第2話 王への道(前編)
第2話 王への道・前編
アンドレイが別の世界で生まれ変わってから、二日が過ぎた。
それでも彼は、まだ信じられずにいた。
自分がもう人間ではないこと。
鏡の中に映っていた赤子が、自分であること。
そしてその赤子が、物語の中に出てくるようなエルフであること。
ベッドに寝かされたまま、アンドレイは天井を見つめていた。
そばには、いつも彼の新しい母がいた。
ミリエル。
彼女は優しい眼差しで、ずっとアンドレイを見守っていた。
その瞳を見るたびに、アンドレイの胸は少しだけ痛んだ。
彼女の優しさは、地球に残してきた母を思い出させたからだ。
(母さん……ごめん)
胸の奥で、言葉にならない後悔がこぼれた。
(言うことを聞かない息子でごめん。授業中に寝てばかりでごめん。パソコンばかり触って、母さんとちゃんと過ごさなくてごめん)
今さらだった。
本当に、今さらだった。
(失ってから気づくなんて、俺は本当に馬鹿だ。母さんがどれだけ大切だったのか、もう遅すぎるのに……)
アンドレイの視界が滲んだ。
(どうか、俺がいなくても幸せに生きてくれ。俺の分まで……笑っていてくれ)
そう思った瞬間、涙が頬を伝った。
赤子の体は、感情を隠すことができない。
アンドレイは声を上げて泣き出した。
その泣き声を聞いたミリエルは、すぐに彼を抱き上げた。
「よしよし、泣かないで。ママはここにいるわ」
彼女はアンドレイを胸に抱き、ゆっくりと揺らし始めた。
「大丈夫。ママが寝かしつけてあげるからね」
そして、柔らかな声で子守唄を歌い始めた。
「私の小さな子、眠りなさい。
どうか、優しい夢を見ますように。
ママはここにいるわ。
あなたを愛しているわ。
あなたを守ってあげる。
あなたは私の幸せ。
あなたは私の喜び。
だから、安心して目を閉じて……」
その歌声には、偽りのない愛情が込められていた。
アンドレイは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
それは懐かしい温もりだった。
地球にいた頃、当たり前のように受け取っていたもの。
母の愛。
(……ああ)
まぶたが重くなる。
(俺はまた、母さんに抱かれているんだな)
そう思った瞬間、意識はゆっくりと沈んでいった。
ミリエルは、赤子が眠ったのを確認すると、そっとベッドへ寝かせた。
それでも彼女は離れようとしなかった。
ベッドのそばに横になり、眠る我が子を飽きることなく見つめていた。
そして小さな手で、アンドレイ――いや、アデルの腹にそっと触れる。
「おやすみなさい、私のアデル」
声はとても優しかった。
「ママは、ずっとそばにいるからね」
その夜。
アンドレイは、生まれてから一番穏やかな眠りについた。
翌日。
アンドレイは、ミリエルがどこかへ出かける準備をしていることに気づいた。
彼女が着替えようとしているのを見て、アンドレイは慌てて顔を反対側へ向ける。
(いやいやいや、見ちゃだめだろ。いくら赤ん坊の体でも、中身は二十一歳なんだからな)
しばらくして、着替えを終えたミリエルがベッドへ近づいてきた。
彼女はアデルの額にそっと口づける。
「私の小さなアデル。心配しないでね。ママはすぐに戻ってくるわ」
そう言って、彼女はにこりと笑った。
「その前に、少しだけ眠っていてもらおうかしら」
ミリエルはアデルを抱き上げると、自分の胸元へそっと抱き寄せた。
そして、頬ずりするように甘やかし始める。
(ちょっ、近い近い近い!)
赤子の体では逃げられない。
ミリエルは満足するまでアデルを抱きしめ、撫で、愛おしそうに頬を寄せた。
それが終わると、今度は彼をゆっくりと揺らし始める。
どうやら眠らせるつもりらしい。
アンドレイは悟った。
(なるほど。俺が眠らない限り、この人は出かけないつもりだな)
ならば仕方ない。
アンドレイは目を閉じ、眠ったふりをした。
すう、すう。
赤子らしく、小さく寝息まで立ててみせる。
ミリエルはその寝息を聞くと、安心したように微笑んだ。
「いい子ね」
彼女はアデルをそっとベッドに戻し、頭を優しく撫でた。
それから一歩下がると、アデルへ向けて手のひらをかざした。
「風の精霊、土の精霊よ。どうか私の子を、あらゆる危険から守ってください」
空中に淡い光の魔法陣が浮かび上がった。
その輪の中から、小さな精霊たちが飛び出してくる。
四体の精霊が、ふわふわとアデルの上を飛び回った。
ミリエルは彼らに向かって言う。
「風と土の精霊たち。私の子を少しの間だけ見ていて。長老たちのところへ行って、儀式の準備を始めなければならないの」
精霊たちは、鈴のような高い声で答えた。
「心配しないで、ミリエル」
「あなたの子は、私たちが見ているよ」
「まかせて、まかせて」
精霊たちの返事を聞くと、ミリエルはようやく部屋を出た。
その足音が遠ざかり、家の扉が閉まる音がする。
アンドレイは、まだ眠ったふりを続けながら、現在の状況を整理し始めた。
(さて……改めて確認しよう)
まず一つ目。
(俺はエルフの赤ん坊になった。そして今の名前はアデル)
二つ目。
(新しい母親の名前はミリエル。優しくて、美人で、そしてかなり過保護)
三つ目。
(この世界には魔法がある。今この目で見た。しかも精霊までいる)
四つ目。
(部屋の様子を見る限り、文明レベルは中世寄り。電気はない。車もない。便利な交通手段も期待できない)
五つ目。
(衛生面はたぶん悪い。つまり、病気が怖い。赤ん坊の体ならなおさらだ)
六つ目。
(この世界には、たぶんモンスターがいる。いや、絶対いる。エルフと魔法と精霊がある世界で、モンスターだけいません、なんてことはないだろう)
七つ目。
(勉強。できるだけ早く、この世界の歴史を知らないとまずい)
そして八つ目。
ここが一番重要だった。
(ペリメニだ)
アンドレイは小さな拳をぎゅっと握った。
(漫画や小説の知識によると、エルフは肉を食べないことが多い。だが、そんな常識は俺が変える)
赤ん坊の小さな拳に、謎の決意が宿る。
(せっかくの第二の人生だ。今度こそ後悔しないように生きる。そして今度こそ、母さんにとって自慢の息子になる)
アデルがそんな決意を固めていると、精霊たちはじっと彼を見つめていた。
そのうちの一体が、ぽつりと言う。
「この子、すごくかわいいね」
二体目の精霊がすぐに頷いた。
「うんうん。本当にかわいい。こんな顔を見て、かわいいと思わない方がおかしいよ」
その言葉を聞いた瞬間、アデルの顔が引きつった。
(や、やめろ……二十一歳の青年をかわいいとか言うな。中身は大人なんだぞ。すごく恥ずかしいんだが!?)
赤子の頬が、みるみる赤く染まっていく。
精霊たちはそれを見て慌てた。
「わっ、赤くなった!」
「どうしよう、どうしよう!」
三体目の精霊が、真面目な顔で言う。
「落ち着いて。たぶん赤ちゃんの用事をしたんだよ。おむつを替えれば大丈夫」
その言葉で、他の精霊たちは納得した。
「なるほど!」
「さすが!」
「じゃあ替えよう!」
(待て待て待て待て待て!)
アデルの心の叫びなど、精霊たちに届くはずもない。
風の魔法がふわりと動き、彼の布が器用に外されていく。
(やめろおおおおおおおおお!)
しかし体は赤ん坊。
抵抗らしい抵抗などできない。
精霊たちは手際よくおむつを確認した。
一体目の精霊が首をかしげる。
「……乾いてる」
「汚れてもいないね」
精霊たちは困ったように布を見つめる。
そして、ふとアデルの顔を見た。
「見て。赤ちゃんの顔、白く戻ったよ」
「じゃあ、ただ苦しかっただけかな?」
二体目の精霊が嬉しそうに言った。
「きっとそうだよ。よかった、よかった」
精霊たちは、アデルの顔色が戻ったことに喜び、互いに抱き合って小さく跳ねた。
「やったね!」
「私たち、ちゃんと赤ちゃんのお世話ができた!」
四体目の精霊は、得意げに胸を張った。
「ふふん。誰が精霊に子守りは無理だなんて言ったのかな?」
「本当だね!」
精霊たちは、自分たちのささやかな成功に大喜びしていた。
(いや、成功じゃないからな)
アデルは心の中で静かに突っ込んだ。
そんなとき、家の扉が開く音がした。
ミリエルが戻ってきたのだ。
彼女は家に入るなり、まっすぐ寝室へ向かった。
「私の小さなアデルはどこかしら?」
寝室に入ったミリエルは、ベッドで眠ったふりをしているアデルを見つける。
「あら、まだ眠っているのね。ママはもう帰ってきたわよ」
彼女はベッドのそばに腰を下ろし、アデルを見つめた。
その瞳は、愛情と優しさで満ちていた。
「アデル、私のかわいい子」
ミリエルはそっと囁く。
「一か月後、あなたを人生の道を示す儀式へ連れていくわ」
アデルは、閉じたまぶたの裏で目を見開いた。
(人生の道を示す儀式?)
ミリエルは続けた。
「偉大な竜が到着するのを待つだけよ。その方が、あなたが将来どんな道を歩むのか教えてくださるの」
その言葉を残し、ミリエルは精霊たちを連れて部屋を出ていった。
部屋が静かになる。
アデルは、そっと小さな手を持ち上げた。
(ど、ドラゴン……?)
本物のドラゴン。
その単語だけで、胸の奥が妙にざわつく。
(しかも人生の道を示す儀式って何だよ。質問ばかり増えて、答えはまるでないじゃないか)
アデルは小さく息を吐いた。
いや、赤ん坊の体ではため息すらまともにできない。
(まあいい。儀式だろうがドラゴンだろうが、必要なら何だってやってやる)
彼は、ミリエルの嬉しそうな顔を思い出した。
あの人は、息子がその儀式を受けることを本当に楽しみにしている。
ならば。
(母さんが喜ぶなら、俺はちゃんとやる)
アデルは小さくあくびをした。
(ふぁ……だめだ。この体、すぐ眠くなる)
まぶたが重くなっていく。
(ドラゴンか……)
ぼんやりとそんなことを考えながら、アデルはまた眠りへ落ちていった。
第二話 終




