第十六話 兄妹
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
「なんだい?」
レオナルドお兄様は、いつもの穏やかな笑みを浮かべながら私を見た。
私は、膝の上で両手を握りしめた。
……聞いても、いいのだろうか。
今まで、お兄様は何も聞いてこなかった。
私がどれだけ奇妙なものを作っても、どれだけこの世界にはない考え方を口にしても、ただ話を聞き、必要なら協力してくれた。
けれど、それは本当に不思議に思っていないからなのだろうか。
……違う。
お兄様は、そんなに鈍い人ではない。
「……なぜ、聞き出そうとしないのですか?」
「何をだい?」
「お兄様は、お気づきになっていましたよね?」
お兄様は、何も答えなかった。
「私が、なぜ色々なことを知っているのか。その理由を答えようとしないことに」
「…………」
「でも、それは……私には答えがあると、分かっているということですよね?」
私は、お兄様を見つめた。
「……なぜですか?」
沈黙が落ちた。
お兄様は、いつもの笑みを浮かべなかった。
ただ、静かに目を閉じた。
少しの間を置いて、ゆっくりと口を開く。
「……そうだね。君が話したくないように見えたからかな」
「…………」
「誰にだって、話したくないことはあるだろう?」
お兄様は、目を開いた。
「僕だって、君に話していないことはたくさんあるよ。それを全部聞き出そうとされたら、困ってしまうかな」
「……でも」
「それに……」
お兄様は、机の上に置かれたトランプへ視線を向けた。
「君の知識は、有用なものだけではなく、王国にとって害になるものもあるよね」
「…………っ」
それは、問いかけではなかった。
確信だった。
冷や水を浴びせられたようだった。
……そうだ。
確かに、元の世界での知識は毒になり得る。
それも、世界を滅ぼしかねない猛毒だ。
核兵器などは、まさにそれだろう。
私自身に、核兵器を作れるほどの知識はない。
けれど、その概念くらいは知っている。
電気すら普及していないこの世界で、すぐに作れるような代物ではない。
だが、それを誰かに話してしまえば。
その考え方を知った誰かが研究を重ね、いつか実現してしまうかもしれない。
それが十年後なのか、百年後なのかは分からない。
けれど、私が何も話さなければ、生まれなかったかもしれないものだ。
私は、この世界にとって異物だ。
前の世界の知識を持ち込み、この世界には存在しなかったものを生み出している。
それが、人々の暮らしを豊かにするものならいい。
けれど。
私が持ち込んだ知識が、この世界を滅ぼすことになったら?
……冗談じゃない。
「……僕は王位継承権第一位を持つ」
お兄様の声に、私は顔を上げた。
「父上に何かあれば、僕が王になる可能性は高い。だから、僕には王国を守る責任がある」
「…………」
「君の知識に、王国を守るために使えるものがあると知ってしまったら……僕は、それを使わざるを得ないかもしれない」
お兄様は、静かに続けた。
「たとえ、君が望まなかったとしてもね」
「……お兄様」
「僕は、妹を道具のように使いたいとは思わないよ」
その言葉は、とても穏やかだった。
けれど、そこには確かな意志があった。
「だから、僕から無理矢理聞き出すことはないよ」
「…………」
「でも……」
お兄様の表情が変わった。
それまでの穏やかさが消え、真剣な眼差しが私へ向けられる。
「他の人は違うかもしれない」
「……え?」
「君の知識を欲しがる者が、君を攫って利用しようとするかもしれない。逆に、君の存在を邪魔に思った者が、殺そうとするかもしれない」
私は、息を呑んだ。
「君は、自分が思っている以上に特異な存在なんだ。だから、十分に気をつけて」
「…………」
何も答えられなかった。
お兄様は、私の秘密を知らない。
それでも、その秘密が持つ危険性を理解している。
そして。
知ることができる立場にありながら、知ろうとしなかった。
……私を、守るために。
◇
「……リリアーナ?」
お兄様が、少し心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫かい?」
「…………」
私は、答えようとした。
けれど、声が出なかった。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
……どうして。
どうして、お兄様は。
こんなにも、私のことを考えてくれていたのだろう。
私は、ずっと自分のことばかり考えていた。
働きたくない。
のんびり暮らしたい。
面倒なことには関わりたくない。
お父様から仕事を押しつけられたくない。
だから、できるだけ目立たないようにしてきた。
自分の知識についても、何も話さなかった。
もちろん、前世のことを話したところで、信じてもらえるかは分からない。
それに、話してしまえば面倒なことになるかもしれない。
……だから、黙っていた。
それだけだった。
お兄様が何を考えているのか。
私のことをどう思っているのか。
そんなこと、考えようともしなかった。
……なのに。
お兄様は、私の知らないところで、私のことを考えてくれていた。
私が話したくないのなら、聞かない。
知ってしまえば、自分の立場が私を傷つけるかもしれない。
だから、知らないままでいる。
……そんなこと。
私は、一度だって考えたことがなかった。
「……っ」
視界が滲んだ。
……あれ?
おかしいな。
どうして、涙が出てくるんだろう。
私は慌てて目元を拭った。
けれど、涙は止まらなかった。
「……リリアーナ?」
お兄様が、椅子から立ち上がった。
「どうしたんだい?」
「……ごめん……なさい」
声が震えた。
「……どうして謝るんだい?」
「……私は」
言葉が続かなかった。
自分自身が、恥ずかしくなった。
お兄様は、こんなにも私のことを考えてくれていた。
なのに、私は。
ただ、のんびり暮らしたいという利己的な理由だけで、動かないように、話さないようにしていた。
自分に都合の悪いことから、逃げようとしていた。
もちろん、危険な知識をむやみに広めてはいけない。
それは、今でもそう思う。
けれど、私が黙っていた理由は、それだけではなかった。
面倒だから。
働きたくないから。
誰かに何かを求められるのが嫌だから。
……そればかりだった。
それは――
「自分が……ずるい、と思ってしまって」
ぽろぽろと、涙が落ちた。
「……お兄様は、私のことを考えてくださっていたのに……」
「…………」
「私は……自分のことばかりで……」
私は、俯いた。
「……ごめんなさい」
お兄様は、しばらく何も言わなかった。
ただ、私の言葉を待ってくれていた。
やがて、静かに口を開く。
「……リリアーナ」
「……はい」
「君は、何か悪いことをしたのかい?」
「……え?」
私は、涙で滲んだ目を上げた。
「誰かを傷つけたのかな?」
「……それは」
「誰かから何かを奪った?」
「……いいえ」
「では、どうして謝るんだい?」
「……だって」
私は、唇を噛んだ。
「私は……自分のことしか考えていなかったから……」
「……そうかな?」
お兄様は、少し首を傾げた。
「君は、ボーリング地方で多くの人を助けたと聞いているよ」
「……それは、お父様に命じられたからで……」
「ピンポン地方でも、新しい産業が生まれたね」
「……あれは、遊びを教えただけです」
「サーフィン地方では、嵐に遭った人々を守った」
「……あれは、仕方なかったから……」
「そして、今は?」
「…………」
「ジョーカー領だけでなく、五つの領地が協力する仕組みを作った」
「……それは」
私は、言葉に詰まった。
……だって。
あれは、私だけが目立たないようにするためで。
皆で成果を分け合えば、お父様も私一人に仕事を押しつけたりしないと思ったからで。
「……理由なんて、どうでもいいんだよ」
「……え?」
お兄様は、穏やかに微笑んだ。
「君が何を考えていたとしても、助かった人たちがいる。それは、変わらない事実だろう?」
「…………」
「それに、君は自分が楽をするためなら、誰かが苦しんでも構わないと思うのかい?」
「……そんなこと!」
私は、思わず顔を上げた。
「そんなこと、思いません!」
「うん。知っているよ」
お兄様は、優しく頷いた。
「だから、君はずるくなんてない」
「……でも」
「君がのんびり暮らしたいと思うことと、誰かを大切に思うことは、別に矛盾しないんじゃないかな」
「…………」
「僕だって、できることなら面倒な仕事はしたくないよ」
「……お兄様も?」
「もちろん」
お兄様は、少し困ったように笑った。
「僕だって、好きな本を読んだり、散歩をしたり、ゆっくりお茶を飲んだりして過ごしたいさ」
「…………」
「でも、僕には僕の立場がある。だから、必要なことはする。それだけだよ」
お兄様は、私の目を見つめた。
「君も、そうなんじゃないかな?」
「……私も?」
「うん。君は働きたくないと言いながら、必要なときにはちゃんと動いている」
「…………」
「それで、十分だと僕は思うよ」
私は、何も言えなかった。
ただ、涙が止まらなかった。
◇
「……お兄様」
「なんだい?」
「……私、怖かったんです」
「……うん」
「自分の知っていることを話したら、もっと色々なことを求められるんじゃないかって……」
私は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……だから、できるだけ何も話さないようにしていました」
「……そうだったんだね」
「……でも」
私は、顔を上げた。
「お兄様が、そんなふうに考えてくださっていたなんて……知りませんでした」
お兄様は、静かに頷いた。
「……僕も、君が何を考えているのか、全部分かるわけじゃないよ」
「…………」
「だから、話してくれて嬉しい」
その言葉に、また涙が溢れた。
……ああ。
私は、本当に。
何も分かっていなかったんだ。
お兄様は、私を王位継承争いの相手として見ているだけではなかった。
私を、妹として見てくれていた。
それが、こんなにも嬉しいなんて。
「……お兄様」
「うん?」
「……ありがとうございます」
私は、深く頭を下げた。
「……本当に、ありがとうございます」
お兄様は、そっと私の頭に手を置いた。
「……どういたしまして」
その手は、とても温かかった。
私は、しばらく俯いたまま、泣き続けた。
お兄様は、何も急かさなかった。
ただ、私が落ち着くまで、静かに傍にいてくれた。
◇
どれくらい時間が経っただろう。
ようやく涙が落ち着いた頃、私はサリナから差し出された布で目元を拭った。
「……ごめんなさい、サリナ」
「お気になさらず」
サリナは、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
……ああ。
そういえば、サリナもずっと傍にいてくれたのよね。
私が何を考えているのか、誰よりも理解してくれている。
……本当に。
私は、周りの人たちに恵まれているわ。
「……お兄様」
「なんだい?」
「……一つだけ、お願いしてもいいですか?」
「もちろん。僕にできることならね」
私は、少しだけ迷った。
けれど、今度は逃げたくなかった。
「……いつか」
「うん」
「いつか、私のことを……全部、お話しできる日が来たら」
私は、お兄様を見つめた。
「……聞いて、いただけますか?」
お兄様は、少しだけ目を見開いた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……もちろんだよ」
「…………」
「でも、無理はしなくていい」
お兄様は、優しく続けた。
「君が話したいと思ったときに、話してくれればいい。それまでは、今までどおりで構わないよ」
「……はい」
私は、頷いた。
……いつか。
いつか、本当に話せる日が来るのだろうか。
前の世界のこと。
私が、ここではない場所から来たこと。
そして、私が知っているものの中には、この世界に持ち込んではいけないものもあるということ。
……まだ、分からない。
けれど。
少なくとも、今は。
この人になら、いつか話せるかもしれない。
そう思えた。
「……さて」
お兄様は、少しだけ明るい声を出した。
「そろそろ帰らないと、護衛たちに怒られてしまうかな」
「……ふふっ」
私は、思わず笑ってしまった。
「お兄様でも、怒られるんですか?」
「もちろん。彼らにも仕事があるからね」
「……そうですね」
私は、微笑んだ。
……ああ。
やっぱり、お兄様は優しい。
でも、優しいだけではない。
王位継承権第一位としての責任を、誰よりも理解している。
……私とは、違う。
けれど。
だからこそ、私は。
この人の力になれることがあるのなら、少しくらいは協力してもいいのかもしれない。
……少しくらい、だけど。
「……リリアーナ」
「はい?」
「最後に、一つだけいいかな?」
「……何でしょう?」
お兄様は、机の上に置かれたトランプを指さした。
「それ、ひと組もらってもいいかい?」
「……あら!」
私は、思わず笑顔になった。
「もちろんです!」
「ありがとう。スペード領に戻ったら、皆にも教えてみようと思ってね」
「でしたら、遊び方を書いた紙もお渡しします!」
「それは助かるよ」
私は、早速サリナに頼んで、トランプと遊び方をまとめた紙を用意してもらった。
……ふふふ。
お兄様も、気に入ってくださったのね。
私は、少し嬉しくなった。
そして、ふと思った。
……そういえば。
お兄様が、こんなに楽しそうに遊んでいる姿を見るのは、初めてだったかもしれない。
王位継承権第一位。
いつも多くの仕事を抱え、周囲から期待されている人。
そんなお兄様だって、たまには休みたいはずだ。
……うん。
やっぱり、遊びは大切よね。
私は、トランプを受け取ったお兄様に微笑んだ。
「……お兄様」
「なんだい?」
「今度は、仕事抜きで遊びに来てくださいね」
お兄様は、少し驚いたように目を見開いた。
そして。
「……ああ。約束するよ」
今までで一番、優しい笑顔を浮かべた。
お読み頂き、ありがとうございます。




