第3話 王への道(後編)
第3話 王への道(後編)
人生の道を示す儀式の日まで、あとわずか。
アデルがその話を聞いてから、六日が過ぎていた。
ミリエルの言葉を何度も聞くうちに、彼は少しずつ儀式の内容を理解し始めていた。
(つまり……俺の理解が間違っていなければ、その日にドラゴンが来る。そして俺の運命を調べる、ってことだよな)
ベッドの上で、アデルは小さな眉を寄せた。
(いや、待て。運命を調べるって何だよ。どうやって調べるんだ。血液検査か? 占いか? それともドラゴンビームか?)
もちろん、答えは出ない。
一方のミリエルは、儀式の日を心待ちにしていた。
彼女はアデルのそばをほとんど離れず、彼を見つめては幸せそうに微笑んでいた。
その表情を見るたび、アデルは少しだけ不安になる。
(母さん、期待しすぎじゃないか? もし俺が普通の赤ん坊だったらどうするんだよ)
だが、ミリエルの目は希望に満ちていた。
「ねえ、アデル。ママは本当に嬉しいのよ」
彼女はアデルの小さな手を包み込みながら、目を輝かせて言った。
「あなたの儀式が、こんなに早く行われるなんて」
その声には、隠しきれない喜びがあった。
「あなたは、あの偉大なエルフの息子だもの。きっと素晴らしい運命が待っているわ」
父。
その言葉を聞くたびに、アデルは少し引っかかるものを覚えた。
(その父親って、いったい何者なんだ?)
アデルは心の中でため息をつく。
(俺がこの世界に生まれてから、もう何日も経ってる。それなのに一度も姿を見せていない。普通、父親って生まれた子どもを見に来るものじゃないのか?)
そんなアデルの疑問など知らず、ミリエルは静かに言葉を続けた。
「……アデル」
彼女の声が少しだけ沈む。
「あなたのお父さんにも、あなたを見せてあげたかったわ」
ミリエルはアデルの向かいに座り、寂しそうに微笑んだ。
「きっと、あなたを見たら喜んだはずよ。あなたは本当に、あの人に似ているもの」
そう言った瞬間、彼女の頬を涙が伝った。
ミリエルは片手でアデルの頬を撫で、もう片方の手で涙を拭う。
「その瞳は、あの人と同じエメラルドの色。小さなお鼻は、少しだけママに似ているわね」
(……待て)
アデルは固まった。
(この流れ、もしかして……俺、この人生でも父親がいないのか?)
その答えを告げるように、ミリエルはぽつりと呟いた。
「アルヴィン……あなたがいなくて、本当に寂しい」
彼女はアデルの頬を撫でる手を止めた。
そして両手で顔を覆い、アデルに涙を見せまいとするように、少しだけ顔を背ける。
その姿を見た瞬間、アデルの胸が締めつけられた。
母の涙。
それは、彼にとって何よりも苦手なものだった。
(泣かないでくれ、母さん)
アデルは必死に言葉を探す。
(俺はここにいる。今度こそ、ちゃんとそばにいる。母さんを支える。守る。この世界のどんな危険からだって――)
だが、口から出たのは言葉ではなかった。
「あう、あう、あう」
ただの赤ん坊の声。
それでもミリエルは、その声に反応した。
彼女は涙に濡れた目を大きく見開き、次の瞬間にはぱっと顔を輝かせた。
「ああ、私の小さな太陽……!」
ミリエルはアデルを抱き上げる。
「あなた、今はじめて“あう”って言ったのね!」
彼女は涙を浮かべたまま、満面の笑みを見せた。
「ふふっ、ふふふ……!」
その笑い声を聞いた瞬間、アデルの胸にも温かいものが広がっていった。
(そうだ。それでいい)
アデルは小さな拳を握る。
(母さんは泣くより、笑っていた方がいい。もし誰かが母さんを悲しませるなら……そいつは絶対に後悔することになる)
かなり物騒なことを考えているのだが、今のアデルはただの赤ん坊である。
しかも小さな拳を握りしめ、精一杯怖い顔をしているせいで、むしろ可愛らしさが増していた。
ミリエルは少しずつ落ち着きを取り戻し、アデルをベッドへ寝かせた。
「もう……私ったら、赤ちゃんの前で泣いてしまうなんて」
彼女は自分に呆れたように苦笑すると、部屋を出ていった。
アデルたちが暮らしている家は、それほど大きくない。
寝室が二つ。
台所が一つ。
そして居間が一つ。
全部で四部屋だけの、小さな家だった。
ミリエルはアデルと一緒に眠っている寝室を出ると、居間へ向かった。
アデルは天井を見つめながら、ようやく息を吐いた。
(ふう……やっと落ち着いたか)
母の涙ほど、彼にとって心を乱されるものはない。
それから、三十分ほどが過ぎた。
(ああ……腹減ったな)
アデルはぼんやりと天井を見つめる。
(ペリメニ食べたい。マヨネーズたっぷりつけて。ついでにパソコンでゲームもしたい)
そんな叶わない夢を見ていると、部屋の扉が開いた。
ミリエルが戻ってきたのだ。
彼女は穏やかな笑みを浮かべ、手には小さなペンダントのようなものを持っていた。
「アデル、見て」
ミリエルはベッドのそばに座ると、それをアデルへ見せた。
「これは記憶の結晶よ」
(記憶の結晶?)
アデルが内心で首をかしげる間に、ミリエルはペンダントを開いた。
「今からこれを起動するわ。そうすれば、あなたのお父さんを見ることができるの」
その瞬間、ペンダントから淡い光が溢れた。
光は空中で形を成し、一人のエルフの姿を映し出す。
背の高いエルフだった。
長い髪。
腰に下げられた剣。
緑色のチュニック。
そして、静かな強さを感じさせる立ち姿。
(これが……俺の父さん)
アデルは食い入るように、その幻影を見つめた。
その反応を見たミリエルは、少し驚いたように目を細める。
(まだ一か月しか経っていないのに、この子はもう、何かを考えるような目で周りを見ている)
彼女は優しく微笑み、アデルの顔を見つめた。
それから、空中に浮かぶアルヴィンの幻影へ視線を移す。
(あなた……見えているかしら)
ミリエルは天井を見上げ、涙をこらえながら心の中で語りかけた。
(私たちの息子は、もう世界に興味を持っているの。何かを見るときのこの子の目は、あなたにそっくりよ)
アデルは、その表情に気づいた。
(母さん、頼むからまた泣かないでくれ)
彼は小さな拳を握った。
(母さんが泣くと、俺の心臓が痛くなるんだよ)
ミリエルは深く息を吸い、涙をこらえた。
そして、できるだけ明るい声で言う。
「さて、もう遅い時間ね。誰かさんは眠る時間よ」
彼女はアデルを抱き上げた。
「きっとお腹も空いているでしょう? 今、何とかしてあげるわ」
ミリエルは肩紐をずらし、アデルに母乳を与えようとした。
(うっ……)
アデルは内心で固まる。
(いまだに慣れない……本当に慣れない)
しかし、どうしようもない。
今の彼は赤ん坊だ。
母乳以外のものを食べられる体ではない。
(早く大きくなりたい……いつまで乳児なんだ、俺は)
そんなことを思いながらも、空腹には逆らえなかった。
目を閉じ、少しずつ意識が遠のいていく。
「そう、いい子ね」
ミリエルは優しく囁いた。
「眠りなさい、私の坊や。目が覚めたら、あなたの運命を一緒に知りましょう」
だが、アデルはその言葉を最後まで聞いていなかった。
すでに、深い眠りへ落ちていたからだ。
十分ほどして、ミリエルはアデルをそっとベッドへ寝かせた。
そして自分もその隣に横になる。
アデルは夢を見ていた。
夢の中には、皿いっぱいのペリメニがあった。
(ペリメニ……マヨネーズ……)
彼の寝顔は、とても幸せそうだった。
翌日。
アデルが目を開けた瞬間、彼は固まった。
(……ん?)
見知らぬ天井。
見知らぬ空間。
そして、目の前には知らない老人。
(どこだここ。誰だこのおじいさん。というか――)
アデルは自分の体を見た。
(なんで俺、裸なんだああああ!?)
声にならない悲鳴が、心の中で響いた。
彼を覗き込んでいたのは、偉大な竜――ヴィレントレテンメルタ。
もっとも、その名はあまりにも長いため、皆からはヴィレンと呼ばれている。
今の彼は人間の姿をしていた。
長い白髭をたくわえた老人の姿で、まるでRPGに出てくる典型的な賢者のようだった。
「ねえ、ヴィレンおじ様」
ミリエルは彼の背後に立ち、そわそわしながら尋ねる。
「儀式は行えそうですか?」
彼女は待ちきれないのか、ヴィレンの肩を揺さぶっていた。
「待ちなさい、ミリエル。ちゃんと診せてくれ」
ヴィレンは眉をひそめる。
「この儀式が、この小さな体に危険を与えないか確認しているのだ」
彼は長い髭を撫でながら、慎重にアデルの状態を見ていく。
アデルはされるがままだった。
(いや、説明してくれ。せめて服を着せてくれ)
だが、赤ん坊に発言権などない。
そのまま二十分ほどが過ぎた。
やがてヴィレンは顔を上げた。
「よし。問題はなさそうだ」
彼がそう言った瞬間――
どこからともなく、大きな歓声が響いた。
「うおおおお!」
「ついに始まるぞ!」
「森の守護者の息子の運命が明かされる!」
アデルは目を見開いた。
(え、何この騒ぎ?)
周囲を見れば、そこは巨大な神殿だった。
三姉妹の神殿。
そこには、数え切れないほどのエルフたちが集まっていた。
(待て待て待て。なんでこんなに人がいるんだよ。いや、人じゃなくてエルフだけど!)
アデルは小さな手足をばたつかせる。
(まさか、みんな俺の運命を見るために集まったのか?)
混乱するアデルをよそに、ヴィレンは彼を抱き上げた。
そして高く掲げる。
アデルが目を開けると、そこには信じられない数のエルフがいた。
まるで森中のエルフが、この場所に集まっているかのようだった。
ちなみに、エルフといえば森に住むものだ。
細かいことは気にしてはいけない。
ヴィレンは一歩前へ出ると、堂々と声を張り上げた。
「エルフたちよ。我らは今日、この場所に集った」
彼の声は魔法で増幅され、神殿の隅々まで響き渡る。
「かつて神々より授けられたこの偉大なる神殿にて、我らは知ることになる。ひとりの子が歩む、人生の道を」
神殿内が静まり返る。
ヴィレンはさらに声を強めた。
「彼は――」
彼はアデルを高く掲げたまま、重々しく続ける。
「偉大なる森の守護者にして、我らの世界を救うために命を捧げた英雄の息子!」
歓声が上がりかけたが、ヴィレンは片手でそれを制した。
そしてさらに続けようとする。
「さあ、皆で見届けようではないか! この子が、これからどのような道を――」
そこで、ヴィレンの言葉が止まった。
彼は固まった。
そして、ゆっくりと首だけをミリエルへ向ける。
「……ミリエル」
小声だった。
「私は、この子の名前を聞き忘れていた」
ミリエルは一瞬きょとんとしたあと、必死に笑いをこらえた。
「ふ、ふふ……アデルです、ヴィレンおじ様。名前はアデル」
彼女は口元を手で隠しながら答えた。
ヴィレンは何事もなかったかのように前を向き直る。
そして、先ほどよりもさらに大きな声で叫んだ。
「――アデルが、その人生の道で何を得るのかを!」
その瞬間、神殿中から歓声が爆発した。
「アデル!」
「アデル!」
「アデル!」
「うおおおお!」
数え切れないエルフたちが、アデルの名を叫んでいた。
アデルはヴィレンの腕の中で硬直していた。
(な、なんだこれ……)
まるで王の誕生を祝う儀式のようだった。
いや。
このときのアデルは、まだ知らなかった。
この日が、自分の長い物語の始まりになることを。
ヴィレンはやがて手を上げ、皆を静かにさせた。
「よし、静かに」
歓声が少しずつ収まっていく。
「それでは――」
ヴィレンはアデルを抱えたまま、祭壇へ向き直った。
「これより、儀式を始める」
第三話 終




