第1話 新しい人生
やり直し:エルフの王
作者:Ritch
第1話 新しい人生
「アンドレイ……」
隣の部屋から、母の声が聞こえた。
「アンドレイ……!」
声はだんだん近づいてくる。
「アンドレイ! いい加減、起きなさい! どうせまた夜中までパソコンで遊んでたんでしょう!」
気づけば、母はもうベッドの前に立っていた。
「んん……母さん、あと五分だけ……」
アンドレイはそう言って、布団の中で反対側へ寝返りを打った。
「五分も何もありません! さっさと起きて大学へ行きなさい!」
まるで軍隊の指揮官のような口調だった。
「はいはい、起きますよ……」
アンドレイは大きくあくびをしながらベッドから起き上がった。
(まったく。人が気持ちよく寝てるっていうのに)
そんなことを思いながら、彼は洗面所へ向かった。顔を洗い、歯を磨き、ようやく少しだけ目が覚めたところで台所に入る。
そこでは、母がコンロの前に立っていた。
「母さん、今日の朝飯なに?」
アンドレイはにやりと笑いながら尋ねた。
母は呆れたように肩をすくめる。
「本当にあんたって子は……誰のためにペリメニを茹でたと思ってるの?」
そう言って、母はテーブルの上の皿を指さした。
皿の上には、湯気の立つペリメニが山のように盛られている。
「早く食べて、さっさと大学へ行きなさい」
「ありがとう、母さん。やっぱり最高だよ」
アンドレイは椅子に座るなり、勢いよくペリメニを口に運び始めた。
「ちょっと、喉に詰まらせないでよ。せめて噛んでから飲み込みなさい」
母は深いため息をつきながら注意した。
「大丈夫だって。詰まらせたりしないよ」
頬を膨らませたまま答えると、母はさらに呆れた顔をした。
朝食を終えたアンドレイは、急いで上着を羽織った。
「ペリメニありがと、母さん。それじゃ行ってくる。寂しがるなよ」
「はいはい。行ってらっしゃい、このお調子者」
母は小さく笑いながら、玄関を飛び出していく息子の背中を見送った。
外に出ると、建物の前に親友のグリシャが立っていた。
「よう、グリシャ! 今日もStarWraftで雑魚どもを蹴散らすか?」
アンドレイはいつもの調子で声をかけた。
しかし、グリシャは重いため息をついた。
「よう……いや、今日は無理だ。親父に変な補習プログラムへ放り込まれた」
その声には、世界の終わりのような絶望がにじんでいた。
「二十一歳にもなってるのに、まだ子ども扱いだよ。まったく、うんざりする」
グリシャは肩を落とし、地面を見つめた。
アンドレイはその瞬間を逃さなかった。
「なら、こう言ってやればいいんだよ」
彼は指で眼鏡の形を作り、頬を膨らませて、わざとらしくグリシャの真似をした。
「父上、僕はもう小さな子どもではありません。自分の人生くらい、自分で決められます」
グリシャは思わず吹き出した。
「言うだけなら簡単だろ。じゃあ、お前は自分の母さんに同じこと言えるのか?」
「……」
アンドレイは視線をそらした。
ちょうどそのとき、停留所にバスが停まっているのが見えた。
「よし、この話は終わりだ。バスが来てる。急ぐぞ!」
アンドレイは一気に走り出した。
「おい、待てって!」
グリシャが後ろから叫ぶ。
だがアンドレイは振り返らなかった。
「最後に着いたやつが負け犬な!」
全力で走った。
走った。
走った。
そして――二人が停留所に着いたとき、バスはすでに走り去っていた。
「くそっ、間に合わなかった……! お前、もう少し速く走れなかったのかよ。亀か、お前は」
膝に手をつきながら、アンドレイは息を切らした。
「お前だって陸上選手じゃないだろ……」
グリシャも額の汗を拭いながら言い返した。
「まあいい。歩こうぜ。二限には間に合うかもしれない」
二人は大学へ向かって歩き出した。
道すがら、グリシャがふと思い出したように口を開く。
「そういえば、前から聞きたかったんだけどさ」
「なんだよ?」
アンドレイは足を止めて振り返った。
「なんでお前、戦略ゲームとか都市建設シミュレーションばっかりやってるんだ? シューティングもあるし、レースもあるし、格ゲーだってRPGだってあるだろ」
アンドレイは少し考えてから、肩をすくめた。
「自分でもよくわからないけどさ、他のゲームはどうにもハマれないんだよ。なんか違うっていうか」
「変なやつだな。世の中には面白いゲームが山ほどあるっていうのに、お前は退屈そうなものばっかり選ぶ」
グリシャはそう言って歩き出した。
「おい、俺の趣味を馬鹿にするなよ。これでも戦略ジャンルなら、CIS圏でランキング一位なんだからな」
アンドレイは得意げに胸を張り、グリシャを追い越そうとした。
その後も二人はくだらない話をしながら歩き続け、ようやく大学に到着した。
「やばい。グリシャ、今何時だ?」
アンドレイは不安そうに尋ねた。
グリシャはスマホを確認してから答える。
「安心しろ、アンドリューシャ。二限には間に合った」
「よかった……で、俺の二限って何だっけ?」
「たしか歴史だったと思う」
その言葉を聞いた瞬間、アンドレイの背筋に冷たいものが走った。
「終わった……スミルノフ教授、また怒るに決まってる」
アンドレイはグリシャと別れ、自分の講義室へ向かった。
扉の前で立ち止まり、軽くノックする。
コン、コン。
「はい、どうぞ」
中から声が返ってきた。
アンドレイが扉を開けると、スミルノフ教授がこちらを見た。
「ほう、ステパノフ。また遅刻かね?」
教授は足で床を軽く叩きながら言った。
「すみません、スミルノフ教授。バスに乗り遅れてしまって……」
アンドレイは視線を落とした。
「ステパノフ、君の遅刻はこれで何度目だ? 次に遅れたら、次回のテストの評価を下げる。わかったね?」
教授の鋭い視線がアンドレイを射抜いた。
「はい、教授」
「まったく……もういい。席に着きなさい」
教授は疲れたように本で最後列を指した。
アンドレイは急いで席に座り、講義を聞き始めた。
一時間後、ようやく講義が終わった。
昼休みだ。
アンドレイは食堂へ向かい、大皿いっぱいのペリメニを受け取ると、こっそり屋上へ上がった。
「おお……いい眺めだな」
屋上の端に腰を下ろし、アンドレイは街を見下ろした。
街全体が手のひらの上にあるように見える。
風が心地よかった。
「やっぱり食堂のペリメニは最高だな。具がたっぷり入ってる」
彼は満足そうに頬張りながら、景色を楽しんだ。
そして最後の一個をフォークに刺した、その瞬間。
強い風が吹いた。
「えっ」
最後のペリメニが、フォークからふわりと飛ばされた。
「待て、俺のペリメニ!」
アンドレイは思わず手を伸ばした。
だが次の瞬間、足元の感覚が消えた。
体が傾く。
空が回る。
そして――
鈍い音とともに、彼の体は屋上から落ち、下に停まっていた車の上へ叩きつけられた。
近くを歩いていた女性が悲鳴を上げた。
「きゃああああ! 人が屋上から落ちた!」
彼女は慌ててバッグからスマホを取り出そうとしている。
アンドレイは、まだ意識があった。
(痛い)
(痛いなんてもんじゃない)
(全身が自分のものではないみたいだった)
(馬鹿だな。屋上から落ちるやつなんて、どこの間抜けだよ)
(……ああ、俺か)
周囲に人だかりができる。
その中から、グリシャが飛び出してきた。
「アンドリューシャ!」
グリシャはアンドレイの手を握った。
「寝るなよ。救急車はもう来る。もうすぐ着くから。頼む、寝るな。お前の母さんに、俺は何て言えばいいんだよ……!」
彼の声は震えていた。
(母さん)
(そうだ)
(俺には母さんがいる)
(寝ちゃだめだ)
(でも、まぶたが重い)
(ごめん、グリシャ)
(もう無理かもしれない)
(ごめん、母さん)
(ごめん、俺のCISランキング)
(どうやら、お前のことも守れそうにない)
意識が薄れていく。
最後に浮かんだのは、母の顔だった。
(俺、最後に母さんを喜ばせたのって、いつだったっけ)
痛みの中で、ぼんやりと思い出す。
(ああ、そうだ)
(六年生のとき、数学の大会で一位を取ったんだ)
(あのとき母さん、すごく笑ってた)
(もう一度、あの笑顔が見たいな)
そのとき、救急車が到着した。
後部ドアが開き、二人の救急隊員が飛び出してくる。
「皆さん、離れてください! 負傷者はどこですか!」
隊員たちは車の上に倒れているアンドレイを見つけると、すぐに彼を担架へ移し、救急車へ運び込んだ。
救急車が出発しようとしたとき、グリシャが駆け寄った。
「お願いします、俺も乗せてください! こいつの親友なんです。そばにいないと……!」
彼は涙を浮かべながら、救急隊員の袖をつかんだ。
隊員は一瞬だけ迷ったあと、うなずいた。
「わかった。乗りなさい」
グリシャは救急車に乗り込んだ。
病院へ向かう途中、隊員はアンドレイの容体を確認しながら、グリシャに尋ねた。
「彼はどうして屋上から落ちたんだ?」
「わ、わかりません……でも、あいつ、いつも昼になると食堂でペリメニを買って、こっそり屋上で食べてたんです。危ないからやめろって、俺は何度も言ったのに……」
だが、病院に着く前に。
アンドレイ・ステパノフは息を引き取った。
医師は、彼の母へ電話をかけた。
「もしもし。マリーナ・ステパノヴナ様でしょうか」
「はい、そうですけど……どちら様ですか?」
電話の向こうから、母の声が聞こえた。
「中央病院の医師です。本日、息子さんが屋上から転落されまして……」
医師は一度、深く息を吸った。
「残念ながら、亡くなられました」
電話の向こうが沈黙した。
長い沈黙だった。
やがて、かすれた声が返ってくる。
「……誰ですか? 冗談でしょう? そんな悪ふざけ、やめてください」
「マリーナ・ステパノヴナ様。私も、これが冗談であればと思います。しかし……事実です。本当に申し訳ありません」
その言葉は、マリーナの頭の中で何度も反響した。
「いや……いや、いや、いや……そんなはずない……私のアンドリューシャが……」
電話の向こうで、泣き崩れる声が聞こえた。
「どうか落ち着いてください。心よりお悔やみ申し上げます。ですが、病院までお越しいただき、いくつか書類に署名していただく必要があります」
返事はなかった。
聞こえるのは、母の泣き声と、何度も繰り返されるアンドレイの名前だけだった。
二時間後。
マリーナはようやく少しだけ落ち着き、タクシーを呼んで病院へ向かった。
病院に着くと、受付の看護師に声をかけた。
「すみません……私はアンドレイ・ステパノフの母です。主任の先生から、書類に署名するよう言われて……」
看護師はマリーナを見た。
目は赤く腫れ、唇は震えている。
二時間経っても、彼女の悲しみは少しも薄れていなかった。
「はい。こちらへどうぞ」
看護師は静かにそう言い、マリーナを案内した。
向かった先は、病院の霊安室だった。
扉の前には、先ほど電話をかけた医師が立っていた。
「マリーナ・ステパノヴナ様ですね」
「……はい」
「こちらへ」
医師は扉を開け、マリーナを中へ案内した。
そこには、彼女の息子の遺体が横たわっていた。
マリーナは耐えられなかった。
膝から崩れ落ち、床に座り込む。
そして何度も、何度も繰り返した。
「私の子……私のアンドリューシャ……あなたがいなくなったら、私はどうやって生きればいいの……」
その声は、冷たい部屋の中に響き続けた。
――頭が痛い。
アンドレイは、ぼんやりとそう思った。
(ここは……どこだ?)
ゆっくりと目を開ける。
視界に入ったのは、見知らぬ女性だった。
驚くほど美しい女性だ。
金色の髪は柔らかな光をまとい、まるで絵本に出てくる姫君のようだった。
だが、それ以上に目を引いたものがある。
耳だ。
長い。
尖っている。
(……いや、待て)
(この人、コスプレイヤーか?)
(だとしたら、完成度が高すぎる)
そんなことを考えていると、女性はアンドレイをそっと抱き上げた。
「ごめんなさいね、起こしちゃった? 小さなアデル。お腹が空いたのね」
(アデル?)
(誰だ、それは)
(俺はアンドレイだ)
女性は優しく彼を抱き、服の肩紐を下ろした。
そして、彼の口元へ自分の胸を近づける。
(なっ、何してるんですか、奥さん!?)
(俺はアンドレイであって、アデルとかいう赤ん坊じゃ――)
抵抗しようとしたその瞬間、アンドレイは部屋の鏡に映った自分の姿を見た。
そこにいたのは、赤ん坊だった。
「――!?」
声を出そうとしても、口から出たのは意味のない泣き声だけだった。
(本当に赤ん坊だ)
(待て)
(ちょっと待て)
(俺は死んだのか?)
(そして、赤ん坊に生まれ変わったのか?)
(いや、それだけじゃない)
鏡に映る赤ん坊には、長い耳があった。
そして、柔らかな金色の髪。
(まさか)
(まさか、まさか、まさか)
(俺は――)
本当に、エルフになっていた。
第一話 終




