第7話 悪夢の理由
第7話 悪夢の理由
台所へ向かうと、そこにはヴィレンが座っていた。
ミリエルはすぐに彼のもとへ歩み寄り、軽く抱きしめてから向かいの席に腰を下ろした。
「おはようございます、ヴィレンおじ様。こんなに早くいらっしゃるとは思いませんでした。私たちももっと早く来るつもりだったのですが、アデルがなかなか起きなくて……」
ヴィレンはちらりとアデルの部屋の方を見た。
そして、穏やかな声で言う。
「気にしなくていい、ミリエル。だが、その前に一つ言わせてもらおう」
彼の目が細くなる。
「どうやら、この家には招かれざる客がいるようだ」
「え……?」
ミリエルが目を見開く。
ヴィレンは片手をアデルの部屋へ向けた。
そして、低く呪文を唱える。
「【光の檻よ、我が敵を捕らえよ】」
その瞬間、ヴィレンの前に光でできた小さな檻が現れた。
檻は矢のような速さでアデルの部屋へ飛び込み、次の瞬間には再び台所へ戻ってくる。
その中には、小さな生き物が閉じ込められていた。
見た目は、たしかに妖精に似ていた。
だが普通の妖精とは違う。
小さな体。
薄い羽。
そして――目の代わりに、まるで縫いつけられたようなボタンがあった。
アデルは思わず目を見開いた。
(うわ……妖精っぽいけど、何だこれ。目がボタン? 人形みたいで、ちょっと不気味だな)
檻の中の妖精は、隅に体を寄せて震えていた。
ヴィレンは、その小さな生き物を冷たい目で見下ろす。
「さて。こんにちは、招かれざる客よ」
彼の声から、先ほどまでの柔らかさは消えていた。
「よくもこの家に入り込んだものだな。悪夢の妖精め。妖精の森から追放された忌まわしい存在が」
ヴィレンは檻をつかみ、テーブルの上へ置いた。
そのまま、さらに別の呪文を唱えようとする。
だが、その前にアデルがゆっくりとテーブルへ近づいた。
ヴィレンは手を止める。
「どうした、アデル。この魔物が気になるのか?」
アデルは檻の中をじっと見つめた。
妖精は、自分が殺されると思っているのだろう。
小さな体を縮め、羽を震わせている。
その姿を見ていると、なぜか少しだけ胸が痛んだ。
(危ないやつなのかもしれない。でも……怯え方が、本当に小動物みたいだ)
アデルは顔を上げ、ヴィレンを見た。
「おじいちゃん」
「ん?」
「この子、飼ってもいい?」
台所の空気が止まった。
ヴィレンは目を瞬かせる。
ミリエルも言葉を失っていた。
「……何だって?」
「だから、この子を置いておきたいんだ」
アデルはもう一度言った。
ヴィレンは困ったように眉を寄せる。
「駄目だ」
答えは即答だった。
「この生き物は危険だ。悪夢の妖精は、人の心に入り込み、精神に傷を与える。お前のような子どものそばに置くべきものではない」
そこでヴィレンは、ふとため息をついた。
「……と言っても、まだ子どもであるお前に、悪夢の妖精がどれほど危険かを説明しても難しいか」
アデルはむっとする。
(中身は二十一歳だったんだけどな。いや、もうこの世界で六十年生きてるから……俺、何歳扱いなんだ?)
そんなことを考えている間に、ヴィレンは手を横へ振った。
空間が黒く歪む。
まるで闇の穴が開いたようだった。
ヴィレンはその中へ手を入れ、小さな首輪を取り出した。
「アデル。こうしよう」
彼は首輪を指先でつまんで見せる。
「私がこの妖精に首輪をつける。その後、お前の血を一滴、この首輪に落としなさい」
アデルの顔がぱっと明るくなった。
だが、ミリエルの表情はまったく逆だった。
彼女はすぐにヴィレンのそばへ近づき、声を潜めて言う。
「ヴィレンおじ様、本気ですか? この子のそばに、あんな危険なものを置くなんて。私は許せません」
ヴィレンは落ち着いた様子で、首輪をミリエルの目の前へ差し出した。
「心配するな、ミリエル。これが見えるだろう?」
彼は軽く首輪を揺らす。
「これは【服従の首輪】だ。魔物に装着すれば、主に危害を加えることはおろか、害そうと考えることすらできなくなる」
それでも、ミリエルは納得しきれていないようだった。
当然だ。
母親として、息子のそばに危険な魔物を置きたいはずがない。
だが、そのときアデルが口を開いた。
「お願い、母さん」
彼はミリエルを見上げ、できるだけ悲しそうな顔を作る。
「この子を置いてもいいでしょう? 僕、友達がいないんだ。ちゃんと面倒を見るよ。おじいちゃんも、この首輪があれば危なくないって言ってるし」
ミリエルは言葉に詰まった。
その目で見つめられると、彼女は弱い。
とても弱い。
「……はあ」
しばらくして、ミリエルは大きくため息をついた。
「分かったわ。分かりました。あなたの負け……じゃなくて、ママの負けね」
アデルの顔が輝く。
だが、次の瞬間。
台所の空気が、すっと冷たくなった。
ミリエルの背後に、黒い影のような気配が立ちのぼる。
「ただし」
彼女の声は、恐ろしいほど静かだった。
「もしその妖精が、あなたに少しでも危害を加えようとしたら……」
ミリエルはゆっくりとヴィレンへ視線を向ける。
「妖精だけではなく、別の誰かもひどい目に遭うかもしれませんね」
ヴィレンは露骨に視線をそらした。
そして、何も聞こえていないふりをするように、小さく口笛を吹き始めた。
「……ふ、ふむ。では始めようか。アデル、こちらへ来なさい」
アデルは素直に近づき、小さな手を差し出した。
ヴィレンは小さなナイフを取り出し、アデルの指先に浅い傷をつける。
ちくりとした痛みが走った。
血が一滴、指先に浮かぶ。
ヴィレンはその血を首輪へ落とした。
すると首輪が淡く光る。
「よし」
ヴィレンは檻を開け、悪夢の妖精を取り出した。
もちろん、妖精は必死に抵抗した。
だが――ミリエルの冷たい視線が向けられた瞬間、ぴたりと動きを止めた。
(母さん、怖っ)
アデルは思わずそう思った。
ヴィレンは妖精の首に首輪をはめる。
首輪はすぐに縮み、小さな体にぴったり合う大きさへ変わった。
その瞬間。
アデルの頭の中に、甲高い声が響いた。
(待ってなさいよ……この忌々しい首輪から解放されたら、あんたたち全員に悪夢を見せてやる。二度と目覚められないくらい、ひどい悪夢を……!)
アデルは目を瞬かせた。
(……今の声、この子か?)
彼は妖精を見つめる。
妖精は何も言っていない。
だが、その小さな体から伝わってくる敵意は本物だった。
どうやら、首輪によって声が頭の中に届くようになったらしい。
アデルはゆっくりと妖精へ近づいた。
そして、にっこり笑う。
「そんなこと、僕が許すと思う?」
妖精の体がびくりと震えた。
アデルは顔を近づけ、彼女にだけ聞こえるように囁く。
「もし君が、僕の大切な人たちに危害を加えようとしたら……その瞬間、迷わず君の小さな首をへし折る」
妖精のボタンの目が、かすかに揺れたように見えた。
「分かった?」
妖精はがたがたと震え始めた。
小さな羽が、完全に怯えきった音を立てている。
ヴィレンはその様子を見て、首をかしげた。
「アデル、何を言ったんだ?」
彼は半泣きになりかけている妖精を見つめる。
「このままだと、その妖精は恐怖で漏らしそうだぞ」
ヴィレンはゆっくりと髭を撫でた。
そして、次の瞬間。
「はっはっはっ! 見事だ、アデル!」
彼の目が輝く。
「お前は生まれながらの魔物使いかもしれんな!」
ヴィレンの胸に、妙な誇らしさが込み上げていた。
(小さいながら、すでに魔物を恐怖で震え上がらせるとは。はっはっは、これぞ我が未来の弟子にふさわしい!)
彼の頭の中では、すでに未来のアデルが次々と魔物を討ち倒し、偉業を成し、そして偉大なる師である自分を称える姿が広がっていた。
ヴィレンの顔に、なんとも言えない気味の悪い笑みが浮かぶ。
ミリエルはそれを見て、眉をひそめた。
「こほん」
彼女はわざと咳払いをした。
ヴィレンははっと我に返る。
そして、すぐに真面目な顔を作った。
「……さて、アデル。こちらへ来なさい。お前に渡したいものがある」
再び、ヴィレンのそばに黒い穴が開く。
彼はその中へ手を入れ、古びた一冊の本を取り出した。
それは、ひどく年季の入った本だった。
表紙は傷だらけで、ところどころ擦り切れている。
そして何より――臭かった。
かなり臭かった。
ヴィレンはその本をアデルへ差し出す。
「これは魔物について書かれた本だ。名を【ベスティアリ】という。この世界に生息する魔物について、知り得る限りの情報が記されている」
アデルは本を見つめた。
(うわ、すごい古そう……そして臭い)
ヴィレンは構わず続ける。
「ただし、私にも読めない奇妙な文字で書かれた箇所がある。それから、この世界に住む種族についての記述もある」
本から漂う匂いに顔をしかめながらも、アデルはそれを受け取った。
ずしりと重い。
(魔物図鑑みたいなものか。これはかなり役に立ちそうだ)
その瞬間、ヴィレンがアデルの手をつかんだ。
「アデル」
声が急に重くなる。
「この本で得た知識を、決して悪用してはならない」
ヴィレンは顔を近づける。
その目は真剣だった。
「もし、お前がこの知識を邪悪なことに使えば、女神マイラは必ずお前を罰するだろう」
アデルは少し身を引いた。
「わ、分かったよ、おじいちゃん……」
ヴィレンの手に力が入る。
「本当に分かったな?」
「分かったってば……あの、手、痛い」
アデルがそう言うと、ヴィレンは自分が強く握りすぎていることに気づいた。
「おおっ、すまん、すまん!」
彼は慌てて手を離した。
「何をしているのだ、私は。すまない、アデル。痛くするつもりはなかったんだ」
ヴィレンの顔には、不安が浮かんでいた。
幼い頃、アデルに嫌われていると思っていた記憶がよみがえったのだろう。
だが、アデルは怒らなかった。
むしろ、穏やかに笑った。
「大丈夫だよ、おじいちゃん。わざとじゃないって分かってるから」
そして、彼はヴィレンへ近づき、小さく抱きついた。
その温かさに、ヴィレンは目を細める。
「……そうか」
彼はほっとしたように息を吐いた。
「ありがとう、アデル」
その様子を見ていたミリエルは、少しだけ微笑んだ。
だが、すぐに何かを思い出したようにアデルの方へ歩いてくる。
「さあ、アデル。あなたは新しいお友達と一緒に、少し外で遊んでいらっしゃい」
「え?」
ミリエルは悪夢の妖精をアデルの手に押しつけた。
「ママはヴィレンおじ様と、大事なお話があります」
そう言うなり、彼女はアデルを玄関の外へと送り出した。
ぱたん。
扉が閉まる。
アデルは、手の中の妖精を見下ろした。
妖精はまだ震えている。
(大事な話……?)
アデルは扉を見つめた。
(俺に聞かせられない話ってことか)
好奇心がむくむくと湧き上がる。
(これは……聞くしかないよな)
彼は口元に、悪そうな笑みを浮かべた。
そして、ゆっくりと手の中の妖精へ視線を落とす。
(ちょうどいい。ここに、潜入任務に向いてそうなやつがいるじゃないか)
妖精はアデルの笑みを見た瞬間、さらに小さく震えた。
アデルはにっこりと笑う。
「ねえ。君にお願いがあるんだけど」
妖精は、心底嫌そうに首を横へ振った。
だが、アデルの笑顔はさらに深くなった。
「大丈夫。簡単な仕事だよ」
彼は家の窓を指さした。
「中の話を、ちょっと聞いてきてくれればいいだけだから」
妖精は涙目でアデルを見上げた。
(この主、絶対に危ない……)
そう思っているのが、声に出さなくても分かった。
アデルは楽しそうに笑った。
「さあ、行っておいで。僕の新しい友達」
悪夢の妖精は、小さく震えながら、しぶしぶ羽を動かした。
第七話 終




