第四話 自分にできることを
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
シャルロッテが去った後、リリアーナは机の上に置かれた食器を見つめていた。
冷めたスープは飲み干した。
パンも、どうにか食べ終えた。
食欲が戻ったわけではない。ただ、今は倒れている場合ではなかった。
「……お父様」
昨日の夜のことを思い出す。
一緒に酒を飲んだ。
七つの国家運営案について話し合った。
父は楽しそうに笑っていた。
そして、また一緒に飲もうと約束した。
あれが最後になるなんて、思いもしなかった。
リリアーナは唇を噛んだ。
悲しかった。
胸が苦しくて、何も考えられなくなるほどに。
けれど、シャルロッテの言葉が頭から離れなかった。
父を殺した人間がいる。
その人間は、今もどこかで生きている。
そして、自分に罪を着せようとしている。
「……ふざけないでよ」
小さな声が漏れた。
何のために。
何のために、父を殺したのか。
王位が欲しかったのか。
権力が欲しかったのか。
それとも、父が邪魔だったのか。
理由なんて、まだ分からない。
けれど、一つだけ確かなことがある。
「……絶対に、許さない」
リリアーナは顔を上げた。
涙は、もう流れていなかった。
悲しみが消えたわけではない。
その悲しみが、怒りに変わっていた。
父を殺した人間を見つける。
そのために、自分が覚えていることを全て思い出す。
昨日の夜だけではない。
これまで父と話したこと。
王宮で見聞きしたこと。
兄姉たちから聞いた話。
父を取り巻く人間関係。
どんな些細なことでも構わない。
何が事件につながるのか、今の自分には分からないのだから。
「……まずは、昨日の夜から」
リリアーナは机に向かった。
そして、そこで手を止めた。
「……あれ?」
紙がない。
筆記具もない。
当然だった。
ここは拘禁施設だ。
必要最低限の家具と食器があるだけで、書類を作成するための道具など用意されていない。
「……嘘でしょ」
リリアーナは机の引き出しを確認した。
何もない。
寝台の周囲も見た。
やはり何もない。
扉には鍵が掛かっている。
外に出ることもできない。
「……こんな時に限って」
リリアーナは眉を寄せた。
頭の中だけで整理することもできる。
しかし、記憶というものは曖昧だ。
思い出したことを残しておかなければ、後から別の記憶と混ざってしまうかもしれない。
まして、これから思い出そうとしているのは、昨日の夜のことだけではない。
関係者の名前。
酒の種類。
運ばれてきた本数。
誰がどの時間に何をしていたのか。
誰と誰が親しく、誰と誰が対立していたのか。
それらを頭の中だけで整理するには、あまりにも情報が多すぎた。
「……何か、書けるもの」
リリアーナは部屋を見回した。
机。
椅子。
寝台。
食器。
そして、壁。
そこで、視線が止まった。
「…………」
リリアーナは食器へ目を向けた。
皿。
器。
スプーン。
「……これなら」
スプーンを手に取る。
そして、壁の前へ移動した。
先端を壁に当て、ゆっくりと力を込める。
ガリッ。
小さな音が響いた。
壁の表面に、細い傷が残る。
「……書ける」
リリアーナは傷を指でなぞった。
はっきりと読める。
紙ほど便利ではない。
書き直すのも難しい。
けれど、記録を残すことはできる。
「……十分よ」
リリアーナはスプーンを握り直した。
そして、壁に文字を刻み始めた。
◇
最初に書いたのは、昨日の夜の出来事だった。
父が部屋を訪れた時刻。
酒を飲み始めた時刻。
用意された酒の種類と本数。
誰が酒を運んできたのか。
誰が部屋へ出入りしたのか。
父と何を話したのか。
そして、父が部屋を出ていった時刻。
思い出せる限り、細かく記録していく。
正確な時刻が分からないものには、推定と付け加えた。
記憶が曖昧なものは、曖昧なまま残した。
分からないことを、分かったことにはしない。
ただ、思い出した事実を一つずつ刻んでいく。
ガリッ。
ガリッ。
スプーンが壁を削る音だけが、静かな部屋に響いていた。
やがて、昨日の夜について書き終える。
しかし、リリアーナは手を止めなかった。
次に書き始めたのは、父の周囲にいた人間についてだった。
王宮で働く者たち。
父と頻繁に会っていた貴族。
兄姉たちから聞いた人物の名前。
誰がどの立場にいて、誰とつながりがあるのか。
自分が直接確認したものと、人から聞いた話は区別した。
噂でしかないものには、そのように記した。
それでも、情報は次々と増えていった。
壁の一角が文字で埋まる。
リリアーナは隣へ移動した。
さらに書き続ける。
これまでに起きた事件。
自分が襲われた時のこと。
毒を盛られた時のこと。
貴族派との対立。
これまでの調査で分かったこと。
その時は関係がないと思っていた情報も、改めて整理していく。
父の死と直接つながるかどうかは分からない。
けれど、関係がないと断定できる理由もなかった。
ならば、残しておく。
判断するのは、これから調査する兄姉たちだ。
自分が勝手に情報を捨てる必要はない。
ガリッ。
ガリッ。
スプーンを握る指が痛み始めた。
それでも、リリアーナは手を止めなかった。
壁の文字が増えていく。
人物の名前から線を伸ばし、別の人物へつなぐ。
関係が分からないものには疑問符を付ける。
同じ時間帯に起きた出来事は、近くにまとめる。
酒の種類と本数についても、思い出せる限り細かく刻んだ。
いつ用意されたものなのか。
どの酒を飲んだのか。
残っていた酒はどれくらいだったのか。
自分が確認したことと、確認していないこと。
それらを一つずつ区別していく。
気づけば、最初の壁は文字で埋まっていた。
リリアーナは隣の壁へ移動した。
そこも埋まると、さらに別の壁へ。
そして、壁に書く場所がなくなると、今度は床へスプーンを向けた。
ガリッ。
ガリッ。
指先が痛む。
腕も重い。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
思い出せ。
もっと思い出せ。
あの時、誰がいた。
誰が何を言った。
誰が何を持っていた。
父は誰と会っていた。
どんな話をしていた。
どんな表情をしていた。
何か、見落としていないか。
リリアーナはひたすら記憶を辿った。
父を殺した人間につながる情報が、どこかにあるかもしれない。
それを見落としたくなかった。
ただ、その一心だった。
◇
夜明け前。
王宮の地下にある拘禁施設へ、一人の人物が訪れた。
第一位王位継承者、レオナルド・プレイング。
彼は騎士に案内され、リリアーナの部屋の前までやってきた。
「リリアーナに会いたいんだ。開けてもらえるかな」
「承知いたしました」
騎士が鍵を開ける。
扉がゆっくりと開かれた。
レオナルドは部屋の中へ足を踏み入れた。
そして、動きを止めた。
「…………」
壁一面に、文字が刻まれていた。
それだけではない。
別の壁にも。
さらに、その隣にも。
そして、床にまで。
部屋の至るところが、細かな文字と線で埋め尽くされていた。
昨日の夜の状況。
酒の種類と本数。
部屋へ出入りした人物。
それぞれの行動。
過去に起きた事件。
貴族たちの人間関係。
直接確認した事実と、伝聞による情報。
不確かな部分には疑問符が付けられ、推測には推測と記されている。
人物同士の関係は線で結ばれ、出来事は時系列に沿って整理されていた。
壁から床へ。
床から別の壁へ。
まるで、部屋そのものが一枚の巨大な報告書になったかのようだった。
その中央に、リリアーナが立っていた。
右手には、先端の削れたスプーンが握られている。
指先は赤くなり、爪の周囲には細かな傷ができていた。
目の下には隈が浮かんでいる。
それでも、その瞳はまっすぐにレオナルドを見つめていた。
「お待ちしてました、お兄様」
レオナルドは何も答えなかった。
ただ、壁へ目を向けた。
一つずつ、文字を追っていく。
昨日の夜の記録。
酒の種類。
運ばれた本数。
誰が、いつ、どこにいたのか。
そして、父を取り巻く人間関係。
壁に刻まれた文字を読み、床へ視線を移し、また別の壁へ目を向ける。
リリアーナは何も言わなかった。
説明もしない。
ただ、兄が読み終えるのを待っていた。
どれほど時間が経ったのだろうか。
やがて、レオナルドは最後の文字から目を離した。
そして、リリアーナを見つめた。
「わかったよ、ありがとう」
それだけ告げて、踵を返した。
リリアーナは、その後ろ姿に深く頭を下げた。
レオナルドは振り返らず、部屋を後にした。
扉が閉じられる。
鍵の掛かる音が響いた。
リリアーナは、ゆっくりと顔を上げた。
そして、壁へ向き直る。
右手には、まだスプーンが握られていた。
壁に刻んだ文字へ、その先端を当てる。
ガリッ。
今度は、文字を消すために。
刻んだ溝の周囲を丁寧に削り、文字の形が分からなくなるまで均していく。
一文字ずつ。
一行ずつ。
誰の名前も、誰との関係も、残さないように。
壁から床へ。
床から別の壁へ。
リリアーナは、時間を掛けて文字を消し続けた。
兄には、もう伝えた。
ならば、ここに残しておく必要はない。
ガリッ。
ガリッ。
静かな牢獄に、再びスプーンの音だけが響き始めた。
お読み頂き、ありがとうございます。




