第5話 長い成長
第5話 長い成長
エルフが長命な種族であることは、アデルもすでに理解していた。
聞いたところによれば、エルフの平均寿命はおよそ八百年。
中には千年近く生きる者もいるらしい。
そのせいか、エルフたちは人間のように急いで子を増やそうとはしない。
五十組の夫婦がいたとしても、新しく生まれるエルフの赤子は、せいぜい二人か三人。
さらに、エルフは成長も遅い。
エルフの子が完全に大人として扱われるのは、二百歳を迎えてからだという。
人間にとっての十年が、エルフにとっては一年ほどの感覚。
そう考えれば、彼らの時間の流れがどれほどゆっくりしているか分かる。
一方、竜はさらに長い時を生きる。
平均寿命は五千年ほど。
現在の予見者であるヴィレンは、まだ二千歳に過ぎない。
竜として見れば、老いきった存在ではないはずだった。
だが、人生の道を示す儀式には代償がある。
それは、生命力。
つまり、その者が本来生きられるはずだった時間そのものだ。
アデルの儀式は、ヴィレンに残されていた生命力のほとんどを奪ってしまった。
それから三年が過ぎた。
とはいえ、アデルはまだ歩けなかった。
エルフの成長速度で見れば、彼は人間の三か月ほどの赤子と変わらなかったからだ。
(ああああ……くそ。誰が知ってるんだよ。赤ん坊生活がここまで退屈だなんて)
アデルはベッドの上で、天井を見つめながら心の中で嘆いた。
(座ることもできない。歩くこともできない。一日中寝転がってるだけ。俺は何の修行をさせられているんだ?)
そんなアデルの不満など知るはずもなく、ミリエルは幸せそうだった。
彼女にとって、我が子が何の病もなく、少しずつ育っていくことは何よりの喜びだった。
赤子の手が少し動く。
目が少し長く開く。
小さな声を出す。
それだけで、ミリエルは一日中でも微笑んでいられた。
そんなある日。
家の扉が叩かれた。
コン、コン。
「はいはい、今開けます。どちら様ですか?」
ミリエルが扉へ向かいながら尋ねる。
外から、かすれた声が返ってきた。
「私だよ、ミリエル」
その声を聞いた瞬間、ミリエルは目を見開いた。
「ヴィレンおじ様!」
彼女は急いで扉を開け、老人の姿をした竜を家の中へ招き入れた。
「こんにちは、ミリエル。アデルはどうだい? 元気にしているか?」
ヴィレンは杖をつきながら家へ入り、真っ先に赤子の様子を気にした。
「心配しないでください、ヴィレンおじ様。アデルは元気です。私がずっと見ていますから」
ミリエルは穏やかに微笑み、ヴィレンの手を取って台所へ案内した。
「それより、おじ様こそ……お身体は大丈夫なのですか?」
椅子に座らせながら、ミリエルは不安そうに彼を見つめた。
ヴィレンの顔には深い皺が刻まれ、手には杖が握られている。
以前よりも明らかに弱って見えた。
「ほっほっほ。私のことなら心配いらんよ」
ヴィレンは笑った。
「まだ死ぬつもりはない。ごほっ、ごほっ……」
咳き込む彼を見て、ミリエルの表情が曇る。
「ごめんなさい、ヴィレンおじ様。これは全部、私が急ぎすぎたせいで……」
彼女は視線を落とした。
だが、ヴィレンはそっと彼女の手を握る。
「ミリエル。お前が何を考えているかは分かっている。だが、これはお前のせいではない」
「でも……」
「いいや」
ヴィレンは静かに首を振った。
「たとえアデルが成人の日に儀式を受けていたとしても、結果は同じだっただろう」
ミリエルが何か言おうとしたが、ヴィレンはそれを手で制した。
「アデルの年齢は関係ない。ただ、あの子の運命が重すぎたのだ」
その声には、恐れが混じっていた。
ミリエルは息を呑んだ。
運命の話をするだけで、竜であるヴィレンの手が震えている。
それほどまでに、アデルの未来は重いのか。
「女神マイラでさえ、私があの子の運命に耐えきれないことを理解しておられた」
ヴィレンはうつむいた。
その表情には、深い悔しさが浮かんでいた。
「私は、最後まで見ることができなかった。予見者でありながら……あの子の道を見届ける力が足りなかった」
「ヴィレンおじ様……」
ミリエルは胸が締めつけられる思いだった。
「分かりました。でも、それでも私は、あなたにどう恩を返せばいいのか……」
ヴィレンは穏やかに笑った。
「お前が私に返すべきものなど何もない。あれは私の役目だった。儀式で起こったことの責任は、すべて私にある」
その声は弱々しかったが、不思議と揺るぎないものだった。
「さあ、もうこの話は終わりにしよう。私は今日、そのために来たのではない」
ミリエルは小さく頷いた。
もちろん、心の底から納得できたわけではない。
彼女の中の罪悪感は、きっと簡単には消えないだろう。
それでも、ヴィレンが話題を変えようとしていることは分かった。
「では、今日はどのようなご用件で?」
ミリエルが尋ねると、ヴィレンは杖の先で木の床を軽く叩いた。
コツン。
そして、まっすぐ彼女を見た。
「私は、アデルを弟子に取りたい」
ミリエルの目が大きく見開かれる。
「アデルを……弟子に?」
「ああ」
「ですが、ヴィレンおじ様。アデルはまだ三歳です。いくら何でも、学ぶには早すぎます」
「今すぐではない」
ヴィレンは苦笑した。
「私が言っているのは、あの子が六十歳になったときの話だ。その時が来たら、アデルを私とともに竜の山へ連れていきたい」
「六十歳に……なったら」
ミリエルは、その言葉をゆっくりと繰り返した。
エルフにとって六十歳は、まだ幼い。
だが、人間の感覚で言えば、すでに子どもと呼ぶには十分すぎる時間が過ぎている。
ヴィレンは静かに続けた。
「ミリエル。私がそうしたいのは、アルヴィンへの恩があるからだ」
その名を聞いた瞬間、ミリエルの表情が揺れた。
「アルヴィンがいなければ、この世界は残っていなかった。彼は命を懸けて我らを救った。ならば私は、その子に自分の知識を託したい」
ヴィレンはまっすぐにミリエルを見つめる。
「アデルは重い運命を背負っている。ならば、ただ母の腕の中で守られているだけでは足りない。学ばねばならない。知識を。魔法を。世界を。そして、自分自身の力の使い方を」
ミリエルは何も言えなかった。
心では、アデルを手放したくなかった。
彼はまだ小さい。
彼女にとっては、いつまでも自分の腕の中にいる赤子だった。
けれど、母である彼女にも分かっていた。
アデルの運命は、彼女一人の願いだけで閉じ込められるものではない。
十分ほど、ミリエルは黙って考え続けた。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「分かりました」
その声は静かだった。
「アデルが六十歳になったら、あなたに預けます」
ヴィレンの顔がぱっと明るくなる。
だが、ミリエルはすぐに条件を加えた。
「ただし、約束してください。アデルには月に一度、必ず私へ手紙を書かせてください。竜の山でどのように暮らしているのか。何を学んでいるのか。ちゃんと教えてほしいのです」
ヴィレンは嬉しそうに頷いた。
「もちろんだ。アデルが自由に手紙を出せるよう、私が保証しよう。必要なら、会いに来ることもできる」
彼の口元には、抑えきれない笑みが浮かんでいた。
(ついに……新しい弟子だ)
ヴィレンの胸の奥に、久しく忘れていた熱が灯る。
(ようやく、私が長い生涯で積み重ねてきた知識を託せる。アルヴィンの子に。あの英雄の息子に)
かつて、彼の唯一の弟子はアルヴィンだった。
その息子を弟子にできる。
ヴィレンにとって、それはただの教育ではなかった。
失われたものを、未来へつなぐ行為だった。
一方その頃。
当の本人であるアデルは、寝室のベッドで寝転がっていた。
(母さん、遅いな……)
彼は天井を見つめながら、小さく身じろぎする。
(この三年間、母さんはほとんど俺から離れなかったのに。何かあったのか?)
そして、ふと気づく。
(……それと、たぶん俺、汚したな)
赤ん坊の体というものは、実に不便だった。
そのとき、部屋の扉が開いた。
ミリエルが入ってくる。
その後ろには、杖をついたヴィレンの姿があった。
「おお、なんて可愛らしい子だ。父親そっくりだな」
ヴィレンはアデルに近づき、その顔を覗き込んだ。
(あ、このじいさん)
アデルはすぐに思い出した。
(あの儀式のときの竜じいさんじゃないか。何しに来たんだ?)
「本当にそうでしょう、ヴィレンおじ様」
ミリエルはアデルを抱き上げ、愛おしそうに頬ずりした。
「この子を見るたび、アルヴィンのことを思い出します」
(おじ様?)
アデルは内心で首をかしげた。
(このじいさん、母さんの親戚なのか?)
彼はヴィレンをじっと観察する。
白い髭。
深い皺。
杖。
今にも倒れそうな老人の姿。
(じいちゃんって言われたら納得できる。でも、おじ様? ちょっと年を取りすぎじゃないか?)
ヴィレンはアデルに手を伸ばした。
どうやら抱っこしたいらしい。
だが、アデルの顔には明らかな拒絶が浮かんでいた。
(おいおい、触るなよ。俺は忘れてないからな。お前、俺を裸のまま大勢のエルフの前に掲げただろ)
ヴィレンはその表情を見て、手を止めた。
そして面白そうに笑い出す。
「ほっほっほ。ミリエル、見てごらん。この子はどうやら、私のことが気に入らないらしい」
「まあ。知らない人に触られるのが嫌なのね、アデル」
ヴィレンはわざとらしく優しい声を作った。
「おやおや、誰かな? 知らない人が苦手な可愛い子は」
ミリエルは少し申し訳なさそうに言う。
「ごめんなさい、ヴィレンおじ様。最近この子は、ほとんど私しか見ていないんです。きっとそのせいで、知らない人を怖がっているのだと思います」
「気にしなくていい、ミリエル」
ヴィレンは穏やかに答えた。
そして、再びアデルへ視線を向ける。
「さてさて、知らない人が嫌いなのは誰かな? おや、アデルかな?」
彼はとても楽しそうだった。
「ほら、ヴィレンおじいちゃんに抱っこさせておくれ」
ヴィレンが手を伸ばす。
同時に、ミリエルがアデルへ優しく語りかけた。
「アデル。少しだけ、ヴィレンおじ様に抱っこしてもらいましょう? この方は、あなたのお父さんの師匠だったのよ。そして将来は、あなたの先生にもなる方なの」
(は?)
アデルは固まった。
(このじいさんが、俺の先生? 母さん、ちゃんと見てくれ。この人、今にも死にそうなんだけど?)
しかし、ミリエルの頼みだ。
アデルは心の中で深くため息をついた。
(……母さんのお願いなら仕方ない。今回だけだぞ)
彼はぎこちなく両手をヴィレンへ伸ばした。
顔には、明らかに作り笑いが浮かんでいる。
ヴィレンはそれを見逃さなかった。
だが、嬉しそうにアデルを抱き上げた。
「見たか、ミリエル! この子は自分から私の腕へ来たぞ。なんて可愛い子だ」
(また始まった……)
アデルの頬が赤く染まる。
(大人の男を可愛いとか言うな。いや、こいつらは知らないんだけどさ。それでも恥ずかしいものは恥ずかしい)
彼は少しもぞもぞと動き、ミリエルの方へ手を伸ばした。
戻りたい。
全力で戻りたい。
ヴィレンは楽しそうに笑った。
「おや、もう嫌になったのか。ほっほっほ。母親のところへ戻りたいのだな」
そう言って、ヴィレンはアデルをミリエルへ渡した。
アデルは母の腕に戻ると、ようやく安心したように息を吐いた。
ヴィレンは杖を手に取り、ゆっくりと立ち上がった。
「さて、私はそろそろ失礼しよう。今日の目的は果たしたからな」
「待ってください、おじ様」
ミリエルはアデルをベッドへ寝かせると、急いで別の部屋へ向かった。
一分ほどして戻ってきた彼女の手には、一通の手紙が握られていた。
「これを」
ミリエルはその手紙をヴィレンへ差し出す。
「アルヴィンが残したものです。あなたに新しい弟子ができたとき、渡してほしいと頼まれていました」
ヴィレンの表情が変わった。
「アルヴィンが……私に?」
彼はそっと手紙を受け取った。
指先が、わずかに震えている。
「分かった。必ず読む。だが、家に戻ってからにしよう」
そう言って、ヴィレンは手紙を懐にしまった。
そして扉へ向かう。
「では、ミリエル。六十年後にまた来る」
彼は振り返り、静かに微笑んだ。
「その時、私はアデルを迎えに来る」
「はい、ヴィレンおじ様。どうか、お気をつけて」
ミリエルは家の外まで彼を見送った。
ヴィレンは家から三十メートルほど離れると、空を見上げた。
そして次の瞬間。
老人の姿が、巨大な竜へと変わる。
金色の鱗が陽の光を受けて輝き、翼が大きく広がった。
その姿は、衰えた老人とはまるで別物だった。
ヴィレンは一度だけミリエルの方を見た。
そして翼を羽ばたかせ、空へ舞い上がる。
「さようなら、ヴィレンおじ様!」
ミリエルは空へ向かって声を上げた。
竜は遠ざかり、やがて空の彼方へ消えていった。
寝室では、アデルが小さな目で天井を見つめていた。
(六十年後……か)
彼はまだ、その言葉の重さをよく理解していなかった。
人間だった頃の彼にとって、六十年は人生の大半だった。
だが、この世界では。
エルフとして生まれ変わった彼にとって。
それは、まだ始まりに過ぎなかった。
第五話 終




