容赦なし
翌朝――凡吉はいつも通りに早起きしていつものルーティンをこなしていく。
しかし、その日はある騒動が起きた。
凡吉が厨房で小麦粉を練っていると、小媛が食堂に駆け込んでくる。
「凡吉! 凡吉はいる⁉」
そのただならぬ様子に、凡吉は少し機敏な動作で手を止め、調理台越しに小媛に目を向ける。
「どうしたんですか、小媛さん?」
「お嬢様が大変な目に遭っているの! すぐに来てっ!」
そう聞いた瞬間――凡吉は王清の許可も取らずに厨房を飛び出し、小媛の後を付いて行く。
二人が向かった先は、山門に近い外門堂広場……その中央で、お嬢様こと龍華鈴が膝をついていた。
「大丈夫ですか、お嬢様っ⁉」
小媛が駆け寄って華鈴の介護をしていると、それを見下ろす形で複数の男達が下卑た笑みを浮かべていた。身に纏っている衣服からして、飄雲派の弟子達のようだ。
その中で特に体格の良い男――恐らく幹部であろう――が、腕を組んで華鈴を見下ろしながら言った。
「お嬢ちゃん、もう限界かぁ? やっぱり口だけってことかよ」
「馬鹿言うんじゃねぇよ、郭凱。こんな女一人が俺達飄雲派に挑むなんてありえねぇって……いくら、内門堂弟子入りの推薦を受けているとしてもよぉ」
「そうだぜ。むしろ、ここまで良く頑張ったって褒めてあげてぇぐらいだぜぇ。ギャハハハハ!」
「そうそう! でも、そろそろ終わりにしてやろうぜ、郭凱。どうせ、俺達には勝てっこねぇんだからさぁ……」
その会話を聞いて、凡吉は理解した。
今、目の前にいる男達こそが、凡吉が懸念していた郭凱とその一味だということに。
そして、彼らに華鈴が一方的に蹂躙されている光景を目にして、凡吉の中で怒りが沸き上がり、拳を強く握り締めた――この時、彼は心に誓ったのだ。絶対に華鈴を守り抜く、と。
一方で、郭凱は嘲るように華鈴に話しかける。
「どうだ、お嬢ちゃん。これが俺達飄雲派の実力なんだよ……だから、素直に降参すれば痛い目を見ないで済むぜぇ?」
華鈴は何も言わず、ただ拳を強く握りしめるだけだった。
しかし、その沈黙の裏には、彼女の燃え盛る闘志と、屈辱に耐える強靭な精神があった。
彼女は内心で、自らの不甲斐なさと郭凱たちの冷酷さに対して激しい憤りを感じながらも、再び立ち上がる決意を固めていた。
郭凱たちが高笑いし、周囲には敵意と侮蔑の空気が漂う中、華鈴はその圧力にも屈せず、新たな一手を考えていた。すると、そこで郭凱は突然、挑発的な提案を持ちかける。
「おい、お嬢ちゃん。今度はそっちから仕掛けてきてもいいぜ。ただし……お前が負けたら、この場でお前の服を全部脱ぎ捨ててもらうからなぁ!」
郭凱の嘲笑と、彼の取り巻き達の汚い笑い声が響く中、華鈴は膝をつきながらも毅然とした態度を崩さなかった。
だが、その挑発に乗るわけにはいかない――彼女は冷静さを保とうとしたが、怒りが心の中で渦巻き、血が湧き立つのを感じた。
(なんで、私がこんな連中に屈しなければならないの……?)
彼女は自問自答した。だが、その時――凡吉の怒りは頂点に達した。
するとその時、華鈴の傍に佇んでいた小媛が涙目になりながら叫ぶ。
「そんな要求、絶対に飲めません!」
それを聞いて、華鈴は小媛を庇うように身体を動かした――この時、凡吉の理性は完全に吹き飛んだ。
「お嬢様……」
「凡吉……なんでここに?」
華鈴は顔を上げて、凡吉の顔を見る。
その瞬間、彼女の中に宿っていた悔しさと怒りが急速に冷え、代わりに不思議な安心感と温もりが心を満たしていくのを感じた。凡吉は無表情で言う。
「お嬢様が危険だと聞きました……」
「ありがとう……でも、あいつらは……」
華鈴は周囲を取り囲む飄雲派の男達を見渡す。
しかし、彼女のその目には以前のような恐怖はなく、むしろ希望の光が輝いている。
凡吉は静かに頷くと、拳を再び強く握りしめる。そして、彼は自分の誓いを胸に刻みながら、今後の展開に備えた。
そのやり取りを聞いた郭凱達は、凡吉を挑発するような言葉を吐く。
「おい、そこのチビ。貴様、誰に向かってその口を利いてやがる? ああん?」
「あ。お前、凡吉だろ? 玉修門の使用人の」
「まさか、お前みたいな下郎がこのお嬢様の彼氏なのかい⁉」
「ギャハハ! マジかよ。確かに、似合いだぜっ!」
「おい、凡吉。お前がこのお嬢様の彼氏だっていうなら、お前が戦うか?」
「もっとも、俺達には勝てっこねェだろうがなァ……」
「おいおい、さっきの威勢はどうしたんだよォ……」
「何も言い返せねェってことは、ビビってんじゃねェのかァ?」
――その瞬間、郭凱の後ろにいた数人の男達が外門まで吹き飛ばされた。それを見た郭凱達は驚愕する。
「――おい……今、何が起こったんだ……?」
「わ、分からねぇよ……」
男達は口々に疑問を口にするが、誰も答えられない。一方、郭凱はその異常な事態を前にして、額に汗を浮かべながら言った。
「てめェ……一体何しやがった……?」
凡吉は無表情で答える。
「ここは玉修門です。女性への態度を改めて下さい」
――瞬間、凡吉は獲得した『神祇』の効果を発動し、郭凱以外の飄雲派の弟子達も外門へ吹き飛ばす。一部は、そのまま山道の階段から転げ落ちていった。瞬く間に仲間達が倒された光景を見て、郭凱は呆然とする。
「ば、馬鹿な……こんなことが……あり得るはずがない……!」
彼は必死に否定しようとするが、その言葉は虚しく響くばかりだった。
一方、凡吉は冷酷な眼差しで郭凱を見据えたまま、ゆっくりと近づいていく。
(まさか、これほどの力を持っているとは……)
郭凱は内心で焦り始める。
このままでは自分も同じように倒されてしまうかもしれない……その恐怖が彼の全身を駆け巡り、冷や汗が止まらない。彼は必死に考えるが、逃げる手段は見当たらないようだった。
やがて凡吉が目前まで近づいてくると、遂に観念したかのように肩を落とす。
「待って、凡吉」
そこで凡吉に声をかけてきたのは、華鈴だった。彼女は話を続ける。
「郭凱を殺せば、天雲門と玉修門の戦争になる。見逃してあげなさい」
凡吉は郭凱を見据えたまま黙り込み、やがて口を開く。
「お嬢様があのように仰っています……どうされますか?」
「……くっ!」
郭凱は凡吉の言葉を聞いて、踵を返した。そして、吹き飛ばされた仲間達と共に玉修門を後にするのだった。それを見届けた凡吉は、華鈴に向き直って謝罪する。
「すみません、お嬢様。遅れました……」
しかし、華鈴は首を横に振ると微笑みながら言った。
「いいのよ、凡吉。あなたが来てくれただけで十分嬉しいわ」
そう言って、彼女は凡吉に感謝の気持ちを伝える。彼女の優しさに触れた凡吉は少し照れ臭くなりながらも笑顔を見せた。一方、小媛は泣きながら二人の元へ駆け寄ってきた。
「ごめんなさい、お嬢様! 私、何もできなくて……」
「気にしないで、小媛。あなたもよくやってくれたわ」
華鈴はそう言って小媛を慰める。そんな彼女達のやり取りを見ていると、凡吉は心が温かくなるのを感じた。
その時、外門堂から王曼玲堂主が護法達を引き連れて駆け寄ってくるのが見えた。彼女達の手には、剣が握られている。そして、周囲をチラチラと見た後、凡吉に対して彼女が問いかけた。
「飄雲派が襲撃してきたと聞いたのだけど…どこにいるの?」
「たった今、お帰りになりました」
「は?」
凡吉の言葉が受け止めきれなかったのか、曼玲堂主は間抜けな声を出す。そこで小媛が補足した。
「飄雲派がここまで来たのは本当です。現に、お嬢様が奴らに難癖をつけられ、襲われました。
そこでお嬢様が凡吉を呼んでくるように仰られたので、私はそのようにして……奴らは、凡吉が一人で撃退しました」
「撃退したっ⁉ 相手は郭凱とその取り巻きでしょ? 一番弱い奴でも練体境五段――あ、なるほど」
どうやら合点がいったようで、曼玲堂主は頷いて凡吉を見る。
「凡吉。よくやったわ。ただ、この件は外門堂主として門主に報告しなくちゃいけないから、あなたも来てくれる?」
「はい」
そして、曼玲堂主は護法達を外門堂に戻した後、凡吉と共に玉修門・本殿へと向かった。暫く歩いてから、曼玲堂主は歩きながら凡吉に問いかけた。
「ねぇ、凡吉。どうやって飄雲派を追い払ったの?」
「……なんとなく……」
「……ふふっ、そう…」
凡吉の答えを聞いて、彼女は何かを察したように微笑む。そのまま二人は本殿へと続く石畳の道を歩いて行った。
「失礼します、門主」
曼玲堂主はそう言って二人の護法が守る本殿の中に入り、凡吉もそれに続いた。
そして二人とも、椅子に座っていた門主の楊精華の前で拱手する。
曼玲堂主が簡単に事情を説明すると、精華門主は凡吉の方を向いて尋ねた。
「凡吉、一つだけ質問したいのだけど……」
「はい、門主」
凡吉が応えると、精華門主は質問した。
「あなたが飄雲派の男共を追い払ったというのは本当?」
「はい」
精華門主は凡吉の答えを聞くと、大きく頷いた。そして、続けて聞いた。
「どのような方法で追い払ったの?」
「それは……」
凡吉は言葉に詰まる……何故ならば、自分が使ったのは玉修門にはない功法と、この世には存在しないであろう権能だったからだ。下手に回答すれば、その事がバレてしまいかねない。
だが、ここで嘘をつく訳にもいかないと思い、結局正直に話すことに決めた。
「……殴りました」
「ほう……殴っただけで…いいわ。よくやったわ、凡吉」
「ありがとうございます」
凡吉は恐縮しながら答える。すると精華門主が続けた。
「しかし、相手が練体境の高段者達だというのに随分と余裕があったようね?」
「いえ、それは……」
凡吉は慌てて弁明しようとするが、うまく言葉が出ない。すると精華門主はニヤリと笑いながら言った。
「冗談よ。あなたは練体境円満……郭凱が情報通りの男なら、あなたは彼とも渡り合える……下っ端を倒すことが出来るのも納得だわ」
「……」
凡吉は何も言えずに俯いた。すると精華門主は更に続ける。
「とにかく、よくやったわ。これからも励みなさい」
「ありがとうございます…」
そう答えてから、凡吉と曼玲堂主は退出した。
※
――その後、曼玲堂主は凡吉を厨房に帰した後、精華門主といつの間にか来ていた長老達の前に再び姿を現した。その際、精華門主は曼玲堂主に尋ねる。
「曼玲堂主。あなたから見て、どう思いますか?」
「門主。凡吉は間違いなく逸材です。ですが……」
「なんでしょう?」
精華門主が怪訝な顔をすると、曼玲堂主は少し悩んだ後に答えた。
「彼は……何か隠しています」
「ふむ……」
曼玲堂主の言葉を聞き、精華門主は考え込む。そして、曼玲堂主に確認するように聞いた。
「もし彼が玉修門に危害を加えるような人物であればどうします?」
「処罰するべきでしょう」
曼玲堂主の答えを聞き、精華門主は大きく頷く。
「では、この件については追々考えるとして、今は様子を見ましょう」
「分かりました」
そして、精華門主は長老達に尋ねる。
「皆の意見は如何かです?」
「我等も同様に考えております」
「左様ですな」
長老達が同意を示すと、精華門主は曼玲堂主に向けて命令を出した。
「では、引き続き彼が使用人として働いている間は外門堂主として監視をお願いいたします。もちろん、暗堂の者達と共に。
内門堂での修練は、天璃堂主が監視を引き継いでください」
『承知いたしました』
こうして、この日の会合は終わった。
その後、曼玲堂主は本殿を出て自室に戻る途中で玉修門の太上長老であり凡吉の母親でもある艶香蘭に出会った。すると彼女は曼玲堂主に尋ねてくる。
「曼玲。凡吉についてどのような話をしていたの?」
「……実は……」
曼玲堂主は躊躇しながらも、先程のやり取りについて説明した。すると艶香蘭は納得したような表情で言った。
「成程……そういう事だったの……では、凡吉については私もよく見ておくようにするわ」
「よろしいのですか?」
「もちろん。私の息子だもの」
艶香蘭がそう言って微笑むと、曼玲堂主もつられて笑顔になった。
こうして、凡吉に対する監視体制は整うことになったのであった。
※
その頃、凡吉は厨房に戻ると王清達に事情を説明し、いつもの雑務に戻っていた。そんな折、華鈴と小媛が厨房へ入ってきた。
「凡吉。ちょっといい?」
華鈴がそう言って凡吉に話しかけると、王清は彼に仕事を一旦辞めてもらい、厨房を出させた。
その後、三人は本殿に行く前に凡吉が寝泊まりしていた小屋の中に入っていく。
「凡吉。さっきはありがとう」
「あ、どうも……」
華鈴にお礼を言われた凡吉は照れ臭そうに答える。すると、小媛がおずおずと言った感じで尋ねてきた。
「あのぅ、凡吉……本当に大丈夫なの?」
「え?」凡吉が聞き返すと、小媛は続ける。
「だって、飄雲派に喧嘩売ったようなものでしょう? 報復に来るんじゃないかなって思って……」
「ああ……たぶん、大丈夫です」
「ど、どうしてそう言い切れるの⁉」
小媛は驚いて声を上げる。だが、凡吉は淡々と答えた。
「分かりません……」
「……」
その言葉を聞いて、小媛は黙ってしまった。その沈黙が気まずかったのか、華鈴が早口気味に言う。
「とにかく、気を付けるのよ。最悪、父上に直訴して皇室に匿ってもらうから」
「ありがとうございます……」
華鈴に向かってお辞儀して、凡吉と華鈴達との会話は終わった。




