第三話 疑心暗鬼を生じる
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
ジョーカー領。
トランプ地方の南西に位置するその領地は、五つの領地の中で最も人口が少なく、産業も乏しい土地だった。
領地の大部分を山々が占め、そこから流れ出す河川がいくつもの集落を結び、南には広い海が広がっている。
自然は豊かだが、それを活かした産業はほとんどない。
街道は整備が遅れ、商人の往来も少なく、領民の多くは農業や漁業、山仕事などで生計を立てていた。
そんな土地に、王女がやってくる。
それ自体は、驚くようなことではなかった。
今回の試練では、五人の王位継承権者がトランプ地方の五つの領地を一つずつ担当することになっている。
つまり、ジョーカー領にも必ず誰かが赴任する。
領主アルベルト・ジョーカー伯爵も、そのことは承知していた。
問題は、誰が来るかではない。
なぜ、真っ先にこの領地を選んだのか。
「……なぜだ?」
アルベルトは、王宮から届いた書状を前に頭を抱えていた。
何度読み返しても、書かれている内容は変わらない。
二年間、リリアーナ殿下がジョーカー領の統治を担当する。
既存の領主は引き続き実務を担い、王女の方針に従って領政を進めること。
王命である以上、異議を唱えるつもりはない。
しかし、理解はできなかった。
五つの領地の中で、最も条件の悪い土地。
ここには大きな街もなければ、豊かな鉱山もない。
商業が発展しているわけでもなく、税収に余裕があるわけでもない。
何か新しいことを始めようにも、まずは資金の確保から考えなければならない。
それほどまでに、ジョーカー領は厳しい状況に置かれていた。
「……最後まで残るなら、分かるのだが」
アルベルトは小さく呟いた。
人口の多いスペード領。
治安に課題を抱えるクラブ領。
交易の要衝であるダイヤ領。
商業の盛んなハート領。
どの領地にも問題はあるが、それぞれ発展のための基盤が存在している。
しかし、ジョーカー領にはそれすら乏しい。
普通なら、他の四領が選ばれたあと、最後に残った者が担当することになるだろう。
アルベルト自身、そう考えていた。
ところが、実際には違った。
王位継承権第五位、リリアーナ・プレイング殿下。
かつてボーリング地方の統治を任され、わずか一年で大きな成果を上げた人物が、誰よりも早くジョーカー領を希望したという。
他の領地を選ぶ機会がありながら、あえてこの土地を選んだ。
「……何をなさるおつもりなのだ?」
アルベルトには、王女の考えがまるで分からなかった。
◇
「見えてきましたよ、殿下」
「本当!?」
馬車の窓から顔を出しかけた私は、慌てて姿勢を正した。
危ない危ない。
王女たるもの、あまりはしたないことをしてはいけない。
……まあ、ちょっとくらいならいいと思うのだけれど。
「サリナ、見て! 山よ!」
「はい、山でございますね」
「川もあるわ!」
「はい、川もございます」
「それに、向こうには海も!」
「はい。地図に記載されていたとおりでございます」
「もう少し感動してくれてもいいんじゃない?」
「殿下が十分に感動しておられますので」
……もう。
相変わらず、つれない侍女である。
私は改めて窓の外へ目を向けた。
遠くには緑豊かな山々が連なり、その麓を川が流れている。
馬車が進む街道の周囲には畑が広がり、ところどころに小さな集落が見えた。
そして、山々の向こうには、青い海がわずかに覗いている。
素晴らしい。
実に素晴らしい。
王都では、こうはいかない。
もちろん王宮の庭園も美しいけれど、あそこでは好き勝手に遊べない。
人目もあるし、何より誰かしらが仕事を持ってくる。
でも、ここなら!
山を歩いてもいい。
川で遊んでもいい。
海辺でのんびりしてもいい。
誰にも邪魔されず、好きなだけ自然を満喫できるのだ。
「殿下」
向かいに座るミハイルが声をかけてきた。
「到着後の予定について、改めてご確認をお願いいたします」
「ええ、お願い」
「まず、現地領主との顔合わせ。その後、領地の現状について報告を受け、可能であれば帳簿や行政資料もご確認いただく予定でございます」
「わかったわ」
「必要に応じて、各集落の視察も行っていただくことになりますが」
「それはぜひ!」
私は勢いよく頷いた。
だって、集落を見て回れるのでしょう?
それなら、山や川の様子も確認できるかもしれない。
海辺の村にも行ってみたいわね。
「……随分と積極的でいらっしゃいますね」
「もちろんよ!」
ミハイルが少し驚いたような顔をした。
ふふふ。
私だって、やるときはやるのだ。
まずは領地の様子を確認して、必要な仕事を整理する。
それから、領主に任せられることは任せる。
そうすれば、あとは……。
「ふふふふ」
「……殿下?」
「何でもないわ!」
いけない。
つい笑みがこぼれてしまった。
まだ到着もしていないのに、浮かれすぎるのはよくない。
私は気を引き締め、背筋を伸ばした。
そう。
まずは仕事。
仕事を片づけてから、思いっきり遊ぶ。
これが大切なのだ。
◇
アルベルトは、屋敷の玄関前で王女の到着を待っていた。
使用人たちも整列し、失礼のないよう準備を整えている。
やがて、王家の紋章を掲げた馬車が姿を現した。
「……来られたか」
アルベルトは緊張した面持ちで背筋を伸ばす。
馬車が止まり、扉が開かれる。
最初に降りてきたのは護衛の騎士。
続いて侍女が姿を現し、最後に一人の少女が降り立った。
リリアーナ・プレイング。
まだ十九歳という若さでありながら、すでに数々の実績を持つ王女。
アルベルトは深く頭を下げた。
「リリアーナ殿下。遠路はるばる、ようこそジョーカー領へお越しくださいました」
「出迎えありがとう。これから二年間、お世話になるわね」
王女は柔らかく微笑んだ。
その様子は、アルベルトが想像していたよりもずっと穏やかだった。
もっと威厳に満ちた人物を想像していたのだが、目の前の王女からは、そうした威圧感をほとんど感じない。
「こちらこそ、精一杯お仕えいたします」
「ええ、よろしくね」
王女は周囲を見渡した。
そして、屋敷の向こうに広がる山々へ目を向ける。
「……いいところね」
「……は?」
思わず、間の抜けた声が出てしまった。
「緑が多くて、空気も綺麗。それに、静かだわ」
「……ありがとうございます」
アルベルトは戸惑いながら答えた。
確かに自然は豊かだ。
しかし、それは裏を返せば、開発が進んでいないということでもある。
王女がそのような点を褒めるとは思っていなかった。
「川も近くにあるのよね?」
「は、はい。屋敷から少し離れた場所を流れております」
「海まではどのくらいかしら?」
「馬車で向かえば、半日ほどでございます」
「まあ!」
王女の表情が明るくなった。
アルベルトはますます困惑する。
川や海に、何か重要な資源でも見いだしているのだろうか。
あるいは、新たな産業を興すための調査なのか。
その真意を測りかねていると、王女がこちらを向いた。
「それじゃあ、まずはお仕事ね!」
「……は、はい!」
アルベルトは慌てて頭を下げた。
やはり、何か考えがあるのだ。
そう思い直し、王女を屋敷へ案内した。
◇
応接室には、領地の帳簿と各種資料が用意されていた。
私は椅子に腰掛け、まずは帳簿を開いた。
……ふむ。
なるほど。
確かに、あまり豊かな領地ではないようだ。
税収は少なく、支出にも余裕がない。
人口も少ないし、商人の往来も限られている。
でも、だからといって、すぐに何かを変えなければならないわけではない。
まずは、今の暮らしがきちんと成り立っているかどうか。
それを確認することが大切だ。
「この支出は?」
「街道の補修費でございます。雨が続きますと、山間部の道が傷みやすく……」
「なるほど。では、こちらは?」
「河川沿いの集落で使用する設備の修繕費でございます」
「そう」
私は一つずつ説明を聞きながら、資料を確認していった。
大きな余裕はない。
けれど、領主は限られた財源の中で、必要なところにお金を使おうとしている。
少なくとも、帳簿を見る限り、無茶な運営をしている様子はなかった。
「……うん」
私は資料を閉じた。
「ひとまず、今までどおりでお願いするわ」
「……はい?」
アルベルトが目を丸くした。
「現状を大きく変える必要はないと思うの。もちろん、問題があれば相談してほしいけれど、普段の仕事はこれまでどおり進めてちょうだい」
「……よろしいのですか?」
「ええ。だって、今までこの領地を治めてきたのは貴方でしょう?」
「それは……はい」
「なら、私が来たからって、何もかも変える必要はないわ」
そもそも、私はこの領地に来たばかりなのだ。
長年ここで暮らしてきた人より、土地の事情に詳しいはずがない。
分からないことを無理に変えて、余計な問題を起こすのは避けたい。
何より。
仕事が増えるのは嫌だ。
「何か新しく始める必要が出てきたら、そのときに相談しましょう」
「……承知いたしました」
アルベルトは深く頭を下げた。
その表情は、どこか複雑そうだった。
……あれ?
何かおかしなことを言ったかしら。
まあ、いいか。
「それじゃあ、今日はここまでにしましょう」
「え?」
「長旅だったから、少し休みたいの」
「……は、はい。お部屋をご用意しております」
「ありがとう!」
私は立ち上がり、サリナとともに部屋を後にした。
さて。
最初の確認は終わった。
明日は何をしようかしら。
まずは近くの川を見に行くのもいいわね。
ああ、でも、山の様子も気になる。
海も見たいし……。
ふふふ。
忙しくなりそうだわ!
◇
王女が部屋を出ていったあと、アルベルトはしばらく動けずにいた。
目の前には、先ほどまで王女が確認していた帳簿が置かれている。
彼女は確かに、いくつかの支出について質問した。
領地の状況についても確認した。
しかし、それだけだった。
新しい政策を示すこともなければ、大規模な改革を命じることもない。
ただ、今までどおりに進めてほしいと告げただけ。
「……どういうことだ?」
アルベルトは小さく呟いた。
王女が真っ先にジョーカー領を選んだと聞いたとき、何か大きな計画があるのだと思っていた。
何もない土地だからこそ、誰も思いつかないような方法で発展させるつもりなのではないか。
そんな期待と不安を抱いていた。
だが、実際に会ってみれば、山や川や海の話ばかり。
帳簿を確認したと思えば、今までどおりでよいという。
これでは、何のためにこの領地を選んだのか分からない。
「……いや、まだ初日だ」
アルベルトは自分に言い聞かせた。
きっと、これから何かが始まるのだろう。
あれほどの実績を持つ王女なのだ。
何も考えていないはずがない。
そう思い、彼は翌日を待つことにした。
しかし、翌朝。
「殿下は、どちらへ?」
使用人に尋ねたアルベルトは、思いもよらない答えを聞くことになる。
「はい。朝食を済まされてから、侍女と護衛の方々を伴い、川をご覧になるとお出かけになりました」
「……川?」
「はい」
「……何のために?」
「さあ……。大変楽しそうにしておられましたが」
「…………」
アルベルトは窓の外を見た。
雲一つない青空が広がっている。
川へ出かけるには、確かによい天気だろう。
だが。
「……一体、何をなさるおつもりなのだ?」
その疑問に答えてくれる者は、誰もいなかった。
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