第2話
(落ち着け。諦めるにはまだ早い)
沈みかけた心を立て直す。
原作で死ぬからといって、必ず死ぬと決まったわけじゃない。
いや、そんな理不尽な法則は、俺がぶち壊してやる。
正直、しぶとさには自信がある。
修羅場なら、社会人時代に嫌というほどくぐってきた。
冷静に考えれば、こいつらの嫌がらせくらい、どうということはない。
押し潰されそうな業務量。時代錯誤な上司の説教。建前だらけの人間関係。
そんな環境で鍛えられた社会人のメンタルが、この程度で崩れてたまるか。
「おい、まだ埃が残ってるぞ。もう一度拭き直せ」
金髪の少年が、俺の顔めがけて雑巾を投げつけてきた。
嘲るように笑い、あからさまに俺を見下している。
俺は黙って雑巾を拾い上げ、口の端を吊り上げて尋ねた。
「お前、名前は何だったかな」
少年は呆れたように頭をかいた。
そして再び鼻で笑うと、鼻先が触れそうな距離まで詰め寄ってきた。
「名門マヘンクルス家の嫡男、カイ・マヘンクルスだ。誰かさんとは生まれが違うんでね。少しは思い出したか?」
自信に満ちたカイの顔には、誇りすら滲んでいた。
俺はその目をまっすぐ見返し、にっこりと笑ってみせた。
次の瞬間、俺は汚れた雑巾をカイの顔面に叩きつけた。
「うわあっ! 何しやがる――! このイカれ野郎が!」
そのまま顔を何度かごしごしとこすってやると、奴は奇声を上げて雑巾を叩き落とした。
「汚れを拭けって言うから拭いてやったんだけど、何か問題でも?」
もしや俺が見落とした重要人物かとも思ったが、やはりゲームのストーリーには名前すら出てこない、典型的なやられ役だ。
(噛みつく相手くらい選べよ)
これでも一応、序盤の黒幕ポジションなんだぞ。
こんなことでプライドを保とうとするのも我ながら情けないが、それでも三下のチンピラに好き放題やられるのは御免だ。
だったら、わざわざ我慢してやる必要もない。
「貴様……! こんな真似をして、ただで済むと思って――」
「だから何だよ。校則を舐めてるのは、どう見てもお前のほうだろ」
「はっ、そんな形だけの校則、誰が守るかよ」
奴は一瞬うろたえたが、すぐに凄んで押し切ろうとしてきた。
俺がわざとらしく鼻で笑うと、カイの額に青筋が浮かぶ。
「今、笑ったな……? 何がおかしい……」
頭に血が上りきったのか、カイは俺の胸倉を掴んできた。
俺はその目をまっすぐ見据えて言った。
「その言い分が風紀委員や教師にも通じると思うか? ……まあ、第一条をただのお題目だと思ってるお前には分からないか」
俺の言葉に、奴は押し黙った。
テルブヘンス・アカデミー。
『ロナテイル機甲戦記』序盤の舞台となる場所だ。
帝国軍の戦力となる人材を育てるために設立された、帝国唯一のガーディアン養成機関。
貴族と平民の区別なく入学を認めるという、身分制社会では異例の方針を掲げている。
そして、その校則第一条はこうだ。
「ガーディアンの前に、身分の上下も貴賤もなし」
この条項に違反した者は、事情のいかんを問わず退学。
さらに、ガーディアンの搭乗資格も永久に剥奪される。
貴族にとって、ガーディアンの搭乗資格を失うことは個人だけの問題では済まない。
ガーディアンに乗れることは、貴族たる者の資質とまで見なされているからだ。
とりわけ嫡男がその資格を剥奪されれば、家の威信は地に落ちる。場合によっては、没落に直結しかねない。
だからこそ、陰で何をしようと、この条項だけは誰も公然と破ろうとはしない。
「そういやお前、俺が平民だからって、ずっと雑用を押しつけてたよな。生徒同士で一方的に雑用を強いるのも校則違反だ。挙げ句、逆上して胸倉まで掴んでる。これ、風紀委員にどう説明するつもりだ?」
「アルト、貴様、貴様ぁ……!」
(もちろん、俺にとっても退学は致命的だ)
雑巾を擦りつけたのは事実だ。表沙汰になれば、俺にも何らかの処分は下るだろう。
力も、金も、コネもない平民がアカデミーを追われれば、それこそ後がない。
だが、そんな事情をこいつが知るはずもない。
奴から見れば、俺の退学など、一介の平民がアカデミーから消えるだけの話だ。
だが、こいつが失うのは、名門マヘンクルス家の未来だ。
どう考えても、天秤は釣り合わない。
「なあ、一つ忠告してやる。喧嘩を売るなら、自分で尻拭いできる範囲にしとけよ。加減も知らずに暴れて、家名まで潰すなよ」
周りの連中が慌ててカイを引き剥がし、その場はしばらく騒ぎになった。
奴の取り巻きたちも、騒ぎを大きくすればカイのほうが失うものが大きいと分かっているのだろう。
横目で睨みつけるだけで、まともな反論一つできずにいた。
(『ロナテイル機甲戦記』も、こういうところだけは気が利いている)
だが、問題はここからだ。
あんなのでも一応は貴族だ。必ず報復を仕掛けてくるだろう。
それなのに、今の俺には何の力もない。
平民出身で、コネどころか、アカデミー内で腹を割って話せる友人すらいない。
当然、金欠まで初期設定に含まれている。
どう見ても詰んでいる状況だが、俺にはそれをすべて帳消しにできる大きな武器が一つある。
この先の展開を、すべて知っているということだ。
未来知識は、使い方次第で価値が大きく変わる。
だが、その点なら心配はいらない。
なにせ俺は、筋金入りの効率厨だったからな。
こうなった以上、使えるものは骨の髄までしゃぶってやる。
(それにしても、実際に見ると本当にでかいな)
寮を出ると、見渡す限りアカデミーの敷地が広がっていた。
ゲーム内で何度も目にした背景イラストそのままの光景に、柄にもなく鼻の奥がつんとした。
(しっかりしろ)
焦って動けば、解ける問題まで解けなくなる。
余計な心配はせず、今の自分にできることをやる。
そうすれば、物事は必ずいい方向に転がっていくものだ。
そうして俺は、周囲をきょろきょろと見回しながら、講義棟を探して歩き出した。
――にしても、ここは広すぎるんじゃないか。
歩いても歩いても端が見えず、俺は困り果てて頭をかいた。
授業を受けるには講義棟に行かなければならないのに、どこに何があるのか、さっぱり分からない。
いや、これだけの広さなら、普通は案内図や標識くらいあるべきだろう。
意気込んで出発したものの、案内板一つない不親切さに、呆れるしかなかった。
そうしてため息ばかりついていると、横から誰かが肩をとんとんと叩いてきた。
「おや、テラニウス君じゃないか」
振り向くと、紳士然とした中年の男が立っていた。
確かにどこかで見た覚えがあるのに、名前が出てこない。
見覚えがあるということは、モブではないはずだが……。
「あの、その……失礼ですが、お名前を……」
「いや、気にすることはない。学期が始まったばかりだ。教員全員の顔と名前を覚えきれていなくても無理はない。ガーディアン史を担当しているゼン・エルドマンだ」
名前を聞いた瞬間、記憶が一気に蘇った。
ゼン・エルドマン。
一見するとただの温厚な教授にしか見えないが、その裏では恐ろしい企みを巡らせていた人物。
原作のアルト・テラニウスの弱みにつけ込み、巧みな言葉で魔族と接触するよう仕向け、最後には狂気に染めた張本人だ。
一つだけ確かなことがある。
こいつは、極めて危険だ。
原作のアルトが序盤で使い捨てられる小悪党だったのに対し、ゼン・エルドマンは、原作の主人公を窮地にまで追い込んだ序盤最大の黒幕なのだから。
「すぐに思い出せず、失礼しました。エルドマン先生」
「はは、構わんよ。こんなことで頭を下げる必要はない。それより、そろそろ授業が始まる時間だが、こんなところで何をしていたんだね」
その瞬間、ある考えが閃いた。
「実は、少し悩んでいることがありまして……」
「ほう。大切な教え子が困っているのに、見て見ぬふりをするわけにはいくまい。よければ話してみなさい」
「ご存じかもしれませんが、僕は平民出身です。実は最近、貴族の同級生と少し揉めてしまって……。この先もここでやっていけるのか、自信がなくなってきました」
落ち込んだふりをしながら言うと、エルドマンは慰めの言葉をかけ、俺の肩を叩いた。
「それはさぞ辛かっただろう。君の気持ちはよく分かるとも。これからは、授業が終わったあと、時々私の研究室に寄りなさい。大した力にはなれんかもしれんが、いつでも相談に乗るとも」
いかにも人のよさそうな笑みを浮かべ、穏やかにそう告げた。
その言葉に、背筋がすっと冷えた。
何も知らない者なら、温かな慰めの言葉としか受け取らないだろう。
だが、俺は知っている。
あの言葉が、善意から出たものではないことを。
(慰めだと? 笑わせる。こいつは魔族と通じた狂人だ)
これこそがゼン・エルドマンのやり口だった。
心の弱った生徒を見つけては近づき、救いの手を差し伸べるふりをする。
そうして生徒を魔気で蝕み、自分の手駒へと変えていく。それがこいつの正体だ。
「ありがとうございます、先生。そう言っていただけるだけでも救われます」
「もちろん、本心から言っているとも。いつでも訪ねてきなさい。このままでは授業に遅れるぞ。さあ、急ぎなさい」
あの食えない古狸が俺に近づくための口実を、こちらから与えてしまったのは後味が悪い。
だが、どうせいつかは向き合わねばならない相手だった。
ある人物に近づくためには、ゼン・エルドマンとの接触は避けて通れない。
今頃こいつは、俺をどうやって手駒に仕立てようかと算段しているのだろう。
だが、せいぜい都合のいい夢でも見ていればいい。
利用されるのは――お前のほうなんだからな。
* * *
「ガーディアンとは、製造法が失われた太古の遺物です。いつ、どこで、誰が造ったのか。それらを示す記録は何一つ残されていません。しかしガーディアンは、悠久の歳月を経て多くの者の手に受け継がれ、さまざまな目的に用いられてきました」
ゼン・エルドマンは、真剣な面持ちで講義を続けていた。
途中で一人の生徒から、「なぜガーディアンは世界に数百機しかなく、量産もできないのですか」と質問が飛ぶと、彼はどこか悲しげな顔で答えた。
「これまで数え切れないほどの者が、ガーディアンの再現に生涯を捧げてきました。その過程で命を落とした者も、決して少なくありません。しかし、その願いが叶うことはなかった。残念ながら、現在アカデミーで使用されている訓練用機体でさえ、本物のガーディアンの一割の性能にも届かないというのが現実なのです」
その瞬間、講義の内容がある記憶と結びついた。
現時点では、誰もガーディアンを造ることができない。
ならば――
その事実が何を意味するのか考えるほど、鼓動が速くなっていく。
「結局のところ、製造法は今も謎に包まれたままです。誰一人としてそれを突き止められなかったからこそ、ガーディアンの数は限られ、その保有数がそのまま国家の軍事力を左右するようになりました。ああ、そうですね。もし誰かがガーディアンを造るための素材と、その製造法を突き止めたとしたら……」
顔を上げ、エルドマンを見つめた。
彼は大げさに煽ることもなく、淡々と言葉を続けた。
「その人物こそが、世界の覇権を握ることになるのかもしれませんね」
俺は深くうつむき、片手で口元を覆った。
そうでもしなければ、感情が顔に出てしまいそうだった。
ゲームをやっていた頃、「廃人の証」と呼ばれていたコンテンツが一つあった。
生半可な気持ちで手を出しても、三日ともたずに音を上げる。初心者なら、存在を知ってもまず近づこうとしない代物だった。
それが――カスタムガーディアン。
ゲーム内で支給される機体ではなく、同じものが世界に二つとない、自分だけのガーディアン。
素材の調達から製造まで、攻略情報に頼ることなく、すべて自分の手で成し遂げなければならない。
完成させるのは事実上不可能とまで言われた、超高難度のやり込みコンテンツだ。
そして俺は、そのカスタム機を完成させていた。
それも、一機や二機ではない。十機もだ。




