第一話 母数が増えれば確率は下がる
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
久しぶりに、穏やかな時間を過ごしていた。
窓から差し込む日差しは暖かく、庭園からは鳥のさえずりが聞こえてくる。
目の前には、サリナが淹れてくれた紅茶と焼き菓子。
こうして何も考えずに過ごせる時間が、どれほど貴重なものなのか。
この数年間で、私は嫌というほど思い知らされた。
「……平和ね」
「左様でございますね」
私の呟きに、サリナが微笑みながら答えた。
「ようやく落ち着けた気がするわ」
「はい。リリアーナ様もすっかりお元気になられて、安心いたしました」
「心配かけてごめんなさい」
「いいえ。こうしてお元気なお姿を拝見できるだけで、十分でございます」
私は紅茶を一口飲んだ。
あの毒殺未遂事件から、しばらくの時間が経っている。
体調はすっかり回復し、以前のように日常生活を送れるようになった。
事件に関する裁判も終わり、関係者にはそれぞれの罪に応じた処分が下されている。
もちろん、すべてが明らかになったわけではない。
けれど、証拠のない疑惑を追いかけ続けたところで、できることには限りがある。
少なくとも、私が今すぐ何かをしなければならない状況ではなくなった。
ありがたいことだ。
「ですが、少々残念でもございます」
「……残念?」
サリナの言葉に、私は顔を上げた。
「何が?」
「幼児返りなさっていたリリアーナ様は、それはもうお可愛らしかったですから」
「…………」
私は静かに紅茶を置いた。
「……サリナ?」
「はい?」
「今、何て言った?」
「幼児返りなさっていたリリアーナ様は、お可愛らしかったと申し上げました」
「聞こえてたわよ」
「それは何よりでございます」
サリナは涼しい顔をしている。
……この子、分かっていて言ってるわね。
「少し甘えたのは認めるけど、幼児返りは言い過ぎじゃない?」
「そうでございましょうか?」
「そうよ」
「では、私の手を離してくださらなかったことも?」
「…………」
「お休みになる際、そばにいてほしいとおっしゃったことも?」
「……サリナ」
「目を覚まされた際、私の姿が見えないと不安そうになさっていたことも?」
「もういいから」
「かしこまりました」
ようやく終わった。
そう思ったのだけれど。
「一生の思い出にいたします」
「忘れなさいよ」
「それはできかねます」
「……侍女として、主君の命令に従う気はないの?」
「申し訳ございません。ですが、こちらばかりは」
サリナは口元に手を添え、楽しそうに笑った。
私はため息をついた。
……まったく。
あのときは、本当に怖かったのだ。
意識を取り戻した直後は、自分がどうして生きているのかさえ、すぐには理解できなかった。
また意識を失うのではないか。
次に目を閉じたら、もう目覚めないのではないか。
そんな考えが頭から離れず、誰かがそばにいてくれるだけで安心できた。
だからといって、いつまでもからかわれるのは困る。
「……あんまり人には話さないでね」
「もちろんでございます」
「本当?」
「はい。私だけの大切な思い出でございますので」
……そう言われると、怒りにくいじゃない。
私は小さく笑い、焼き菓子を一つ手に取った。
「それにしても、随分と余裕が出てきたわね、サリナ」
「リリアーナ様がお元気になられたおかげでございます」
「そう」
あの事件では、サリナにも随分と心配をかけた。
私が倒れていた間、どんな思いで過ごしていたのか。
詳しく聞いたことはないけれど、想像くらいはできる。
だから、こうして冗談を言い合えることが嬉しかった。
「……ありがとう、サリナ」
「何がでございましょう?」
「色々と、ね」
サリナは一瞬だけ目を細め、それからいつもの笑顔に戻った。
「どういたしまして」
私は焼き菓子を口へ運んだ。
程よい甘さが広がる。
ああ、美味しい。
できれば、こんな日々がずっと続いてほしいものだ。
……もっとも、王宮にいる限り、そう簡単にはいかないのだろうけれど。
そんなことを考えていると、扉を叩く音が聞こえた。
「リリアーナ様、ミハイルでございます」
「どうぞ」
「失礼いたします」
入ってきたミハイルは、いつものように丁寧に一礼した。
「陛下より、お呼び出しがございます」
「……お父様から?」
「はい。王位継承権をお持ちの皆様に、お集まりいただきたいとのことでございます」
私は手にしていた焼き菓子を皿へ戻した。
「全員?」
「左様でございます」
「用件は?」
「詳細は伺っておりません」
「そう……」
全員を招集するということは、何か重要な決定があるのだろう。
国政に関する話か、王位継承に関する話か。
いずれにしても、あまり歓迎したくない。
「……せっかく落ち着いたと思ったのに」
「お茶はお戻りになってから、改めてご用意いたします」
サリナが微笑んだ。
「ええ、お願い」
私は立ち上がり、身なりを整えた。
「それじゃあ、行きましょうか」
◇
会議室には、既に兄姉たちが集まっていた。
「やあ、リリアーナ。調子はどうだい?」
レオナルドお兄様が、いつもの穏やかな笑顔で声をかけてくれた。
「おかげさまで、すっかり元気になりました」
「それはよかった。無理はしていないかい?」
「はい。今はゆっくり休ませてもらっています」
「そうか。それなら安心だね」
お兄様は満足そうに頷いた。
「顔色もよろしいようですね」
続いて、ヴィクトリアお姉様が声をかけてくださった。
「ありがとうございます。もう普段通りに生活できています」
「それでも、しばらくは慎重になさい。回復したからといって、無理をする必要はありません」
「はい、気をつけます」
「そうだな」
ユリウスお兄様も頷いた。
「何かあれば、すぐに知らせろ。遠慮する必要はない」
「ありがとうございます、お兄様」
……こうして改めて考えると、私は随分と恵まれている。
以前は、王位継承権を持つ兄姉たちと、ここまで親しくなるとは思っていなかった。
そもそも、積極的に関わろうともしていなかったのだけれど。
「リリアーナ、こちらへいらっしゃいな」
エレオノーラお姉様が、隣の席を示してくださった。
「はい、お姉様」
私はその隣へ腰を下ろした。
「ところで、今日は何の話なんでしょう?」
「お父様から、何も聞いていらっしゃらないの?」
「はい。全員を集めるとしか」
「そうですのね」
お姉様は少し考えるように目を伏せた。
「以前、お父様がおっしゃっていたことを覚えていらして?」
「以前……?」
私は記憶を辿った。
お父様が以前おっしゃっていたこと。
色々とあるけれど、王位継承権に関する話だったかしら。
……ああ。
「もしかして、継承権を持つ人を増やすって話ですか?」
「ええ。その可能性はございますわね」
私は思わず顔を上げた。
それなら、悪い話ではない。
むしろ歓迎したいくらいだ。
王位継承者が増えれば、私一人に向けられる期待も、それだけ分散するかもしれない。
もちろん、単純に人数が増えればいいというものでもないだろうけれど。
少なくとも、選択肢が増えること自体は喜ばしい。
「……なるほど」
「リリアーナ?」
「いえ、何でもありません」
私は微笑んだ。
お姉様が、どこか呆れたような顔をした気がする。
……何も言っていないのに。
そのとき、会議室の扉が開いた。
入ってきたのは、若い男女二人だった。
女性は柔らかな笑顔を浮かべ、落ち着いた足取りで入室する。
男性はその少し後ろを歩いており、どこか緊張した様子だった。
私は二人を見つめた。
……誰だろう。
王宮で見かけたことがあるような気もするけれど、思い出せない。
少なくとも、親しく話した記憶はなかった。
私は隣のお姉様へ顔を寄せた。
「……お姉様」
「何ですの?」
「あの二人って、誰ですか?」
お姉様が、ゆっくりと私を見た。
「……リリアーナ」
「はい?」
「あの二人は、貴女の弟と妹ですわ」
「…………」
私は二人へ視線を戻した。
それから、もう一度お姉様を見た。
「……私の?」
「ええ」
「……そうでしたか」
なるほど。
弟と妹。
……うん。
これは少々、まずいわね。
「まさか、名前も覚えていらっしゃらないの?」
「…………」
「リリアーナ?」
「……ごめんなさい」
私は素直に頭を下げた。
お姉様が額に手を当てる。
「貴女という人は……」
「面目ありません」
言い訳をするなら、私はもともと王家の人間関係にあまり関心がなかった。
王位継承権も持っていなかったし、王宮を離れて過ごしていた時期も長い。
接点のない弟妹について、詳しく知る機会がなかったのだ。
……とはいえ、名前くらいは覚えておくべきだったわね。
以前、ユリウスお兄様の名前を思い出せなかったときにも、同じようなことを考えた気がする。
反省が生かされていない。
「もうすぐお父様が正式にお二人を紹介なさいますわ。今度こそ、きちんと覚えておきなさい」
「……はい」
お姉様は小さくため息をついた。
私は何事もなかったように姿勢を正した。
……今の会話が、本人たちに聞こえていないことを祈ろう。
やがて、お父様が宰相アルベルトを伴って入室した。
全員が立ち上がり、礼を取る。
「皆、座れ」
お父様の言葉に従い、私たちは席へ戻った。
「本日集まってもらったのは、王位継承権について、新たな決定を下したためだ」
私は静かに耳を傾けた。
「これまで、王位継承権を持つ者は五人だった。だが、今後の王国の在り方を考え、さらに二人へ継承権を授与することとした」
やっぱり。
私は内心で頷いた。
お父様は、先ほど入室した二人へ視線を向けた。
「第十一王女、シャルロッテ・プレイング。そなたに王位継承権第六位を授ける」
「謹んでお受けいたします」
「第九王子、テオドール・プレイング。そなたに王位継承権第七位を授ける」
「……謹んでお受けいたします」
「なお、既存の五人の順位に変更はない」
私はその名前を、心の中で繰り返した。
……よし。今度こそ覚えたわ。
つまり、私は第五位のまま。
そして、候補者が二人増える。
……いいじゃない。
王位を望む人が増えるなら、それに越したことはない。
「両名には、今後ほかの継承権者と同様に、王としての資質を示してもらう」
「謹んでお受けいたします」
新たに第六位となった妹は、優雅に頭を下げた。
その表情には、緊張よりも自信が感じられる。
一方、第七位となった弟は、少し間を置いてから答えた。
「……承知いたしました」
私は、わずかに首を傾げた。
随分と表情が硬い。
突然のことに戸惑っているのか、それとも別の理由があるのか。
少なくとも、嬉しそうには見えなかった。
「何だか、機嫌がよさそうだね」
不意にレオナルドお兄様から声をかけられた。
「……私ですか?」
「ほかに誰がいるんだい?」
お兄様は楽しそうに笑っている。
「新しい継承権者が増えて、嬉しいのかな?」
「はい。王国の将来を担う人が増えるのは、いいことだと思いますよ」
「なるほど。そういうことにしておこうか」
「……お兄様」
「ははは」
……絶対に分かってるわね。
私は小さくため息をついた。
隣では、エレオノーラお姉様が口元を押さえている。
笑うところではないと思うのだけれど。
その後、お父様から今後の方針について簡単な説明があり、会議は終了した。
少なくとも、今日この場で新しい仕事を命じられることはなかった。
私は内心で胸を撫で下ろした。
◇
会議室を出た私は、自室へ戻ろうとしていた。
サリナが用意してくれた紅茶と焼き菓子が待っている。
先ほどは途中で席を立ってしまったけれど、今度こそゆっくり楽しめそうだ。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、窓際に立つ一人の青年が目に入った。
先ほど、第七位の王位継承権を授けられた弟だった。
彼は窓の外を眺めながら、深いため息をついている。
「……はぁ」
私は足を止めた。
……どうしたのかしら。
王位継承権を授けられたことが、あまり嬉しくなかったように見えたけれど。
本人に聞くのは失礼かもしれない。
けれど、先ほどの様子が少し気になった。
私はしばらく迷った末、声をかけることにした。
「……ちょっといい?」
「……っ! リリアーナ姉上!」
弟は驚いたように振り返った。
「申し訳ございません。気づきませんでした」
「気にしないで。考え事してたんでしょ?」
「……はい」
「さっきから、あんまり元気がないように見えたから」
私は少し距離を置いて立ち止まった。
「何か気になることでもある?」
「……それは」
弟は言い淀んだ。
無理に聞き出すつもりはない。
そう思い、私は軽く微笑んだ。
「話しにくいことなら、無理に答えなくてもいいわよ」
「……いえ」
弟は首を振った。
それから、しばらく考え込んだ後、静かに口を開いた。
「姉上は、王位継承権を授けられたとき、どう思われましたか?」
「私?」
「はい」
私は少し考えた。
あのときは、ボーリング地方での任期を終え、ようやく王宮へ戻ってきたところだった。
これで仕事から解放される。
そう思っていた矢先に、王位継承権第五位を授けられたのだ。
……あまり嬉しくなかったわね。
「正直に言ってもいい?」
「もちろんです」
「……困ったわ」
「……え?」
「ようやく地方での仕事が終わったと思ったのに、今度は王位継承権でしょ? また何か任されるんじゃないかと思って」
弟は目を瞬かせた。
「……困られたのですか?」
「ええ」
「ですが、王位継承権を授けられるというのは、大変名誉なことで……」
「それは分かるわ。でも、名誉を与えられたからって、本人が喜ぶとは限らないでしょう?」
「…………」
弟は黙り込んだ。
私はその様子を見て、少しだけ首を傾げた。
「……もしかして、あなたも?」
弟は驚いたように顔を上げた。
「……姉上」
「違った?」
「……いえ」
彼は小さく首を振った。
そして、意を決したように口を開いた。
「私は、王になりたくありません」
私は思わず目を見開いた。
……なるほど。
そういうことだったのね。
「そう」
私は静かに頷いた。
「それなら、気が重くなるのも無理ないわね」
「……驚かれないのですか?」
「少しは驚いたわ。でも、王になりたくない人がいても不思議じゃないでしょう?」
弟は、信じられないものを見るような顔をした。
「……姉上は、そうお考えなのですか?」
「ええ。だって、私も王になりたくないもの」
「…………」
弟が固まった。
……あれ?
そんなに驚くことかしら。
「……姉上が?」
「ええ」
「……王に、なりたくない?」
「そうよ」
弟はしばらく私を見つめていた。
そして、困惑した表情で口を開いた。
「……申し訳ございません」
「何が?」
「どうしても、信じられません」
「……どうして?」
「姉上のこれまでのご功績を考えれば、王位を目指していないとは、とても……」
……ああ。
なるほど。
私は小さくため息をついた。
どうやら、この弟も私のことを随分と誤解しているらしい。
「功績と、王になりたいかどうかは別の話でしょう?」
「それは、そうかもしれませんが……」
「私は、必要だと思ったことをしてきただけよ。王位を目指してたわけじゃないから」
「……ですが」
弟は少し考え込んだ。
そして、真剣な表情で私を見つめた。
「姉上。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何?」
「これまでのご功績について、一つずつ確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「…………」
私は思わず弟を見つめた。
一つずつ。
……全部?
ボーリング地方から始まって、ピンポン地方、サーフィン地方、王位争い、領地経営。
そして、今回の事件まで。
随分と長い話になりそうだ。
「……それ、結構時間かかると思うわよ?」
「申し訳ございません。ですが、どうしても理解したいのです」
弟は真剣だった。
どうやら、単に私を疑っているわけではないらしい。
王になりたくないという私の言葉が、自分の抱えている悩みとどう結びつくのか。
それを確かめたいのだろう。
……仕方ないわね。
私は小さく笑った。
「分かったわ。でも、立ち話でするような内容じゃないでしょう?」
「……確かに、そうですね」
「よかったら、お茶でも飲みながら話さない? ちょうど焼き菓子もあるし」
「……よろしいのですか?」
「いいわよ。せっかくだしね」
弟は少しだけ表情を和らげた。
「ありがとうございます、姉上」
「気にしないで」
私は弟を伴い、自室へ向かって歩き始めた。
先ほどまで、顔も名前も思い出せなかった弟。
けれど、こうして話してみると、どうやら私と似た悩みを抱えているらしい。
……王位継承権を持つ人間が増えれば安心だと思っていたけれど。
まさか、同じように王になりたくない人が増えるとは思わなかったわ。
私は小さく苦笑した。
とりあえず、紅茶を飲みながら話を聞くことにしよう。
どうやら今日も、予定していた休息の時間は少し短くなりそうだった。
お読み頂き、ありがとうございます。




