75 その実験、始まる
何もない白い部屋でひとりの男の子が死んだように横たわっていた。
部屋と同じ白い服を着せられて虚ろな目で扉の方を眺める。
閉ざされた扉の向こうから数人の足音が微かに聞こえてくる。
足音が止まった数秒後、扉が横に開いた。扉の向こうには白衣姿の男性が立っている。
「次だ。来い」
情報だけの無機質な言葉に従って男の子はずるずると起き上がる。
扉の先も狂気的な白い空間が続いていた。
扉を出ると、白衣姿の男の他にも黒い服を着た男が二人いて連行されるような形で囲まれる。子供ならこの時点で涙目、最悪泣き出しているところだが、男の子は動じない。
白で埋め尽くされた空間のように彼の脳内には色がなかった。
仄かに漂う消毒液の臭いも周りにいる大人たちも彼の心を動かすことはできない。
これから自分の身に起こる事への恐怖も、理不尽に白い部屋に閉じ込められていた怒りもない。そんなものはここに連れてこられて三日で捨ててやった。
そうしなければ耐えられないと理解したから。
「ここで待て」
男の子が連れてこられたのは病院のような待合室だ。
そこには数人の白衣と黒服の男たちがいた。しかし、それ以上に彼と同じくらいの年齢の子供達がいる。白衣と黒服は忙しそうに分厚い書類を持って歩き回っている。対照的に子供達は大半は静かに横長のソファに腰掛けていた。静かにしているが、男の子のように感情まで消している者は少ない、少なくなった。
突然、ダンと何かが倒れる音がした。男の子は興味がないのでそちらを向くことはなかったが、声はどうしても耳に入ってしまう。
遠慮なく男の子の鼓膜を震わせて、どうでもいい情報を教える。
「大丈夫!? しっかりして! ……この子すごい熱だわ。早く治療をしてあげて!」
女の子の助けを求める声が聞こえてきた。
「そんなことはどうでもいい! インフェクト、早く来い!」
その女の子はひとりの白衣の男に乱暴に腕を掴まれる。
「きゃあ……!」
今度は彼女が倒れた音が部屋全体に通る。
「き、君、困るよ。そ、それは、貴重なサンプルなんだから。傷でもつけたら……」
気の弱そうな、縦に長い白衣の男がその場に駆け寄る。
「すみません、ノイマンさん。つい……」
女の子を転ばせた男はノイマンと呼んだ男に頭を下げる。死人のように青白い外見に似合わずかなり偉い人物のようだ。
「ほら、ワンセルフ! 君も来るんだ!」
喚くようにノイマンが男の子に叫ぶ。ワンセルフと呼ばれた彼はその命令に無感情に従う。
この施設では番号以外の固有名詞をもっている子供は貴重な人材だ。つまり、ワンセルフとインフェクトのことだ。しかし、あまり喜ばしいものではない。何しろこれは子供を使った人体実験で、ここでは番号で呼ばれる者も含めて文字通りの人材――人の形をした材料だからだ。
そして、英数字以外の名前を持つものは完成体候補となる。身を切るような実験でも運悪く死なずに生き延びて、非道な実験の材料として長く使用された者たちだ。
ワンセルフは黙ってノイマンに付いて行く。後ろから何人かの大人が付いてきている。恐らくワンセルフとインフェクトを逃さないようにするためだろう。
そんなことしなくても二人は逃げない。否、その建物内にいる子供達は逃げ道すら分からないから逃げようもない。
「さっきの子熱があるみたいなの。少しでも休ませてもらえないかしら?」
隣ではその後ろの大人にそんな場違いな懇願をしている女の子がいた。先程彼女があやしていた子供のことだろう。当然、大人はめんどくさそうに了承の返事をする。
インフェクトはその返事で安心したように笑うが、ワンセルフには分かっていた。熱を出したという子は助からない。ここでは常に子供の健康状態は管理されている。だからあれは普通の熱ではなく、実験の影響だろう。
その子は看病どころか熱の原因を解明するために使われて終わりだ。運が良ければ、解明している時に治るかもしれないが同じことだ。今度は予想された原因と治った方法を再現させられる。
何十何百と繰り返される。
ワンセルフはインフェクトから視線を戻して前を向く。
誰が何をしようが関係ない。誰がどうなろうと関係ない。
感情を断ち切って仕舞えば楽になる。
地獄は比較対象がなければ地獄となり得ない。
何かに希望を見出す明るい感情と実験によって生み出される暗い感情は比較できる。比較してしまう。そして誰もが暗い感情を嫌っていなくなるのだ。
ならば、それを取り除くことがここで生き抜くための最善の方法だ。
この建物で生きていく上での常識だ。……子供限定の、だが。
「あなた顔色が悪いわよ。具合でも悪いの?」
隣で女の子――インフェクトが内緒話をするようにワンセルフに耳打ちしてきた。
ちらりとワンセルフは彼女の方を見る。自分を含め他の子とは違って、まだ目に輝きを保っていた。無論、この状況を楽しんでいるわけではないだろう。言い方を変えるならまだ彼女は死んでいなかった。
その輝きはまだ感情が生きている証だろう。輝き云々の前に、目の前で心配そうに見つめてくる彼女を見れば一目瞭然だ。
しかし、その輝きはどうやら感染するみたいなので馬鹿にできない。数人の子は死にかけていた、あるいは死んでいた感情を蘇らせている。先程インフェクトと一緒にいた子もその一人だ。
泣くということは感情が息をしている証拠だ。
以前なら感情を殺せなかった者から消えていったのに、横にいる女の子はその常識を平気で覆している。
彼女はその状態で番号以外の固有名詞を持っているのに、何故身体も精神も死んでしまった子がいるのだろう。
――何のためにおれは感情を捨てたのだろう
「……おまえはなんで」
ワンセルフは思わず零した言葉を飲み込む。
どうしても言わずにはいられなかった何かをぐっと押しつぶす。
真っ白な感情に付いた小さな染みの正体に気付く前に目的地に到着したみたいだ。
「い、インフェクト、ワンセルフ、入れ」
慣れない大役を必死で努めているといった感じのノイマンに従って、ワンセルフは無表情で入室した。
横の女の子は不安そうな顔をしていて、部屋に入る。最後に白衣の男数名が入って、扉を閉めた。
いつもの物々しい器具だらけの部屋とは違った。ワンセルフの記憶が正しければ初めて入る部屋だ。
部屋には二つの奇妙な診察台が互いに離れた位置にあるだけだった。一方は半球型の機械に様々な配線が付いている。もう一方は人ひとり分の空間がある細長い丸型のガラスケースとなっていた。
「さあ、これを被るんだ」
ワンセルフは診察台の上に寝かされて中が空洞の半球型機械を頭に被らせられた。
「……? ……!? ああああぁぁぁ!?」
突然、頭蓋骨をへし折らんばかりの重圧と、脳を焼き切らんばかりの熱量が小さな頭蓋を襲う。
「やめて! 彼が苦しそう!」
インフェクトの悲痛の声もワンセルフの断末魔でかき消される。
ワンセルフは手足を固定されているため、のたうち回ることは出来ない。それでも痛みで身体中を暴れさせるが、固定具が無情な音を鳴らすだけで一向に外れない。
あまりの激痛に双眸を限界まで広げる。それでも光は半球型の機械に遮られてみることができない。
あるのはただひたすら暗闇のみ。
やがて意識は泡沫のように不確かなものとなり、叫びも呻き声に変わってやがてなくなる。
瞼は固く閉ざされる。
「……やった。やったぞ! さっそくイワノフさんに報告しなくては……! リップさん、やりましたよ!」
子供のようにはしゃぐノイマンは部屋を見回す。すると扉近くの壁際に出現した男は拍手で応える。
一面、白い部屋の染みのような黒ローブの男だ。目深にかぶったフードで素顔が見えない。
「コングラッチュレーション! だが、もう一人いるからな。そこんとこ忘れんなよ」
もう一人と言われたインフェクトは他の白衣の男に羽交い締めにされて宙に浮いた脚を懸命に振って抵抗をしている。
「いやぁ……! ワンセルフ! …………ワンセルフ!」
女の子は目に大粒の涙を零しながら必死で男の子に呼びかける。
しかし彼は動かない。
「わ、分かってますよ!」
ノイマンは慌ただしく次の実験に取り掛かっかた。棺のようなガラスケースにインフェクトを閉じ込めて、いくつもの配線をガラスの箱の外側に取り付ける。
リップと呼ばれた男はその様子を見ながら死んだように眠るワンセルフの側に立つ。そしてフードの奥にある暗闇のような眼で死んだように動かないワンセルフを見下ろす。
「良い時間を」
その男は乾いた声で楽しそうに告げる。




