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やり直し:エルフの王  作者: Ritch_Richie
第一章

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第6話 地球へ帰った日

第6話 地球へ帰った日


六十年という時が、瞬く間に過ぎた。


明日はアデルの誕生日。


そして同時に、彼がこの家で過ごす最後の日でもあった。


ヴィレンとの約束。

六十歳になったら、アデルを弟子として竜の山へ連れていく。


その約束が、ついに果たされる日が来てしまったのだ。


ミリエルは、どうしても息子を手放したくなかった。


彼女の目には、アデルはまだ小さな子どもにしか見えない。


いや、実際にエルフの感覚で言えば、彼はまだ幼い子どもだった。


その夜。


アデルとミリエルは、台所で向かい合って座っていた。


遅い夕食の時間だった。


「アデル、明日はあなたの誕生日ね。何か欲しいものはある?」


ミリエルは優しく尋ねた。


その視線の先で、アデルは目の前の料理を見つめていた。


皿の上には、いつものように野菜と果物が並んでいる。


アデルはフォークでトマトをつつきながら、心の中で深くため息をついた。


(何が欲しいかって? 肉だよ、肉。肉料理が食べたい。もう野菜と果物だけの生活は限界なんだよ……)


だが、そんなことを口に出すわけにはいかなかった。


エルフは基本的に菜食を好む。

少なくとも、ミリエルの前で「肉が食べたい」と言う勇気は、アデルにはまだなかった。


アデルは小さく笑って、ミリエルを見た。


「分からないよ。母さんがくれるものなら、どんなものでも嬉しいから」


その言葉を聞いた瞬間、ミリエルの表情が柔らかく崩れた。


「アデル……あなたは本当にいい子ね」


彼女は立ち上がり、アデルをそっと抱きしめた。


温かい。


優しい。


だからこそ、胸が少し痛かった。


「さあ、もう遅いわ。早く食べて、今日はもう寝なさい。明日は早いんだから」


ミリエルはそう言って、少しだけ寂しそうに微笑んだ。


「本当は、一時間前には寝ていないといけなかったのよ?」


そう言い残して、彼女は自分の寝室へ向かった。


アデルはその背中を見送った。


(これが、母さんと過ごす最後の夜か)


彼は皿の上のトマトを見つめる。


(もっと長く続けばよかったのに)


だが、時間は待ってくれない。


アデルは食事を終えると、汚れた食器を洗い、自分の部屋へ戻った。


彼が四十歳になった頃、アデルはミリエルに自分の部屋が欲しいと頼んだ。


「もう大きいから、母さんと同じベッドで寝るのは悪い」


そう言ったのだ。


もちろん、ミリエルは最初なかなか認めなかった。


それでもアデルは、毎晩のように頼み続けた。


そして九日目。


ついにミリエルは折れた。


それ以来、アデルは一人で眠るようになった。


ベッドに横になると、彼は天井を見つめた。


(結局、俺の運命については何も教えてもらえなかったな)


エルフは、自分に定められた運命を知らされない。


理由は単純だ。


もし、自分が将来何になるのかを知ってしまえば、人は怠けるかもしれない。

あるいは、逆に運命に逆らおうとするかもしれない。


たとえば予見者に、


「あなたは将来、王になる」


そう告げられた者がいたとする。


その者が、


「どうせ俺は王になるんだ。なら努力なんて必要ない」


と考えたらどうなるか。


そんな愚かで怠け者の王を、いったい誰が望むだろう。


だからこそ、アデルには知らされなかった。


彼がいつか王になる運命を背負っていることを。


もちろん、このときのアデルは、まだ何も知らない。


(まったく、何のための儀式だったんだよ。未来を見るだけ見て、本人には教えないって……意味あるのか?)


答えは出ない。


考えているうちに、眠気が少しずつ意識を沈めていった。


そして翌朝。


アデルがこの家を出る日が来た。


ミリエルは、アデルよりも早く起きた。


息子の誕生日を祝うために、彼女は台所で朝食の準備を始める。


アデルが好きそうな料理を並べ、食卓を整え、そして一つの箱を用意した。


贈り物。


まだ開けられていないその箱は、食卓の端で静かに出番を待っていた。


準備を終えると、ミリエルはアデルの部屋へ向かった。


扉を開け、眠っている息子へ優しく声をかける。


「アデル、起きる時間よ。今日は誰かさんの誕生日なんだから」


彼女は満面の笑みを浮かべていた。


だが、アデルは起きない。


寝返りを打つだけで、目を開ける気配がなかった。


「ほら、アデル。起きて。今日は早く起きないと。こんな日にいつまでも寝ていたら……」


そこで、ミリエルは言葉を止めた。


(悲しい日)


心の中に、そんな言葉が浮かぶ。


だが彼女は、すぐにそれを押し込めた。


「……素敵な日なのだから」


涙をこらえながら、ミリエルはアデルの寝顔を見つめた。


その頃、アデルは夢を見ていた。


そこは、懐かしい部屋だった。


地球で生きていた頃の、自分の部屋。


(……え?)


アデル――いや、夢の中のアンドレイは、部屋を見回した。


(俺の昔の部屋? どういうことだ?)


机。

ベッド。

パソコン。

散らかった服。

壁に貼られたゲームのポスター。


すべてが、地球にいた頃のままだった。


そのとき、部屋の扉が開いた。


入ってきたのは、親友のグリシャだった。


「おい、アンドレイ。まだベッドの中かよ。大学行くぞ。忘れたのか? 今日は試験だぞ。昨日だって遅刻したばっかりだろ」


アンドレイは言葉を失った。


「グ、グリシャ……? 本当に、お前なのか?」


声が震える。


グリシャは眉をひそめた。


「お前、大丈夫か? また夜通しパソコンで遊んでたんだろ。いい加減にしろよ。頭、完全に寝てるぞ」


彼は自分のこめかみに指を当て、くるくると回してみせた。


アンドレイはベッドから飛び起きた。


「パソコンどころじゃないだろ!」


彼はグリシャの肩をつかんだ。


「俺は死んだんだぞ! 屋上から落ちて、死んだんだ! ゲームオーバーだったんだよ!」


だがグリシャは、しばらくきょとんとしたあと、腹を抱えて笑い出した。


「はははは! 何言ってんだよ、お前。死んだ? お前、どう見ても生きてるじゃねえか」


その笑い声が、部屋に響く。


その直後。


部屋に、もう一人が入ってきた。


アンドレイの母。


マリーナだった。


彼女の姿を見た瞬間、アンドレイの目から涙がこぼれた。


(嘘だ)


胸が震える。


(母さん……母さんだ。本当に母さんだ。でも俺は死んだはずだ。エルフに生まれ変わったはずだ。まさか、全部夢だったのか?)


混乱するアンドレイのもとへ、マリーナが歩いてくる。


そして。


ぱしん。


軽く頭を叩いた。


「まったく、この子は。また夜中までパソコンで遊んでたんでしょう? 涙まで出るほど寝ぼけるなんて」


怒った声だった。


けれど、アンドレイは少しも腹が立たなかった。


むしろ、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。


彼は母に抱きついた。


「母さん……」


強く、強く抱きしめた。


もう二度と離したくなかった。


マリーナは最初、驚いて何か言おうとした。


だが、息子の体が震えていることに気づき、何も言わず抱き返した。


「どうしたの、アンドリューシャ。叩かれたのがそんなに嫌だった?」


彼女は優しく頭を撫でる。


「ごめんね。ちょっと怒りすぎたわ。ほら、台所へ行きましょう。あなたの好きなペリメニを作っておいたの。お肉多め、皮は少なめ。いつものやつよ」


部屋の隅で笑っていたグリシャも、さすがに黙った。


(あいつ、相当リアルな悪夢でも見たのか……俺、ずっと笑ってたけど、悪いことしたな)


彼は少しだけ気まずそうに目をそらした。


アンドレイは母に抱きついたまま、心の中で願った。


(たとえこれが夢でもいい。頼む。もう少しだけ続いてくれ)


マリーナは、彼を台所へ連れていった。


「ほら、アンドリューシャ。もう台所よ。座って、朝ご飯を食べなさい」


彼女はアンドレイを自分から離そうとする。


だが、アンドレイは離れようとしなかった。


「母さん……本当に母さんなんだよな?」


涙に濡れた顔で、彼は母を見上げた。


「もう二度と会えないと思ってた」


マリーナは、その顔を見ると、また優しく頭を撫でた。


「私はここにいるでしょう? 大丈夫。どこにも行かないわ。いつもみたいに、あなたが大学から帰ってくるのを家で待ってる」


その声は、どこまでも優しかった。


アンドレイは鼻をすすった。


「本当?」


「本当よ」


「どこにも消えない? 約束してくれる?」


「ええ、約束するわ。だから、まずは朝ご飯を食べなさい。冷めちゃうわよ」


マリーナは食卓を指さした。


アンドレイは最後にもう一度だけ母を抱きしめ、それからようやく椅子に座った。


その様子を見ていたグリシャは、目元を押さえそうになった。


(うわ……俺、こいつがこんなに母親のことを大切に思ってたなんて知らなかった。家に帰ったら、俺も母さんを抱きしめようかな)


そのとき、マリーナがグリシャに目を向けた。


「あなたは何を突っ立ってるの? 朝ご飯、食べてないんでしょう? 早く座りなさい」


彼女はもう一枚の皿を取り出し、ペリメニを山盛りにした。


グリシャは逆らえず、食卓についた。


食事を終えたあと。


アンドレイは着替えを済ませ、玄関へ向かった。


そして、振り返る。


「母さん、ちょっと来て」


「なあに、私の子?」


マリーナが近づく。


その言葉が終わる前に、アンドレイは彼女を抱きしめていた。


「愛してる、母さん」


彼は、今まで言えなかった言葉を口にした。


「今まで言わなくて、ごめん」


マリーナは一瞬だけ目を見開いた。


それから、静かに息子を抱き返す。


「私も愛しているわ」


しばらくして、マリーナは少し照れたように笑い、アンドレイを離した。


「はい、もう十分。早く大学へ行きなさい。本当に遅刻するわよ」


アンドレイは頷き、家を出た。


外では、グリシャが待っていた。


二人は無言のまま、停留所へ向かう。


停留所には、ちょうどバスが来ていた。


二人は後ろの席に座る。


しばらく沈黙が続いたあと、グリシャが口を開いた。


「なあ、どうしたんだよ。今日は妙に元気ないぞ」


親友なりに心配しているらしい。


アンドレイは窓の外を見たまま答えた。


「何でもない。気にするな」


「本当か?」


「ああ。大学まで、少し黙って乗ってよう。いいか?」


「……分かった」


だが、その直後。


バスが急に止まった。


「何だ?」


グリシャが席から立ち上がる。


運転手が悪態をつきながら外へ出て、タイヤを確認した。


「ちくしょう、タイヤがパンクしてる!」


アンドレイは小さく息を吐いた。


「グリシャ、ここで降りよう。歩いた方が早い」


二人はバスを降り、大学へ向かって歩き出した。


やがて校舎が見えてくる。


「今、何時だ? 遅刻してないか?」


アンドレイが尋ねる。


グリシャはスマホを見て、首を振った。


「大丈夫だ。間に合ってる。俺はこっちだから行くな。お前も……あんまり落ち込むなよ。全部うまくいくって」


そう言って、グリシャは自分の教室へ向かった。


アンドレイはその背中を見送った。


(心配するなよ、友よ。俺は大丈夫だ)


けれど、胸の中には違和感が残っていた。


(でも、本当に全部夢だったのか? 死んだことも、エルフに生まれ変わったことも、ミリエルのことも……)


彼は首を振った。


(考えても仕方ない。今は試験だ)


アンドレイは廊下を進み、自分の教室を探した。


ようやく見つけると、扉をノックする。


コン、コン。


中から声が返ってきた。


「はい、どうぞ」


アンドレイは扉を開けた。


「すみません、スミルノフ教授。ステパノフ・アンドレイです」


教授は顔を上げる。


「ほう。これはこれは、いつも遅刻するステパノフ君じゃないか。今日はずいぶん早いな。第一講義から来るとは」


その皮肉に、教室の学生たちが笑った。


アンドレイは逃げなかった。


教授の目をまっすぐ見て言う。


「大学へ来る途中で、バスのタイヤがパンクしました。正直に言います。今回は、本当に早く来るつもりでした」


スミルノフ教授は少し驚いたように目を細めた。


(ほう。いつものように言い訳を並べると思ったが……今日は妙に堂々としているな)


教授はアンドレイの前まで歩いてくると、肩に手を置いた。


「信じよう、ステパノフ。席に着きなさい。もうすぐ試験を始める」


そして、笑っていた学生たちへ鋭い声を飛ばした。


「君たちは何を笑っている。静かにしろ」


アンドレイは軽く頭を下げた。


「ありがとうございます、教授。見ていてください。俺は変わります」


そう言って、彼は一番前の席に座った。


やがて、教授の助手が教室に入ってきた。


手には試験用紙の束を抱えている。


「教授、用紙を持ってきました」


「よろしい。全員に配ってくれ」


助手は学生たちへ用紙を配り、後ろの席へ座った。


カンニングを見張るためだ。


アンドレイは目の前の試験用紙を見下ろした。


そして、最初の問題を見て眉をひそめる。


そこには、こう書かれていた。


あなたの母親の名前は何ですか。


(……何だ、この馬鹿みたいな問題)


彼は少し呆れながらも、答えを書いた。


マリーナ


それが、母の名前だった。


試験は二時間で終わった。


助手が用紙を回収し、学生たちは教室から出ていく。


アンドレイは人混みに入るのが嫌で、最後まで席に残っていた。


やがて、ほとんどの学生が出ていった頃。


彼も立ち上がり、教室を出ようとした。


そのとき、教授の声が彼を呼び止めた。


「ステパノフ、少し待ちなさい」


アンドレイは振り返る。


「はい、教授。何か問題がありましたか?」


教授は彼の答案用紙を手にしていた。


「この“マリーナ”とは誰だ?」


アンドレイは一瞬、意味が分からなかった。


(誰って……俺の母さんだろ)


「俺の母です」


そう答えると、教授の顔が厳しくなった。


「違う」


「……え?」


「私は知っている。君の母親の名前は、そんな名前ではない」


アンドレイの胸がざわついた。


「どういう意味ですか。じゃあ、教授は俺の母の名前を何だと思っているんですか?」


彼は苛立ち、思わず教授の机を拳で叩いた。


バンッ。


教授の怒鳴り声が響いた。


「机を叩くな! 机には何の罪もない! 問題なのは、自分の母親の名前すら知らない君の頭だ!」


アンドレイは息を呑む。


教授は冷たい声で言った。


「君の母親の名は、ミリエルだ」


その瞬間。


世界が止まった。


(ミリエル……?)


アンドレイの手が震え始める。


(俺は……忘れていたのか?)


胸の奥が、急激に冷たくなる。


(俺を抱きしめてくれた母さん。幸せにすると誓った母さん。その名前を……俺は忘れていたのか?)


「どうして……」


声が震えた。


「どうして俺は、母さんの名前を忘れたんだ……!」


アンドレイは叫んだ。


「どうして、俺はミリエルの名前を忘れたんだ!」


スミルノフ教授はゆっくり立ち上がり、アンドレイへ近づいた。


その顔には、どこか人間らしくない冷たさが浮かんでいた。


「自分の母の名を忘れる者に、生きる資格などない」


その言葉の直後。


アンドレイは、体の中を温かいものが流れ落ちていく感覚を覚えた。


(何だ……?)


視線を落とす。


血だった。


赤い血が、自分の体を伝って床へ落ちている。


アンドレイはめまいを覚え、その場に崩れ落ちた。


最後に頭に残ったのは、たった一つの思いだった。


(どうして……俺は母さんの名前を忘れたんだ)


「どうして、俺は母さんの名前を忘れたんだ!」


アデルは叫びながら、ベッドの上で跳ね起きた。


手を伸ばしたまま、荒い息を吐く。


その瞬間、背中に温かい手が触れた。


振り返ると、そこにはミリエルがいた。


彼女はすぐにアデルを抱きしめた。


「悪い夢を見たのね、アデル」


優しい声だった。


その声を聞いた瞬間、アデルの目から涙が溢れた。


「ごめんなさい、母さん……ごめんなさい……」


彼は震えながら、ミリエルにしがみついた。


「夢の中で、俺は母さんのことを忘れていた。母さんの名前を……忘れていたんだ」


涙が、ミリエルの腕を濡らす。


ミリエルはさらに強くアデルを抱きしめた。


「大丈夫よ。ただの夢。ねえ、見て。あなたは今、私のことを覚えているでしょう?」


「……うん」


「なら大丈夫。私はここにいるわ」


その声に包まれているうちに、アデルの震えは少しずつ収まっていった。


ミリエルは彼の背中を撫で続ける。


やがてアデルが落ち着いたのを確認すると、彼女はそっと体を離した。


そして、いつもの優しい笑顔を浮かべる。


「さあ、アデル。起きましょう。今日はあなたの誕生日よ。忘れていないでしょう?」


アデルは涙を拭いた。


「忘れてないよ、母さん」


彼は着替えを済ませ、ミリエルと一緒に台所へ向かった。


そして、そこで待っていたのは――


ヴィレンだった。


第六話 終

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