第五話 情報は得難い武器となる
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
夜明け前の王宮。
レオナルドは、地下の拘禁施設から戻ると、その足で自室へ向かった。
机の上には、昨夜から積み上げられた書類が残っている。
国王崩御に伴う行政上の報告。
各地方からの問い合わせ。
貴族たちの動向。
そして、国王毒殺事件に関する捜査記録。
レオナルドは椅子に腰掛けると、目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、牢獄の壁に刻まれていた文字だった。
酒の種類。
本数。
運ばれた時刻。
部屋に出入りした人物。
過去の事件。
貴族たちの人間関係。
そして、それぞれの情報に付けられていた印。
確認済み。
伝聞。
推測。
不明。
リリアーナは、それらを混同することなく整理していた。
「……あの子は」
レオナルドは小さく息を吐いた。
壁から床まで、びっしりと埋め尽くされた文字。
あれほどの情報を、いったいどれほどの時間を掛けて刻んだのだろうか。
右手に握られていたスプーン。
赤くなった指先。
そして、眠っていないことが一目で分かる顔。
普段は仕事を嫌がり、どうすれば休めるかばかり考えている妹だった。
その妹が、一晩中、壁に文字を刻み続けていた。
「……ありがとう、リリアーナ」
レオナルドは呟いた。
そして、机の上から白紙を取り出した。
記憶が鮮明なうちに、必要な情報を整理しなければならない。
まず、昨夜の出来事。
次に、酒と酒器の管理。
そして、関係者の行動。
最後に、過去の事件と人間関係。
レオナルドは筆を走らせた。
壁に刻まれていた文字が、脳裏に鮮明に浮かんでいた。
一字一句、余すことなく。
酒の種類も、本数も、人の名前も、引かれていた線の位置さえも。
あの光景を忘れられるはずがなかった。
妹が自分の身を削ってまで伝えようとしたものだ。
その全てを受け取るために、レオナルドは最後の一文字まで目に焼き付けていた。
そして今、その記憶を一つずつ紙へ移していく。
リリアーナが刻んだ情報を、何一つ欠けさせることなく。
書き終える頃には、窓の外が少しずつ明るくなり始めていた。
◇
朝。
レオナルドは兄弟姉妹たちを会議室へ集めた。
ヴィクトリア、ユリウス、エレオノーラ、シャルロッテ、テオドール。
全員が揃ったところで、レオナルドは机の上に数枚の書類を並べた。
「みんな、集まってくれてありがとう」
「兄上、何か進展があったのか?」
ユリウスが尋ねる。
「うん。昨夜、リリアーナに会ってきたんだ」
その言葉に、エレオノーラが顔を上げた。
「リリアーナは、どうしておりましたの?」
「……かなり疲れていたよ」
レオナルドは少しだけ表情を曇らせた。
「でも、僕たちのために、できる限りのことをしてくれていた」
「と、申しますと?」
ヴィクトリアが尋ねる。
レオナルドは、机の上の書類を指した。
「これを見てほしい」
兄弟姉妹たちは、それぞれ書類を手に取った。
そこには、国王毒殺事件に関係すると思われる情報が整理されていた。
「……これは」
ヴィクトリアが目を細める。
「昨夜の酒宴についての記録ですか?」
「そう。リリアーナが覚えていることを、できる限り書き出してくれたんだ」
「……これを、あの子が?」
エレオノーラが驚いたように呟いた。
「うん。ただし、これは僕が確認した内容をまとめ直したものだから、細部については改めて確認が必要だよ」
レオナルドは続けた。
「リリアーナは、確認した事実と、人から聞いた話、それから自分の推測を分けていた。僕たちも、その区別を崩さずに調べよう」
ヴィクトリアは頷いた。
「当然ですわ。特に今回のような事件では、証言と推測を混同するわけにはまいりません」
「それで、何か気になる点があったのですか?」
テオドールが尋ねた。
「いくつかね」
レオナルドは一枚の書類を取り上げた。
「まず、酒について確認したいんだ」
◇
「現在、毒物が検出されたと報告されているのは、父上とリリアーナが使用したとされるグラスだね」
レオナルドの問いに、ヴィクトリアが頷いた。
「ええ。少なくとも、現時点で私たちに提出されている報告では、そのようになっています」
「では、酒そのものについては?」
「確認中です。現場から回収された酒器や容器についても、順次調査が進められています」
「なるほど」
レオナルドは書類へ目を落とした。
「リリアーナの記録には、酒の種類と本数、それから運ばれた時の状況が書かれていた。これを実際の記録と照らし合わせたい」
「承知しました」
ヴィクトリアは手元の紙に書き加えた。
「酒を管理していた部署の記録と、昨夜の搬入記録を確認いたします」
「それと、グラスについてもお願いしたい」
「ええ」
「リリアーナの部屋で使われたものが、なぜ父上の部屋にあったのか。そこを確認したいんだ」
ユリウスが腕を組んだ。
「運んだ者がいるはずだ」
「そうだね」
「ならば、昨夜の勤務記録から該当者を絞り込める」
「お願いできるかな。ただし、記録に名前があるだけで犯人扱いはしないでほしい」
「承知している。勤務していた者を確認し、必要に応じて事情を聞く。証拠もなく拘束するつもりはない」
レオナルドは頷いた。
「ありがとう」
ヴィクトリアが書類を置いた。
「一つ、確認しておきたいことがあります」
「何かな?」
「グラスから毒物が検出されたことと、その毒物によってお父様が亡くなられたことは、別に確認する必要があります」
会議室に沈黙が落ちた。
「……どういうことだ?」
ユリウスが尋ねる。
「検出された毒物が死因となったものと一致するのか。実際にどの程度の量が残っていたのか。そして、毒物がいつ混入された可能性があるのか。その確認が必要だということです」
「なるほど」
レオナルドは頷いた。
「つまり、グラスに毒があったというだけでは、父上がそのグラスから毒を摂取したとは限らないんだね」
「そのとおりです」
ヴィクトリアは静かに答えた。
「証拠品の存在だけで、事件の経緯を決めつけることはできません」
テオドールが顔を上げた。
「では、使用されたグラス以外にも、毒物が残っている可能性があるのですね?」
「ええ。ですから、回収されたものを一つずつ確認する必要があります」
レオナルドは、もう一枚の書類を手に取った。
「それじゃあ、酒と酒器の管理については、ヴィクトリアとユリウスにお願いするよ」
「承知しました」
「任せろ」
◇
「次は、関係者の行動だね」
レオナルドは新たな書類を机に置いた。
そこには、リリアーナが覚えている範囲での人物名が記されていた。
「リリアーナの部屋へ出入りした者だけでなく、父上の周囲にいた者についても整理されている」
エレオノーラが目を通す。
「……随分と多くの方のお名前がございますわね」
「そうなんだ」
レオナルドは頷いた。
「ただ、名前が書かれているからといって、事件に関係しているとは限らない。あくまで確認のための一覧だよ」
「ええ。承知しておりますわ」
エレオノーラは書類を置いた。
「でしたら、わたくしは貴族の皆様について調べますわ。お父様と最近お会いになっていた方や、王位継承について強い関心を示している方を中心に、情報を集めてみます」
「お願いするよ」
「ただし、お兄様」
「何かな?」
「貴族の皆様にも、それぞれのお考えがございます。王位継承について話し合っているというだけで、疑うことはできませんわ」
「もちろんだよ」
レオナルドは微笑んだ。
「僕たちが知りたいのは、誰が何をしていたのかという事実だからね」
シャルロッテが静かに口を開いた。
「それでしたら、わたくしもお手伝いできますわ」
「ありがとう、シャルロッテ」
「王宮内では、さまざまなお話が広まっておりますの。どなたが最初にお話しされたのか、確認してみたいと思いますわ」
「うん。お願いするよ」
シャルロッテは優雅に微笑んだ。
レオナルドは続けてテオドールへ目を向けた。
「テオドールには、関係者の聞き取り記録を整理してほしいんだ」
「はい。承知いたしました」
「同じ人物の証言でも、聞いた時期や相手によって内容が変わることがあるからね。その違いが分かるようにまとめてもらえると助かるよ」
「分かりました。発言した時刻や、誰が聞き取ったのかも記録するようにいたします」
「ありがとう」
それぞれの役割が決まった。
しかし、レオナルドはまだ話を終えなかった。
◇
「それと、もう一つ」
レオナルドは全員を見渡した。
「今回の捜査では、誰か一人を犯人だと決めつけないようにしたい」
ユリウスが眉を寄せる。
「当然だろう」
「うん。でも、僕たちはリリアーナが犯人ではないと信じている。だからこそ、気をつけなければならないと思うんだ」
ヴィクトリアが頷いた。
「リリアーナの無実を証明したいという気持ちが強すぎれば、別の人物を疑う際に判断を誤る可能性があります」
「そういうことだね」
レオナルドは机の上の書類を指した。
「昨日、リリアーナの処刑を求めてきた貴族たちがいた」
全員の表情が引き締まる。
「彼らの行動は、確かに気になる。でも、それだけで父上を殺した犯人だと判断することはできない」
「……分かっていますわ」
エレオノーラが答えた。
「ただ、なぜあれほど処刑を急いだのか。その理由は確認したいですわね」
「うん。僕もそう思う」
レオナルドは頷いた。
「それから、捜査に関わる者たちにも、同じ方針を徹底してほしい」
「証拠に基づく判断を行う、ということですね」
ヴィクトリアが確認する。
「そうだよ」
レオナルドは穏やかに答えた。
「父上を殺した犯人を見つけるために、無実の人を犯人にしてしまっては意味がないからね」
ユリウスは腕を組んだまま頷いた。
「軍にも徹底する。疑わしいという理由だけで拘束することは認めん」
「ありがとう」
レオナルドは一度、目を閉じた。
父が亡くなった。
妹が疑われている。
王国の中には、この混乱を利用しようとする者がいるかもしれない。
それでも、焦って判断を誤るわけにはいかなかった。
「……それじゃあ、始めよう」
レオナルドが告げると、兄弟姉妹たちはそれぞれ立ち上がった。
◇
会議が終わり、皆が退室した後。
レオナルドは一人、会議室に残っていた。
机の上には、リリアーナの記録をまとめ直した書類が置かれている。
その一枚を手に取る。
酒の種類。
本数。
使用されたグラス。
出入りした人物。
そして、父が部屋を出た後のこと。
リリアーナは、自分が知らないことを知らないまま記録していた。
それが、レオナルドには何より重要に思えた。
「……父上」
小さく呟く。
昨日まで、父はこの国の全てを見渡していた。
自分たちは、それぞれに与えられた役割を果たしていればよかった。
けれど、今は違う。
誰かが判断しなければならない。
誰かが責任を負わなければならない。
そして、誰かが真実を見つけなければならない。
レオナルドは書類を机に戻した。
「……リリアーナ」
牢獄で見た妹の姿が浮かんだ。
壁から床まで埋め尽くされた文字。
傷ついた指先。
そして、自分を待っていたという一言。
あの妹は、もう十分に働いている。
ならば、今度は自分たちの番だ。
レオナルドは立ち上がった。
会議室を出ると、廊下には既に多くの文官や騎士たちが行き交っていた。
国王が亡くなっても、王国は動き続けている。
そして、国王毒殺事件の捜査も、ようやく本格的に動き始めていた。
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