第4話 王への道(完結編)
第4話 王への道(完結編)
神殿。
それは、エルフたちが三柱の女神へ祈りを捧げる場所であり、同時に重要な儀式や集会が行われる神聖な場でもあった。
エルフたちが信仰する三柱の女神。
一柱目は、豊穣の女神ノイラ。
作物の実り、大地の恵み、そして新たな命の誕生を司る女神である。
エルフたちは新しい畑を作るとき、必ずノイラへ祈りを捧げる。
彼女の許しなくして、大地に一粒の種も芽吹かない。
そう信じられていた。
二柱目は、森の女神レナラ。
エルフにとって、森はただの住処ではない。
生まれ、育ち、死後に魂を還す場所でもある。
レナラは、エルフたちに森で暮らすことを許した女神だと伝えられている。
その代わり、エルフたちは森を守らなければならない。
外から来た者が森を傷つけるならば、レナラの加護を受け、弓を取り、剣を抜き、命をかけて森を守る。
それがエルフの誇りだった。
三柱目は、運命の女神マイラ。
すべてのエルフには、それぞれの人生の道がある。
生まれ、歩み、選び、そして辿り着く場所。
その道を、エルフたちは「運命」と呼ぶ。
マイラはその運命の糸を紡ぐ女神であり、ただ一体の竜にだけ、その糸を垣間見る力を与える。
その竜は、こう呼ばれる。
予見者。
予見者は、代々竜の中から選ばれる。
なぜなら、運命を覗くという行為は、あまりにも重い代償を伴うからだ。
一度、誰かの運命を見れば、その分だけ予見者の命が削られる。
だからこそ、人生の道を示す儀式は、簡単には行われない。
すべての子が受けられるものではない。
英雄の子。
王族の子。
あるいは、世界そのものが見届けるべき運命を持つ子。
そのような者にだけ、予見者は運命を見ることを許される。
そして今日。
その儀式の中心にいるのが、アデルだった。
「静まれ」
ヴィレンの声が、神殿に響いた。
彼はアデルを抱きながら、神殿の内外に集まったエルフたちを見渡す。
その声には、どこか疲れと悲しみが滲んでいた。
「アデルの儀式は、まもなく始まる。だがその前に、我らは彼の父を思い出さねばならない」
ヴィレンはアデルを祭壇の上にそっと寝かせた。
冷えないように柔らかな布で包む。
祭壇は神殿の最奥にあった。
集まったエルフたちは、アデルとヴィレンを交互に見つめながら、静かに言葉を待っている。
やがて、ヴィレンは口を開いた。
「誇り高きエルフたちよ。我らは皆、アルヴィンの名を覚えている」
その名が出た瞬間、神殿の空気が変わった。
「彼は、世界を滅びから救うために命を捧げた英雄だった」
多くのエルフがうつむいた。
頬を涙が伝う者もいた。
ヴィレンは続ける。
「一年前、我らの大地に突然、門が開いた。そこから現れたのは、ティフォンと呼ばれる異界の怪物たちだった」
彼の声が低くなる。
「奴らは生きるものを殺し、死者の眠りすら穢し、村を焼き、町を砕き、ついには王国すら呑み込もうとした」
神殿に重い沈黙が落ちた。
アデルは布に包まれたまま、目をぱちぱちと瞬かせる。
(ティフォン……? 何だそれ。化け物か?)
もちろん、赤子である彼に説明してくれる者はいない。
ヴィレンの声だけが、神殿に響き続ける。
「だが、その支配は長く続かなかった」
彼は静かに目を閉じた。
「世界を救うため、ひとりのエルフが門へ向かった。アルヴィンだ。彼は三か月もの間、門の前で戦い続けた」
ミリエルは、その言葉を聞いた瞬間、両手で胸元のペンダントを握りしめた。
それは、彼女に残された夫の唯一の形見だった。
「彼は、門から現れるティフォンを一体、また一体と討ち滅ぼした。そして最後には、自ら門の中へ飛び込み、内側からそれを閉じた」
ヴィレンの声が震えた。
「私はアルヴィンに感謝している。彼が命を懸け、あの忌まわしき門を閉じてくれたことを」
アルヴィンの名が語られるたび、エルフたちは一人、また一人と膝をつき始めた。
彼らは祈っていた。
世界を救うために命を捧げた英雄が、安らぎを得られるように。
その魂が、豊穣の女神ノイラのもとへ帰れるように。
ヴィレンは、長い白髭を撫でながら言った。
「私は、アルヴィンの師だった。私が予見者となる前から、彼を教えていた」
彼は祭壇の前で、遠い過去を見るように目を細める。
「だからこそ願う。彼の勇気が、女神によって報われることを」
ヴィレンは深く頭を下げた。
「安らかに眠れ、我が友よ。ノイラが、君の魂を受け入れんことを」
そう言い終えると、ヴィレンはミリエルのもとへ歩み寄った。
「ミリエル」
彼は静かに手を差し出す。
「記憶の結晶を、少し貸してくれないか」
ミリエルは涙に濡れた目でヴィレンを見上げ、ゆっくりとうなずいた。
そして胸元のペンダントを外し、彼へ手渡す。
ヴィレンはそれを受け取ると、祭壇のそばへ戻り、静かに開いた。
淡い光が溢れる。
その光は空中で形を成し、一人のエルフの姿を映し出した。
長い髪。
腰に下げられた剣。
緑のチュニック。
そして、まっすぐ前を見つめる静かな瞳。
アルヴィン。
「若きエルフたちよ、見よ」
ヴィレンは神殿中に届く声で告げた。
「これが、我らの英雄だ。世界を避けられぬ滅びから救った者の姿である」
エルフたちの視線が、一斉にその幻影へ向けられた。
「ありがとう、我らの英雄よ」
「あなたのおかげで、我らは今ここにいる」
「どうか安らかに」
若者も、老人も。
誰もが英雄へ感謝の言葉を捧げていた。
ミリエルは涙を流しながら、その声を聞いていた。
自分の夫が忘れられていない。
彼の犠牲を、皆が覚えてくれている。
それだけで、胸が締めつけられるほど嬉しかった。
やがてヴィレンはペンダントを閉じ、ミリエルへ返した。
ミリエルはそれを胸に抱きしめ、小さく頭を下げる。
「ありがとう……ございます」
その声は震えていた。
ヴィレンは再び祭壇へ向かった。
「さて」
彼はアデルの前に立つ。
「それでは、始めよう」
ヴィレンはアデルを覆っていた布を少しだけ外し、儀式の準備を整えた。
そして祭壇の前で膝をつく。
両手を組み、頭を垂れた。
「すべての運命を司る女神マイラよ」
ヴィレンの声が、神殿の静寂に染み込んでいく。
「あなたのしもべが願います。どうか、この子に用意された人生の道を、我にお示しください」
彼は祈り続けた。
何度も。
何度も。
神殿の空気が、ゆっくりと重くなっていく。
誰も声を出さない。
誰も動かない。
そして、ついに。
ヴィレンの頭の中に、声が響いた。
『ああ、我が忠実なるしもべよ』
それは、女神マイラの声だった。
『お前は本当に、この子を待つものを見たいのか?』
ヴィレンは迷わなかった。
「はい。我が女神よ」
その返答に、マイラは静かに告げる。
『よかろう。ならば見なさい。この子のために、私が紡いだ道を』
次の瞬間、ヴィレンの瞳が光を放った。
それは運命を視る者の光。
だが――
彼が見たものは、あまりにも異常だった。
「……何だ、これは」
ヴィレンの声が震えた。
「ありえない……」
その言葉に、ミリエルの顔から血の気が引いた。
「ヴィレンおじ様?」
彼女は不安に駆られ、祭壇へ駆け寄る。
「何が見えるのですか? まさか、私の子に恐ろしい運命が……?」
しかし、ヴィレンにはミリエルの声が届いていなかった。
彼の頭の中は、アデルの運命で満たされていた。
「二つの運命……!」
ヴィレンは叫んだ。
神殿中に、その声が響き渡る。
「二つの運命だ!」
集まったエルフたちがざわめいた。
「二つの運命?」
「英雄の息子に?」
「そんなことがありえるのか?」
ヴィレンは、信じられないものを見るように、震える声で続けた。
「一つの運命は、すでに終わっている。だが、もう一つの運命は……今、始まろうとしている」
エルフたちは息を呑んだ。
(どういう意味だ?)
アデルもまた、赤子の体でありながら、ただならぬ空気を感じていた。
ヴィレンの声は、さらに遠くを見るように低くなる。
「誰かが落ちる……そして、死ぬ」
神殿の空気が凍りついた。
「だが、その者は再び目を開く」
ざわめきが広がる。
「私は見る……エルフを。玉座に座るエルフを」
ヴィレンの声が少しずつ弱くなっていく。
「王国が見える……大きな、王国だ……」
彼は荒く息を吐いた。
「戦争……戦争が見える。玉座に座っていたエルフが、軍を率いている。そして、さらに……私は――」
その瞬間。
ヴィレンの頭の中に、マイラの声が響いた。
『そこまでです、我がしもべ』
その声は優しかった。
だが、同時に拒絶の響きを含んでいた。
『これ以上は、あなたの身が耐えられません。この子の運命は大きすぎる。竜であるあなたにとっても、あまりにも重い』
ヴィレンは目を見開いた。
『私はこれ以上、この子の道を見せることはできません。あなたが死んでしまうからです』
その言葉を最後に、マイラはアデルの運命を閉ざした。
光が消える。
ヴィレンはその場に崩れ落ちそうになった。
だが、神殿のエルフたちがさらに驚いたのは、その直後だった。
ヴィレンの体が、急速に老いていったのだ。
ほんの一瞬。
たった一瞬で、年老いた竜の姿をした男は、さらに弱々しい老人へと変わっていた。
頬はこけ、背は曲がり、手は震えている。
まるで何十年、いや何百年もの時を一気に奪われたかのようだった。
「ヴィレンおじ様!」
ミリエルが悲鳴に近い声を上げる。
ヴィレンは血を吐くように咳き込んだ。
「女神よ……お願い、します……」
彼の声はかすれていた。
「どうか……最後まで……この子の運命を……見せて……ください……」
咳とともに、赤い血が彼の口元を濡らす。
それでもヴィレンは、女神マイラへ祈り続けた。
だが、返答はなかった。
沈黙。
それが、女神の答えだった。
ヴィレンはゆっくりと目を閉じた。
「……そうですか」
彼は震える体を無理やり動かし、膝をついた。
そして両手を上げる。
「感謝いたします、女神よ。この子の運命を、ここまで見せてくださったことを」
彼の声は弱々しかった。
だが、そこには確かな敬意があった。
神殿に集まったエルフたちは、誰も言葉を発しなかった。
あまりにも異様な光景だった。
赤子の運命を見るためだけに、予見者である竜がここまで衰えた。
それは、アデルという子が背負う未来の重さを物語っていた。
やがて、一人の若いエルフの女性が震える声で尋ねた。
「予見者様……これから、私たちはどうなるのでしょうか?」
ヴィレンはゆっくりと彼女の方へ顔を向けた。
その動きすら、ひどく苦しそうだった。
「……分からぬ」
彼は正直に答えた。
「私にも、すべては見えなかった」
若いエルフの顔が青ざめる。
ヴィレンは、祭壇の上に寝かされたアデルへ視線を戻した。
「だが、一つだけ分かる」
神殿のすべての視線が、彼へ集まった。
「この子には、重い使命が与えられている」
ヴィレンの声はかすれていたが、不思議と神殿の隅々まで届いた。
「それは、父アルヴィンが背負ったものと同じくらい……いや、あるいはそれ以上に重いものかもしれない」
ミリエルはアデルを見つめた。
まだ何も知らず、祭壇の上で小さな手を動かしている赤子。
その小さな体に、いったいどれほどの未来がのしかかっているというのか。
アデルは、自分に向けられる無数の視線を感じていた。
(……何なんだよ)
胸の奥がざわつく。
(俺はただ、生まれ変わっただけじゃないのか?)
誰も答えてくれない。
神殿は、重い沈黙に包まれていた。
そしてその日。
アデルという名の赤子は、ただの英雄の息子ではなくなった。
誰もが理解したのだ。
この子の運命は、エルフの森だけで終わるものではない。
もっと大きく、もっと遠く。
世界そのものへ届く何かを、彼は背負っているのだと。
第四話 終




