第六話 蝶の羽ばたきが竜巻となる
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
リリアーナ殿下がジョーカー領へ赴任してから、半年が過ぎた。
その間も、王女の行動は変わらなかった。
山へ行き、川へ行き、海へ行く。
気に入った場所があれば、何日も滞在することさえあった。
そして、そのたびに職人たちを呼び、何かしら新しい道具を作らせていた。
釣り竿に、糸を巻き取るための金具。
炭を入れて魚や肉を焼くための鉄製の台。
持ち運びやすい机や椅子。
屋外で眠るための寝具。
最初は何を作らされているのか分からなかった職人たちも、最近では王女から呼び出されることを楽しみにしているらしい。
何しろ、王女は失敗した試作品にまで代金を支払う。
そのうえ、職人の提案にも熱心に耳を傾け、良いものができれば子供のように喜んでくれる。
職人たちにとって、これほど仕事のしがいがある依頼主も珍しいのだろう。
そして、王女が作らせた道具の一部は、商人や旅人たちの間で評判になり、少しずつ注文が増えていった。
その結果、街の工房では新しく人を雇う者が現れ、材料を運ぶ商人の往来も増え始めている。
もっとも、当の王女は相変わらずだった。
「サリナ! 今度は川で魚を焼いて食べましょう!」
「かしこまりました、殿下」
「それから、山で星を眺めながら眠るのもいいわね!」
「では、天候を確認しておきます」
「お願いね!」
そんな会話が、今日も屋敷のどこかから聞こえてくる。
アルベルトは、もはや驚かなくなっていた。
◇
「……村に活気がある気がするな」
ある日のこと。
アルベルトは領内の村を視察しながら、思わずそう呟いた。
以前と比べ、道を行き交う人が増えている。
荷車を引く商人。
仕事へ向かう職人。
店先で談笑する村人たち。
それだけではない。
以前は閉まっていることの多かった食堂にも客が入り、宿屋の前には他領の馬車が停まっていた。
「……何か催しでもあったのか?」
同行していた役人に尋ねると、相手は首を横に振った。
「いえ、特には」
「そうか……」
「ただ、最近は商人の往来が増えておりますので、その影響かと」
アルベルトは頷いた。
確かに、職人たちの仕事が増えれば、材料を運ぶ者も、完成した品を買い付ける者も増える。
そうした人々が食事を取り、宿に泊まり、必要なものを買っていく。
その金が、今度は食堂や宿屋、商店の収入になる。
考えてみれば、当然のことだった。
しかし、これほど目に見えて変化が現れるとは思っていなかった。
「領主様!」
声をかけてきたのは、村の食堂を営む男だった。
「おお、久しいな。商売はどうだ?」
「おかげさまで、最近は忙しくさせてもらってます!」
「……そうか。それはよかった」
「いやあ、ありがたいことです。前は昼になっても客が来ない日がありましたからね」
男は嬉しそうに笑った。
「最近は他領から来た商人さんが寄ってくれるんですよ。昼飯を食べて、夜も泊まるなら夕飯を食べてくれる。おかげで、かみさんも大忙しです!」
「……それは何よりだ」
「領主様も、今度ぜひ食べに来てください!」
「ああ。楽しみにしておこう」
アルベルトは微笑み、男と別れた。
少し歩くと、今度は荷車を押す若者たちとすれ違った。
その中の一人に見覚えがある。
以前、仕事を探していると相談を受けた村の青年だった。
「……仕事が見つかったのか?」
アルベルトが尋ねると、青年は嬉しそうに頷いた。
「はい! 街の工房で働かせてもらってます!」
「そうか。よかったな」
「ありがとうございます!」
青年は深く頭を下げた。
「最近は注文が多くて、毎日忙しいんです。でも、ちゃんと給金もいただけるので!」
その顔には、以前のような不安げな表情はなかった。
アルベルトは、静かに頷いた。
「……励んでくれ」
「はい!」
青年たちが去っていく。
アルベルトは、その背中をしばらく見送っていた。
仕事が増えた。
それだけのことかもしれない。
だが、その仕事によって暮らしが変わった者がいる。
家族を養えるようになった者がいる。
商売を続けられるようになった者がいる。
領主として、それがどれほど嬉しいことか。
「……随分と、変わったものだ」
アルベルトは小さく呟いた。
◇
屋敷へ戻ったアルベルトは、半年分の報告書を並べていた。
職人たちの受注件数。
商人の往来。
宿屋の利用状況。
そして、領内の税収。
どれも、少しずつではあるが増加している。
もちろん、まだ豊かな領地と呼べるほどではない。
街道の整備も十分ではなく、仕事の少ない村も残っている。
それでも、以前はほとんど変化のなかった数字が、確かに動き始めていた。
「……半年、か」
アルベルトは椅子に深く腰掛けた。
王女が赴任してから、まだ半年しか経っていない。
その間、王女が領政について何か大きな指示を出したことはなかった。
税を変えたわけでもない。
新しい制度を設けたわけでもない。
ただ、自分の楽しみのために職人たちへ道具を注文し、出来上がったものを持って遊びに出かけている。
それなのに、領地には少しずつ活気が生まれ始めていた。
「……不思議なものだな」
アルベルトは苦笑した。
最初は、何もしない王女だと思っていた。
今でも、本人に領地を発展させようという意図があるのかは分からない。
だが、少なくとも一つだけは確かだった。
王女がジョーカー領へ来てから、領民たちの笑顔が増えている。
それは、どんな立派な報告書よりも嬉しい成果だった。
そのとき、廊下から聞き慣れた声が響いた。
「サリナ! 次はどこへ行こうかしら!」
「殿下、まずは明日のお天気を確認いたしましょう」
「そうね! 晴れるといいわ!」
アルベルトは、思わず笑みを浮かべた。
「……相変わらずですな、殿下」
どうやら王女は、明日も遊びに出かけるらしい。
それでも、今のアルベルトには、以前のような戸惑いはなかった。
王女が楽しそうにしている。
職人たちが仕事に励んでいる。
商人たちが行き交い、村に活気が生まれている。
それならば、今はそれでよいのだろう。
アルベルトは報告書を閉じ、翌日の仕事に取りかかった。
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