第五話 便利な物は勝手に売れる
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
リリアーナ殿下がジョーカー領へ赴任してから、一月が経過した。
その間、領主アルベルト・ジョーカー伯爵が王女から受けた領政に関する指示は、ほとんどなかった。
日々の報告には目を通している。
問題が発生すれば相談にも応じてくれる。
しかし、新たな政策を打ち出すこともなければ、大規模な事業を始める様子もない。
王女は相変わらず、山へ行き、川へ行き、ときには海辺まで足を延ばしていた。
そして、帰ってくるたびに職人たちを呼び、何やら奇妙な道具を作らせている。
「……今日は、何をなさっている?」
アルベルトが使用人に尋ねると、少し困ったような答えが返ってきた。
「本日は、先日依頼された天幕の試作品をご確認になるそうです」
「……天幕か」
アルベルトは思い出した。
持ち運びができる小さな天幕。
雨を防ぐための布。
折り畳める椅子。
袋状の寝具。
どれも、王女が山中で過ごすために依頼した品物だった。
「職人たちは、もう来ているのか?」
「はい。裏庭にて準備を進めております」
「……そうか」
アルベルトは少し考え、席を立った。
王女の行動に口を挟むつもりはない。
だが、どのようなものが完成したのか、一度くらい見ておいてもよいだろう。
◇
屋敷の裏庭では、数名の職人が大きな布を広げていた。
その周囲には木製の棒や金具が並べられ、リリアーナ殿下が楽しそうに指示を出している。
「そうそう! まずは四隅を固定して、それから骨組みを立てるの!」
「殿下、こちらの棒はどこに差し込めばよろしいので?」
「そこの布の端に、輪っかがあるでしょう? そこに通してみて」
「……なるほど」
職人たちが手を動かす。
やがて、庭の一角に小さな布製の建物が姿を現した。
大人が数人入れる程度の広さ。
屋根は傾斜しており、雨水が流れ落ちるようになっている。
入口には布の扉が設けられ、開閉も可能だった。
「できた!」
王女が嬉しそうに手を叩いた。
「……これは」
アルベルトは思わず足を止めた。
軍が使う大型の天幕とは違う。
小さく、簡素で、必要最低限の構造。
しかし、見たところ十分に実用的だった。
「おや、領主さん!」
こちらに気づいた王女が、笑顔で手を振ってきた。
「ちょうどいいところに来たわ! 見てちょうだい!」
「……拝見いたします」
アルベルトが近づくと、王女は嬉しそうに天幕の入口を開いた。
「中も結構広いのよ!」
覗き込んでみると、床には厚手の布が敷かれていた。
その上には、以前見せられた袋状の寝具が置かれている。
「こちらは……」
「寝袋よ!」
「ねぶくろ?」
「そう! 中に入って眠るの。布団みたいにずれないし、持ち運びもできるでしょう?」
「……なるほど」
アルベルトは頷いた。
確かに、屋外で眠るには便利そうだった。
しかし、疑問は残る。
「殿下。これほどのものを、なぜわざわざ……」
「だって、山で泊まってみたいんだもの!」
「…………」
即答だった。
何の迷いもない。
王女は、本当に山で眠りたいだけなのだろうか。
アルベルトには、それ以上尋ねる言葉が見つからなかった。
「でも、まだ完成じゃないわね」
王女は天幕の周囲を歩きながら、職人たちに声をかけた。
「組み立てるのに、ちょっと時間がかかりすぎるわ。もう少し簡単にできないかしら?」
「そうですね……骨組みをあらかじめ繋いでおけば、手間は減るかもしれません」
「それ、いいわね!」
「ただ、そうすると持ち運ぶときにかさばります」
「うーん……じゃあ、繋ぐ部分を工夫できない?」
職人たちが相談を始める。
アルベルトは、その様子を黙って見ていた。
王女は、決して職人たちに無理難題を押しつけているわけではない。
自分の希望を伝え、相手の意見を聞き、実際に試しながら改良している。
しかも、費用はすべて王女個人の負担だ。
領地の財政には、一切影響していない。
ならば、止める理由はない。
そう考えながらも、アルベルトは首を傾げずにはいられなかった。
王位継承権第五位の王女が、これほど熱心に取り組んでいることが、山中で眠るための道具作りなのである。
◇
それから数日後。
アルベルトは、街の鍛冶職人から思いがけない報告を受けた。
「……注文が増えた?」
「はい、領主様」
鍛冶職人は嬉しそうに頷いた。
「殿下からご依頼いただいた金具の仕事なんですがね。あれを見た商人が、同じものを作れないかって言ってきまして」
「……同じもの?」
「ええ。天幕を組み立てるための金具です」
アルベルトは眉をひそめた。
「商人が、なぜそのようなものを?」
「それが、旅の途中で使いたいんだそうです」
「……旅で?」
「はい。商人ってのは、いつでも宿に泊まれるわけじゃありませんからね。街と街の間で野営することも多いでしょう?」
アルベルトは頷いた。
ジョーカー領は交通の便が悪い。
街道沿いに宿場が十分整っているわけでもなく、商人たちはしばしば野営を余儀なくされる。
それ自体は、珍しいことではなかった。
「殿下の天幕は、少人数で簡単に組み立てられるように作ってるでしょう? あれなら、旅の荷物として持っていけるんじゃないかって」
「……なるほど」
アルベルトは腕を組んだ。
確かに、軍用の大型天幕は持ち運びに不便だ。
少人数の商人が使うには大きすぎる。
しかし、王女が作らせたものなら、荷物を運ぶ馬車に積んでも邪魔になりにくい。
「それで、注文を受けたのか?」
「いえ、まだです。殿下のご依頼で作ったものですから、勝手に同じものを売っていいのか分からなくて」
「……そうか」
アルベルトは少し考えた。
王女が個人的に依頼した道具である。
職人が勝手に複製して販売することについては、確かに確認が必要だろう。
「私から殿下に尋ねておこう」
「ありがとうございます!」
鍛冶職人は深く頭を下げた。
その顔には、隠しきれない期待が浮かんでいた。
仕事が少ないこの領地で、新たな注文が入る。
それがどれほど嬉しいことなのか、アルベルトにもよく分かった。
◇
「え? 売りたいの?」
アルベルトから話を聞いたリリアーナ殿下は、きょとんとした顔をした。
「はい。商人から、同じ道具を購入したいという申し出があったそうでございます」
「いいじゃない!」
「……よろしいのですか?」
「もちろんよ!」
王女は嬉しそうに頷いた。
「だって、職人さんが作ったものなんでしょう? 欲しい人がいるなら、売ればいいじゃない」
「しかし、元は殿下の発案で……」
「そんなこと、気にしなくていいわよ」
王女はあっさりと言った。
「私が欲しくて作ってもらっただけだもの。別に独り占めしたいわけじゃないわ」
「……左様でございますか」
「それに、同じものを欲しい人がいるなら、職人さんたちも仕事が増えて嬉しいでしょう?」
「……確かに」
アルベルトは頷いた。
それは間違いない。
仕事が増えれば、職人たちの収入も増える。
領地にとって、悪いことではなかった。
「ただし、一つだけお願いがあるの」
「……何でございましょう?」
アルベルトは姿勢を正した。
ここで何か条件を出すのだろうか。
販売価格の取り決めか。
利益の一部を納めるよう求めるのか。
あるいは、王家の名を使用することについての制限か。
しかし、王女の口から出た言葉は、予想とは違っていた。
「私の分を、先に完成させてほしいの!」
「…………」
「だって、早く山で使ってみたいんだもの!」
王女は本当に楽しそうだった。
アルベルトはしばらく黙っていたが、やがて深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
もはや、何も言うまい。
この王女は、少なくとも今のところ、本気で遊ぶことしか考えていない。
アルベルトは、そう結論づけることにした。
◇
その後、職人たちの工房には少しずつ変化が現れ始めた。
最初に注文が入ったのは、小型の天幕だった。
商人が一つ購入し、旅の途中で使用したところ、思いのほか便利だったという。
組み立てるのに大勢の人手を必要とせず、雨風をしのぐことができる。
使用後は分解して荷物にまとめられるため、移動の邪魔にもなりにくい。
その話を聞いた別の商人が、同じものを注文した。
さらに、その商人から話を聞いた者が、また注文する。
まだ大きな商売と呼べるほどではない。
しかし、これまでほとんど注文のなかった職人たちにとっては、十分に嬉しい変化だった。
「領主様!」
ある日、木工職人が屋敷を訪ねてきた。
「今度は、椅子の注文が入りまして!」
「……椅子?」
「はい! 殿下が作らせた、折り畳める椅子です!」
アルベルトは思い出した。
持ち運ぶときは小さく畳み、使うときだけ広げる椅子。
王女が山や川で休むために作らせたものだった。
「商人が使うのか?」
「それもありますが、今回は行商人からの注文です」
「……行商人?」
「ええ。野営のときに、地面に座らなくて済むのがいいんだそうです」
「……なるほど」
アルベルトは頷いた。
行商人もまた、野外で長い時間を過ごす者たちだ。
街や村を移動することも多く、宿に泊まれない夜もある。
そんな彼らにとって、持ち運べる椅子は便利なのだろう。
「それで、何脚ほど?」
「最初は二脚だけだったんですがね」
職人は嬉しそうに笑った。
「それを見た仲間が、俺にも作ってくれって言い出しまして。今は十脚ほど注文を受けております!」
「……十脚?」
「はい!」
アルベルトは少し驚いた。
決して大きな数ではない。
しかし、ジョーカー領の小さな工房にとっては、十分な仕事量だった。
「……そうか。それはよかったな」
「ありがとうございます!」
職人は満面の笑顔で頭を下げた。
その姿を見送りながら、アルベルトはふと考えた。
王女が作らせた道具が、少しずつ売れ始めている。
天幕。
椅子。
寝具。
いずれも、もともとは王女が遊ぶために考えたものだった。
しかし、それらを必要としているのは、遊びに出かける者だけではない。
商人。
行商人。
そして、おそらくは旅人や兵士たちも。
この国では、遠くへ移動するために馬車や徒歩を利用する。
街道が整備されていない場所も多く、目的地まで何日もかかることは珍しくない。
当然、道中で野営する機会も多い。
そう考えれば、王女が作らせた道具には、確かな需要があるのかもしれなかった。
「……偶然、なのだろうか」
アルベルトは小さく呟いた。
王女が、そこまで考えていたようには見えない。
実際、本人は山で遊ぶために作ったと言っていた。
だが、その道具を求める者が現れ、職人たちの仕事が増え始めている。
これは、確かな事実だった。
◇
それからさらに一月が過ぎた。
アルベルトは、いつものように執務室で書類を確認していた。
すると、商業を担当する役人が、少し興奮した様子で入ってきた。
「領主様、ご報告がございます!」
「どうした?」
「最近、街へ訪れる商人が増えております!」
「……商人が?」
「はい。例の天幕や折り畳み椅子を買い付けるため、わざわざ他領から足を運ぶ者が現れ始めております」
「……他領から?」
アルベルトは思わず顔を上げた。
ジョーカー領は、商人の往来が少ない。
交通の便が悪く、わざわざ訪れるだけの特産品も乏しいためだ。
そんな土地へ、他領の商人が買い付けに来る。
それは、決して小さな変化ではなかった。
「しかも、商人たちは道具だけを買って帰るわけではございません」
「……というと?」
「滞在中に食事を取り、宿を利用し、馬の世話を頼みます。荷物を運ぶために人を雇う者もおります」
「…………」
アルベルトは黙り込んだ。
商人が一人来るだけでも、その周囲でお金が動く。
食堂。
宿屋。
馬の世話をする者。
荷物を運ぶ者。
そして、道具を作る職人たち。
これまで仕事の少なかった領地で、少しずつ人とお金が動き始めていた。
「……そうか」
アルベルトはゆっくりと頷いた。
まだ、領地全体が豊かになったわけではない。
税収に大きな変化が出るほどでもないだろう。
しかし、何もなかった場所に、新しい商売が生まれ始めている。
そのきっかけを作ったのは、間違いなくリリアーナ殿下だった。
「……殿下は、今どちらに?」
アルベルトが尋ねると、役人は少し困ったような顔をした。
「本日は、海辺へ向かわれたと聞いております」
「……海辺?」
「はい。新しく作らせた道具を試したいとのことで……」
「…………」
アルベルトは天井を見上げた。
山で遊ぶために作った道具が売れ始めた。
今度は海で何かをするらしい。
一体、次は何を作るつもりなのだろうか。
そして、それはまた、誰かの役に立つのだろうか。
「……いや」
アルベルトは首を振った。
期待するのは、まだ早い。
王女が本当に何かを考えているのかどうか、分からないのだから。
少なくとも、今のところ本人は楽しそうに遊んでいるだけだ。
だが。
アルベルトは机の上に置かれた商業報告書へ目を落とした。
そこには、これまで見たことのない取引の記録が、少しずつ増え始めていた。
「……不思議なことも、あるものだな」
アルベルトは小さく呟いた。
王女が赴任してから、まだ二月ほどしか経っていない。
領政については、ほとんど何も変わっていない。
それなのに、領地の片隅では、確かに何かが動き始めていた。
お読み頂き、ありがとうございます。




