幕間 努力の末の一つの結末
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
ふぅ……。
紅茶を飲み、一息つく。
窓から差し込む柔らかな日差しが、テーブルを照らしていた。
こんなにも穏やかな午後を過ごすのは、いつ以来だろう。
王位継承権をいただいてからの八年間、こうしてゆっくりと紅茶を飲んだ記憶は、あまりない。
特に、リリアーナが王位継承権を得てからは、一層自分を磨き、王位を勝ち取るために、膨大な努力を続けてきた。
それこそ、睡眠以外に休んだ記憶がないほどに。
勉学に励み、政務を学び、貴族たちとの交流を重ね、少しでも多くの知識と経験を身につけようとしてきた。
もちろん、後悔はしていない。
あの日々があったからこそ、今の私がある。
けれど。
それが今では、すっかり落ち着いたものだ。
王位継承権を辞退したことで、私の生活は大きく変わった。
以前なら、紅茶を一杯飲む時間さえ惜しかったというのに。
今では、こうして庭園を眺めながら、ゆっくりと過ごすことができる。
……悪くありませんわね。
「エレオノーラ様」
侍女が、静かに声をかけてきた。
「本日は、婚約者の方がお見えになります」
私は、カップを置くと、侍女へ微笑んだ。
「ええ、楽しみですわ」
侍女は、ほんのり顔を赤く染め、一礼した。
……あら?
風邪かしら?
そう思ったけれど、本人はいつもどおり仕事を続けている。
まあ、無理をしている様子もないし、大丈夫でしょう。
私は、もう一度紅茶を口に運んだ。
今日は、どんなお話ができるかしら。
◇
しばらくして、扉が控えめに叩かれた。
「エレオノーラ様、お客様がお見えになりました」
「ええ、お通ししてちょうだい」
私は、手にしていた本を閉じた。
王位継承権を辞退してから、随分と時間に余裕ができた。
以前ならば、こうして誰かを迎える時間さえ惜しんで、政務や勉学に励んでいただろう。
けれど、今は違う。
誰かと過ごす時間を、楽しみに思えるようになった。
「失礼いたします」
扉が開き、一人の男性が入ってきた。
私の婚約者だ。
「お待ちしておりましたわ」
「お待たせしてしまいましたか?」
「いいえ。ちょうど紅茶をいただいていたところですの」
「それなら、よかった」
彼は、いつものように穏やかに微笑んだ。
侍女が新しい紅茶を用意し、私たちの前へ置いていく。
しばらくは、他愛もない話をした。
最近読んだ本のこと。
王都で評判になっている菓子店のこと。
そして、新国王となったレオナルドお兄様のこと。
「陛下は、お忙しそうですね」
「ええ。ですが、以前より随分と楽しそうですわ」
「楽しそう、ですか?」
「特に、リリアーナをからかっていらっしゃる時など」
「……ああ」
彼は、何かを察したように苦笑した。
「リリアーナ殿下は、お変わりありませんか?」
「ええ。先日も、王位継承権を辞退したいとおっしゃっていましたわ」
「またですか」
「何度目でしょうね」
思わず、二人で笑ってしまった。
リリアーナは、きっと今日も働きたくないと叫んでいるのだろう。
それでも、頼まれた仕事はきちんと片づけてしまう。
だからこそ、周囲も頼ってしまうのだけれど。
「……エレオノーラ様」
「はい?」
彼が、ふと真剣な表情になった。
私は、カップを置く。
「少し、お話ししたいことがあるのです」
「何でしょう?」
「その……以前から、ずっと考えていたことなのですが」
珍しい。
彼が言葉を選んでいる。
普段は、どんな相手にも落ち着いて話す人なのに。
「どうかなさいました?」
「いえ、その……」
彼は、一度深く息を吸った。
「エレオノーラ様。私は、あなたが王位を目指していた頃から、ずっとお側におりました」
「ええ」
「あなたがどれほど努力を重ねてきたか、少しは知っているつもりです」
「……ありがとうございます」
「ですが、正直に申し上げますと、心配でもありました」
「心配?」
「はい。あなたは、休むことを知らない方でしたから」
私は、思わず目を瞬いた。
「……そうでしょうか?」
「そうですよ」
彼は、少し困ったように笑った。
「以前、私がお茶に誘った時のことを覚えていらっしゃいますか?」
「ええ、もちろん」
「三十分だけなら、とおっしゃいました」
「……そうでしたわね」
「ですが、実際には十五分で席を立たれました」
「……あら」
「急ぎの書類があるから、と」
……覚えている。
確かに、そんなこともあった。
「申し訳ございませんでした」
「いいえ。責めているわけではありません」
彼は、ゆっくりと首を振った。
「ただ、あなたがあまりにも一生懸命だったので、私には何ができるのだろうと、何度も考えました」
「…………」
「王位を目指すあなたを支えたい。ですが、私が休んでほしいと言えば、あなたの努力を否定することになるのではないかとも思ったのです」
私は、彼を見つめた。
そんなことを考えてくださっていたのね。
「ですから、できる限り、あなたの邪魔にならないようにしてきました」
「……ええ」
「ですが、今は」
彼が、微笑んだ。
「少しだけ、私のわがままを聞いていただけませんか?」
「わがまま、ですか?」
「はい」
彼は立ち上がった。
そして、私の前まで歩いてくる。
……何でしょう?
何か、お願いでもあるのかしら。
彼は、私の前で片膝をついた。
「…………」
……え?
「エレオノーラ・プレイング様」
「は、はい」
突然、改まった呼び方をされて、思わず背筋が伸びた。
「私は、あなたを尊敬しております」
「……ありがとうございます」
「誰よりも努力を重ね、責任を果たそうとするあなたを、ずっと見てきました」
「…………」
「ですが、私が愛しているのは、王位を目指すあなたではありません」
彼は、まっすぐに私を見つめた。
「王位を目指していても、目指していなくても、あなたはあなたです」
「……っ」
「努力をしている時も、失敗して落ち込んでいる時も、こうして穏やかに紅茶を飲んでいる時も」
彼の声は、いつもと変わらず穏やかだった。
けれど、少しだけ震えている。
「私は、その全てを愛しています」
「…………」
「ですから、どうか」
彼は、小さな箱を取り出した。
蓋が開かれる。
そこには、美しい指輪が収められていた。
「これから先の人生を、私と共に歩んでいただけませんか?」
……ああ。
そういうことでしたのね。
私たちは、すでに婚約している。
家同士の話し合いも済んでいる。
結婚することも、以前から決まっていた。
だから、改めてこんなことを言われるとは思っていなかった。
「……一つ、伺ってもよろしいかしら?」
「はい」
「私が王位継承権を辞退したことを、後悔してはいらっしゃいませんか?」
彼は、少し驚いたように目を見開いた。
そして、笑った。
「どうしてですか?」
「だって……」
私は、視線を落とした。
「あなたは、私が女王になることを前提に、婚約してくださったのではありませんか?」
「いいえ」
即答だった。
「私が婚約を申し込んだのは、エレオノーラ様だからです」
「…………」
「あなたが女王になれば、私はその夫として支えるつもりでした」
「……ええ」
「ですが、女王にならないのであれば、今度は夫として、あなたと一緒に生きていきたい」
彼は、少し照れたように笑った。
「正直に申し上げますと、私は今の生活が気に入っています」
「……今の生活?」
「はい。あなたとこうして紅茶を飲み、他愛もない話をして、笑い合える時間です」
「…………」
「以前は、なかなか叶いませんでしたから」
……そうでしたわね。
私は、いつも忙しかった。
王位を目指すことばかり考えていた。
この人が、どんな思いで私を待っていてくれたのか。
きちんと考えたことがあっただろうか。
「……私」
声が、少し震えた。
「随分と、あなたをお待たせしてしまいましたわね」
「そんなことはありません」
「いいえ。ありますわ」
私は、彼の手にそっと触れた。
「これまで、あなたとの時間を十分に作ることができませんでした」
「エレオノーラ様……」
「ですが、これからは違います」
私は、微笑んだ。
「一緒に紅茶を飲みましょう」
「……はい」
「お散歩もいたしましょう」
「はい」
「それから、旅行にも行ってみたいですわ」
「もちろんです」
「リリアーナが整備した街道を使えば、以前より遠くまで行けるでしょうし」
「そうですね」
彼が、嬉しそうに笑った。
私は、その笑顔を見つめながら、ゆっくりと頷いた。
「喜んで、お受けいたしますわ」
「……ありがとうございます」
彼は、私の手を取り、そっと指輪をはめた。
その手が、少し震えていた。
「……緊張していらしたの?」
「ええ。とても」
「まあ」
思わず、笑ってしまった。
「もう婚約しておりますのに?」
「だからこそ、です」
「?」
「あなたが婚約を受け入れてくださったのは、王族としての判断だったかもしれません。ですが、今日は、あなた自身の気持ちを聞きたかったのです」
「…………」
私は、指輪を見つめた。
そして、彼の手を握り返す。
「では、改めて申し上げますわ」
「……はい」
「私は、あなたと結婚したいです」
彼が、目を見開いた。
そして。
今まで見たことがないほど、嬉しそうに笑った。
「……ありがとうございます」
私は、その笑顔を見て、胸が温かくなるのを感じた。
……不思議ですわね。
王位を目指していた頃は、誰かに認められることが何より嬉しかった。
努力を評価されること。
成果を認められること。
それが、自分の価値なのだと思っていた。
けれど、今は。
ただ、こうして一緒に笑っているだけで。
こんなにも、幸せなのね。
◇
しばらくして。
侍女が、新しい紅茶を運んできた。
「エレオノーラ様、お茶のお代わりをお持ちいたしました」
「ありがとう」
侍女は、私の左手に目を留めた。
そして、指輪を見る。
「……っ!」
顔が、みるみる赤くなった。
「お、おめでとうございます!」
「ありがとう」
「本当に……本当に、おめでとうございます!」
侍女は、何度も頭を下げた。
……まあ。
随分と喜んでくれているのね。
私は、微笑んだ。
「あなたも、幸せになってくださいね」
「……っ!」
侍女は、さらに顔を赤くした。
「は、はい!」
そして、慌てた様子で退出していった。
私は、その後ろ姿を見送る。
……あら?
また顔が赤くなっていたわ。
やっぱり。
風邪かしら?
お読み頂き、ありがとうございます。




