」
私は、頷いた。
殿下は、いつも難しいことをおっしゃるわけではなかった。
むしろ、何気ない一言が多かったように思う。
だが、その一言が、職人たちの仕事を変えていった。
「伯爵様」
「なんでしょう?」
「殿下は、またこちらへお越しになるんでしょうか?」
「……どうでしょうな」
私は、少し考えた。
「お約束はできませんが、きっとまた遊びに来てくださると思いますよ」
「そうですか!」
親方は、嬉しそうに笑った。
「そのときまでに、もっと良い物を作れるようになっておきますよ!」
私は、微笑みながら頷いた。
……ああ。
殿下が戻ってこられたとき、この工房を見たら、どのような顔をなさるだろうか。
きっと、驚かれるに違いない。
そして、新しい道具を思いついて、また職人たちを困らせるのだろう。
……いや。
今では、それを楽しみにしている者も多いのかもしれない。
◇
工房を後にした私は、街道へ向かった。
以前、この道は決して良い状態ではなかった。
雨が降ればぬかるみ、馬車の車輪が取られることも珍しくなかった。
荷物を運ぶにも時間がかかり、商人たちがジョーカー領を敬遠する理由の一つとなっていた。
だが、今は違う。
整備された道を、荷馬車が次々と通り過ぎていく。
その先には、新たに架けられた橋が見えた。
以前は川を渡るだけでも苦労していたというのに、今では馬車が安全に行き来できるようになっている。
「……立派になったものだ」
思わず、そんな言葉が漏れた。
橋の近くでは、警備隊の者たちが巡回していた。
彼らは私に気づくと、姿勢を正して敬礼した。
「伯爵様!」
「ご苦労様です。異常はありませんか?」
「はい! 今のところ、大きな問題は起きておりません!」
「それは何よりです」
「最近は、他領の警備隊とも情報を共有できるようになりましたので、怪しい者が現れた際の対応も早くなりました」
「そうですか。引き続き、よろしくお願いします」
「はっ!」
私は、橋の向こうへ目を向けた。
街道の先には、ほかの領地へ続く道が伸びている。
かつて、この領地は周囲から取り残されているような場所だった。
山があり、川があり、海がある。
自然には恵まれていたが、それを活かすだけの力がなかった。
いや、活かす方法を知らなかったのだ。
……殿下は、違った。
あの方は、この領地をご覧になったとき、何を考えられたのだったか。
山で遊びたい。
川で釣りをしたい。
海でのんびり過ごしたい。
……確か、そのようなことをおっしゃっていた。
私は、思わず苦笑した。
普通なら、領地を任された王族が口にする言葉ではないだろう。
だが、殿下は本当に楽しそうだった。
そして、ご自身が楽しむために、様々なことを考えられた。
道具を作り、道を整え、人が行き来しやすい環境を整えた。
その結果、領地全体が変わっていった。
さらに、殿下は五つの領地を結びつけることまで提案された。
ジョーカー領だけでは解決できなかった問題も、ほかの領地と協力することで改善されていった。
……不思議なお方だ。
私は、心の中で呟いた。
殿下ご自身は、いつも仕事を減らしたがっておられた。
何かを提案されても、実際の仕事は私たちに任せようとなさる。
だが、そのおかげで、私たちは自分たちの頭で考えるようになった。
殿下に判断を仰ぐ前に、まず自分たちで解決策を探す。
必要な情報を集め、意見を交わし、実行できる形にまとめる。
そして、殿下に報告する。
それを繰り返すうちに、領内の者たちも随分と成長したように思う。
……殿下は、どこまでお考えだったのだろうか。
私は、首を横に振った。
それは、私には分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
今のジョーカー領は、殿下が赴任される前とは、まったく違う場所になっている。
◇
最後に向かったのは、川沿いの広場だった。
ここは、以前から領民たちが集まる場所ではあったが、特に何かがあるわけではなかった。
それが今では、子供たちの笑い声が響いている。
「そっちに投げて!」
「待って、待って!」
「今度は僕の番だ!」
子供たちが、楽しそうに遊んでいた。
少し離れた場所では、大人たちが折り畳み椅子に腰掛け、談笑している。
その傍らには、小さな机が置かれていた。
どうやら、トランプで遊んでいるらしい。
「……おや」
私は、思わず足を止めた。
以前、このような光景を見たことがあっただろうか。
領民たちは、日々の暮らしに追われていた。
畑を耕し、魚を捕り、木を切り、物を作る。
働かなければ、生活していけない。
それは、今も変わらない。
けれど。
今、目の前にいる人々は、楽しそうに笑っていた。
「伯爵様!」
子供の一人が、私に気づいて駆け寄ってきた。
「こんにちは!」
「こんにちは。楽しそうですね」
「うん! これ、すごく面白いんだよ!」
子供は、手に持っていた札を見せてくれた。
トランプだった。
「そうですか」
「お姫様が考えたんでしょう?」
「ええ、そうですよ」
「すごいね!」
子供は、満面の笑顔で言った。
「また来てくれるかな?」
「……そうですね」
私は、少しだけ空を見上げた。
「きっと、また来てくださいますよ」
「ほんと!?」
「ええ」
子供は嬉しそうに笑うと、友達のところへ駆け戻っていった。
私は、その後ろ姿を見送った。
……殿下。
貴女は、この光景をご存じでしょうか。
貴女が考えた道具で、人々が遊んでいることを。
貴女が整えた道を、商人たちが行き交っていることを。
貴女が提案した仕組みによって、職人たちの仕事が増え、若者たちがこの領地に残るようになったことを。
そして。
この領地の人々が、以前よりもずっと明るい顔で暮らしていることを。
私は、ゆっくりと目を閉じた。
思い出すのは、初めて殿下をお迎えした日のこと。
王命によって、統括代官として赴任された第八王女。
あの方に、私は何を期待していただろうか。
正直に言えば、それほど大きな期待はしていなかった。
王族とはいえ、若い姫君である。
領地の現状をご理解いただくだけでも、時間がかかると思っていた。
だが、殿下は違った。
私たちが当たり前だと思っていたことを、不思議そうに眺められた。
なぜ、こうしないのか。
どうして、ああしないのか。
その問いに答えようとするうちに、私たち自身も、これまでのやり方を見直すようになっていた。
そして、気づけば。
領地は、ここまで変わっていた。
……殿下。
私は、心の中で語りかけた。
貴女は、いつもご自身のことを、何もしていないとおっしゃっていましたな。
仕事をしたのは私たちであり、ご自身は提案しただけだと。
確かに、実際に道を整えたのは職人たちです。
橋を架けたのも、商品を作ったのも、商いを広げたのも、領民たちです。
ですが。
私たちは、殿下がいらっしゃるまで、そのような未来を思い描くことすらできなかった。
貴女は、私たちに新しい道を示してくださいました。
そして、その道を歩むことを、私たち自身に任せてくださった。
……それが、どれほどありがたかったことか。
私は、ゆっくりと目を開いた。
目の前では、子供たちが笑い、大人たちが楽しそうに語り合っている。
遠くには、整備された街道を行き交う馬車が見えた。
その先には、活気を取り戻した街がある。
……ああ。
これが、今のジョーカー領なのだ。
「やった! 上がり!」
突然、子供の元気な声が響いた。
私は、そちらへ目を向けた。
数人の子供たちが、地面に敷いた布の上でトランプを楽しんでいる。
そのうちの一人が、最後の一枚を勢いよく出したところだった。
「ええっ! また負けた!」
「だって、ジョーカー持ってたもん!」
勝った子供は、得意げに札を掲げた。
そこに描かれていたのは、道化師の姿。
……ジョーカー。
私は、思わず足を止めた。
「ずるいよ! ジョーカーは何にでもなれるんだもん!」
「へへっ! だから強いんだよ!」
子供たちの笑い声が、広場に響いた。
……何にでも、なれる。
私は、その言葉を心の中で繰り返した。
そうか。
……そうだったのか。
ジョーカー領。
山があり、川があり、海がある。
けれど、これといった産業もなく、他領との交流も乏しかった。
私は、長い間、この領地には何もないと思っていた。
豊かな領地になるためには、特別な資源や、大きな産業が必要なのだと。
だが、殿下は違った。
山を見れば遊びたいとおっしゃり、川を見れば釣りをしたいとおっしゃり、海を見ればのんびり過ごしたいとおっしゃった。
そのために道具を考え、職人たちが作り、それが商品となった。
やがて商人が集まり、道が整い、五つの領地が結びついた。
何もないと思っていた場所に、これほど多くの可能性が眠っていたのだ。
私は、もう一度、子供の手にある札を見た。
……そうだ。
この領地は、何にでもなれる。
農業の盛んな領地にも。
商業で栄える領地にも。
職人たちが腕を競い、新しい道具を生み出す領地にも。
そして、人々が訪れ、笑い合い、楽しい時間を過ごせる領地にも。
私たちは、最初から何か一つになる必要などなかったのだ。
どのような未来を選ぶのか。
それは、これからの私たち次第なのだから。
……殿下。
貴女が、それを示してくださった。
私は、静かに微笑んだ。
殿下が、いつの日か再びこの地を訪れたとき。
そのときには、もっと豊かで、もっと楽しい領地になっているように。
私たちは、これからも歩み続けよう。
殿下が示してくださった可能性を、今度は私たち自身の手で形にするために。
……リリアーナ殿下。
本当に、ありがとうございました。
私は、王都のある方角へ向かって、深く頭を下げた。
顔を上げると、子供たちはもう次の勝負を始めていた。
その輪の中で、ジョーカーの札が、再び誰かの手へと渡っていく。
私は、その光景をしばらく眺めていた。
この領地が、これからどのような姿になっていくのか。
今は、まだ誰にも分からない。
けれど、その未来を思うと、不思議と胸が躍った。
お読み頂き、ありがとうございます。




