幕間 人の道はそれぞれに
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
王城の一角に設けられた騎士訓練場では、今日も騎士たちが厳しい訓練に励んでいた。
剣を振る音、地面を蹴る足音、そして指導役の怒号が響き渡る。
その中に、王位継承権を辞退した第七王子、テオドールの姿があった。
「腕が上がっていない! 素振り百本追加!」
「はい!」
テオドールは両手で握った木剣を構え直し、再び振り始めた。
「一! 二! 三! 四!……」
額から汗が滴り落ちる。
すでに何度も繰り返した素振りによって、腕は鉛のように重くなっていた。それでもテオドールは歯を食いしばり、一本ずつ剣を振り続ける。
周囲の騎士たちも、それぞれの訓練に取り組んでいた。
誰もが汗を流し、時には叱責を受けながら、自らの技を磨いている。
テオドールも、その一人になりたかった。
「九十八! 九十九! 百!」
「止め!」
指導役の声が響いた瞬間、テオドールは木剣を下ろした。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
肩で息をしながら、その場に立ち尽くす。
腕は震え、足にも力が入らない。
そんな姿を見た指導役の騎士が、少し心配そうに声をかけた。
「殿下……」
「はぁ……はぁ……ここ……では……テオドールと……お呼びください」
「……では、テオドール。本当にできるのか?」
その問いには、単に訓練を続けられるのかという意味だけではなく、王族という立場を捨ててまで騎士の道を歩む覚悟があるのかという意味も込められていた。
テオドールは乱れた呼吸を整えようとしながら、顔を上げる。
「……はい。私は……騎士になります」
指導役の騎士は、その目をじっと見つめた。
王族として生きていれば、これほど厳しい訓練を受ける必要などない。
危険な任務に就く必要も、泥にまみれて剣を振る必要もない。
それでも、この少年は自ら望んでここに立っている。
騎士は静かに目を閉じ、しばらく考え込んだ。
そして、再び目を開く。
「わかった。ただ、指導を緩めたりはしないからな」
「……はい!」
疲労に震える声だったが、その返事には確かな喜びが込められていた。
◇
訓練の合間に与えられた休憩時間。
テオドールは井戸から水を汲み上げ、桶に張った冷たい水で顔を洗っていた。
「ぷはっ! はぁ……」
火照った顔に冷水が心地よい。
腕はまだ重く、握り締めた手のひらにも痛みが残っている。
それでも、不思議と嫌な気分ではなかった。
「なぁ、あんた」
「えっ?」
突然声をかけられ、テオドールは振り返った。
そこには、同じように訓練を終えたらしい一人の騎士が立っていた。
「なんでそんなに頑張るんだよ」
「それは……」
テオドールは一瞬、言葉に詰まった。
王城の中で、彼にこれほど気安く話しかける者は少ない。
騎士たちも、侍従たちも、彼が王族であると知れば、自然と一歩引いてしまう。
それは仕方のないことだと理解していた。
しかし、今、目の前の騎士は違った。
まるで昔からの知り合いに尋ねるように、気軽に話しかけてくれている。
それが、テオドールにはとても新鮮だった。
自然と顔がほころぶ。
「私は自分の力で大切な人たちを、この国を守りたいんです!」
「……変わってんな」
「……はい!」
「いや、褒めてるわけじゃねぇんだけど」
騎士は少し困ったように笑った。
それでもテオドールは嬉しそうだった。
その後も二人は、訓練の厳しさや剣の扱い方について、他愛のない話を続けた。
そんな時だった。
廊下の先から、見慣れた人物が歩いてくるのが見えた。
「あっ、兄上!」
テオドールが声を上げると、その人物が足を止めた。
「テオドールか」
ユリウスだった。
「はい! 今、休憩中です」
「そうか。頑張っているようだな」
「はい!」
ユリウスは弟の汗にまみれた姿を見て、満足そうに頷いた。
「うむ。訓練が辛いからと言って投げ出さないようにな」
「もちろんです!」
「うむ。お前ならきっと立派な騎士になれるだろう」
「はい!」
ユリウスはもう一度頷くと、その場を後にした。
テオドールは、尊敬する兄の背中を嬉しそうに見送った。
しかし、その隣では、先ほどまで話していた騎士が固まっていた。
「えっ、兄上? あんた、まさか……」
「あ、気にしないでください」
「そ、そうはいってもよ」
騎士は困惑していた。
先ほどの人物は第三王子ユリウスである。
そのユリウスを兄と呼んだということは、目の前の少年もまた王族ということになる。
今までの自分の言葉遣いを思い返し、顔が引きつり始めた。
しかし、テオドールはそんな様子を見て、慌てて首を振った。
「私は王族としてではなく、一人の騎士として、皆と一緒に励みたいのです!」
「…………」
騎士はしばらくテオドールを見つめていた。
王族でありながら、他の騎士と同じ訓練を受け、同じように叱られ、疲れ果てるまで剣を振る。
それだけでも十分に変わっている。
それなのに、本人は特別扱いされないことを心から望んでいるらしい。
「……そうか。あんた、本当に変わってんな」
「……っ! はい!」
テオドールは満面の笑みで答えた。
王族だと知られた後も、相手は自分を「あんた」と呼んでくれた。
それが何よりも嬉しかった。
◇
王城の法務大臣執務室。
机の上には、各地から届けられた報告書や法的な審査を必要とする書類が整然と並べられていた。
ヴィクトリアはその一つ一つに目を通し、必要な判断を下していた。
王位継承争いを終えた今、彼女は法務大臣として国の法制度を支える立場にある。
決して楽な仕事ではなかったが、自らの知識と経験を生かせることに、確かなやりがいを感じていた。
そんな執務室の扉が叩かれる。
「コンコン」
「はい」
「失礼する」
入ってきた人物を見て、ヴィクトリアは少し意外そうに目を瞬かせた。
「おや、珍しいですね」
「姉上、本日はこちらの申請に参った」
ユリウスは手にしていた書類を差し出した。
ヴィクトリアはそれを受け取り、内容を確認する。
「隣国との国境付近への警備強化申請書類ですか」
「ああ」
書類には、警備人員の増強や巡回体制の見直しなど、国境付近の防衛体制を強化するための計画が記されていた。
ヴィクトリアはしばらく内容を読み進め、静かに頷いた。
「……確かに、公爵との一件以来、隣国の動きが怪しいですからね」
「……ああ。何事もなければ、それでいいのだが」
「備えあれば憂いなしですね」
「俺もそう考えている」
ユリウスの表情は真剣だった。
公爵を巡る事件は決着したものの、その影響が完全に消えたわけではない。
国境の向こうにいる者たちが何を考え、どのような行動に出るのかは、まだ分からなかった。
だからこそ、事が起こってからでは遅い。
ヴィクトリアは書類を机に置いた。
「わかりました。法的な手続きは任せてください。国王陛下にも話を通しておきます」
「助かる。……ヴィクトリア姉上が法務大臣になってくれて心強い」
「私などまだまだです。ユリウスこそ、より一層厳しい鍛錬を続けているそうではないですか」
ユリウスは小さく笑った。
「ふっ、弟に負けるわけにはいかないからな」
「テオドールですか。あの子は貴方に憧れていますからね」
「ああ。だが、下から憧憬を抱かれるのは、上に立つ者の常だ。それに負けないように励むまでのこと」
「ユリウスらしいですね」
ヴィクトリアは穏やかに微笑んだ。
王位継承権を辞退したテオドールは、今、騎士になるために厳しい訓練を続けている。
そして、その目標であるユリウスもまた、弟に恥じない姿を見せるために努力を続けていた。
兄弟が互いを意識し、成長しようとしている。
それは、ヴィクトリアにとっても喜ばしいことだった。
しばらくして、ユリウスが何かを思い出したように口を開いた。
「……姉上、婚約者とは」
「ユリウス」
「…………」
ヴィクトリアは微笑んでいた。
しかし、その声には妙な迫力があった。
「世の中には触れない方がいいこともあるのですよ?」
「失礼した」
ユリウスは即座に口を閉じた。
国境の危機には毅然と対応する彼も、今の姉にそれ以上踏み込むつもりはなかった。
◇
「ふぅ、今日はここまでですね」
ヴィクトリアは最後の資料をまとめ、椅子から立ち上がった。
机の上には、先ほどユリウスから預かった書類が置かれている。
すでに内容の精査は終わり、必要な法的確認も済ませていた。
書類の末尾には、法務大臣の印が押されている。
「お兄様のところへは行っておかねばなりませんね」
ヴィクトリアは書類を手に取り、国王の執務室へと向かった。
廊下を歩いていると、前方に見知った人物の姿が見えた。
「おや、あれは……」
その人物は侍女の格好をしていた。
しかし、ヴィクトリアには見覚えがある。
というより、見間違えるはずがなかった。
その人物は、周囲を軽く確認すると、国王の執務室へと入っていった。
「先客ですか」
ヴィクトリアは一瞬だけ足を止めた。
何やら事情がありそうだったが、自分は書類を提出するだけである。
すぐに退室すれば、邪魔にはならないだろう。
そう判断して、執務室の扉を叩いた。
「どうぞ」
すぐにレオナルドの返事が聞こえた。
ヴィクトリアが扉に手をかけた、その瞬間。
「ちょ、おまっ!」
室内から慌てた声が聞こえた。
しかし、ヴィクトリアは構わず扉を開けた。
「失礼いたします」
執務机には国王レオナルドが座っている。
そして、その隣には侍女姿のシャルロッテが立っていた。
ヴィクトリアは二人を見比べ、静かに口を開いた。
「……シャルロッテ、あなた、そういう趣味が」
「ちげぇよ!」
「言葉遣いが乱れていますよ」
「違います!」
シャルロッテは慌てて言い直した。
ヴィクトリアは小さくため息をつき、レオナルドへ視線を向ける。
「はぁ、お兄様、何をさせているのですか」
「いや、ちょっとね、お使いを」
レオナルドはいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
ヴィクトリアはその説明に納得したわけではなかったが、深く追及するつもりもなかった。
「私はこちらを提出しに来ただけですので、すぐに退出いたします」
そう言って、ユリウスから預かった書類を机に置く。
レオナルドは書類を一瞥し、頷いた。
「ありがとう、ヴィクトリア」
「では、失礼いたします」
「あ、ヴィクトリア、ちょっと待って」
「? なんでしょう?」
「たまには付き合ってよ」
レオナルドが取り出したのは、一本の高級酒だった。
どうやら、シャルロッテが持ってきたものらしい。
美しい瓶に収められた酒を見て、ヴィクトリアは少し困ったように眉を下げた。
「……私は弱いのですが」
「たまにはいいじゃない」
「…………」
ヴィクトリアは少し考え、やがて頷いた。
「わかりました。……ですが、リリアーナには言わなくていいのですか? あの子、意外とお酒好きでしょう?」
「うーん、今日は遠慮しておこうかな。あの子は飲むと可愛くなるんだけど、……今は仕事の不満しか聞けなそうだし」
ヴィクトリアは呆れたように兄を見つめた。
「……わかっておいでなら、少しは手加減してあげたらどうですか?」
「ふふっ、僕の楽しみだからね」
「うわぁ、性格悪りぃ」
「言葉遣い」
「ひねくれていらっしゃいますね」
「……それもどうかと思いますが、今回はシャルロッテに概ね賛同いたします」
「ひどいなぁ、あんなに面白いじゃないか」
「…………」
ヴィクトリアとシャルロッテは、そろってレオナルドを見つめた。
しかし、当の本人はまったく気にした様子もなく、楽しそうに笑っている。
◇
三人は席に着き、酒を飲む。
レオナルドはエドワードから届いた手紙を眺めながら、楽しそうに笑った。
「ふふふ。ね、さすがは父上だよ」
その言葉に、ヴィクトリアは深いため息をついた。
「……あの人の血が本当に自分に流れているのかと、疑わしくなる時があります」
「同感」
シャルロッテも即座に頷く。
しかし、レオナルドは不思議そうに首を傾げた。
「えー、そうかなー。父上は意外とヴィクトリア、シャルロッテとも似ているよ。一度決めたら、曲げないところとかね」
ぴくっ。
ヴィクトリアの眉が、わずかに動いた。
「……お兄様、それは私の何を指しておっしゃっているのでしょうか?」
レオナルドは一瞬、言葉に詰まった。
「……あー、うん、いろいろだよ」
その横で、シャルロッテが何かに気づいたように顔を上げる。
「はっ、婚約者とのこと……」
「シャルロッテ」
「はい!」
それは、普段の淡々としたヴィクトリアからは想像もできないほど、低い声だった。
シャルロッテは反射的に背筋を伸ばした。
「いいですか、女の幸せは結婚だけではありません」
「はい!」
「世の中にはたくさんの男性がいますし、それぞれ色んな考え方を持っています」
「はい!」
「ですので、たとえ一人の殿方に、可愛くないとか、怖いとか言われても何も問題はないのです」
「はい!」
ヴィクトリアは手元の酒を一口飲んだ。
そして、さらに続ける。
「何が真実の愛ですか。そんなもの犬にでも食わせておけばいいのです」
「…………」
シャルロッテは返事をしなかった。
いや、できなかった。
先ほどまでの勢いが嘘のように、ヴィクトリアの言葉には抑えきれない感情が滲んでいた。
しかし、ヴィクトリアの話は終わらない。
「だいたいですね、女というのは……」
そのまま、延々と話し始めてしまった。
シャルロッテは背筋を伸ばしたまま、時折頷いている。
レオナルドはそんな二人を眺め、静かに杯を傾けた。
(あー、うん、ヴィクトリアも相当溜まってたんだなぁ)
普段は冷静沈着で、法の前では私情を挟まない妹。
そんな彼女にも、どうにも割り切れないことがあるらしい。
レオナルドは天井を見上げながら、もう一口、酒を煽った。
間違いなく美味しい酒だった。
しかし、今夜はほんのり苦かった。
お読み頂き、ありがとうございます。




