第15話 初めての戦闘経験(第三部)
第15話 初めての戦闘経験(第三部)
アデルは、指を木の幹に食い込ませながら、ゆっくりと巨大な枝の上へ体を引き上げた。
下から見たときよりも、その木はずっと高かった。
一度だけ下を見た瞬間、地面はぼやけた緑の谷のように見えた。
だが、不思議と恐怖はなかった。
それが、かえって不気味だった。
その頃。
ダンジョンから離れた場所で、ヴィレンとマーヴィンは透明な球体を通してアデルの試練を見守っていた。
球の中では、巨大な枝の上にいるアデルの姿がかすかに揺れている。
マーヴィンはその光景を見つめながら、慎重に口を開いた。
「旦那様。坊ちゃまは、高いところが苦手だったのでは?」
ヴィレンは静かに笑った。
「苦手だった。そこが大事だ、マーヴィン。“だった”のだよ」
彼は枝の上、アデルのそばに座る小さな妖精を指さした。
「私はあの小さな悪童に、一つだけ役に立つ術を教えておいた。恐怖そのものを消すわけではない。記憶を覗き込むわけでもない。ただ、記憶と肉体の反応のつながりを一時的に封じるだけだ」
「つまり、坊ちゃまは自分が高所を恐れていることを覚えているのですか?」
「覚えている」
ヴィレンは頷いた。
「だが、体がその恐怖に従わなくなる。ほんの短い間だけな」
マーヴィンは眉をひそめた。
「危険な術ですね」
「非常に危険だ」
ヴィレンはあっさりと言った。
「だからこそ、私はアデルではなく、あの妖精に教えたのだ」
マーヴィンは、改めてヴィレンを見つめる。
「恐怖を封じるなど……坊ちゃまの未熟な心に影響はないのでしょうか?」
ヴィレンは軽く指を振った。
「ない。あの術は意識をいじるものではないし、記憶を消すものでもない。ただ、恐怖に対する体の反応を一時的に抑えているだけだ」
「では、何が危険なのです?」
ヴィレンは球体へ視線を戻した。
その中で、アデルは巨大な枝の上に立ち上がっていた。下を見ることもなく、まるでそこが地面であるかのように。
「恐怖は消えない」
ヴィレンは静かに言った。
「ただ待っているだけだ。そして術が切れれば、封じていたものは一気に戻ってくる」
マーヴィンの表情が険しくなる。
「つまり、そのとき坊ちゃまがまだ高い場所にいたら……」
「気を失うだろうな」
ヴィレンは短く答えた。
「よくて、だが」
一方、その頃。
ダンジョンの中で、アデルは逃げたゴブリンを見つけていた。
「……見つけた」
彼は目を細める。
木々の間に、いくつもの小さな影が揺れていた。
逃げたゴブリンは、さきほどアデルと遭遇した場所を指さしながら、仲間らしきゴブリンたちへ何かを早口で鳴き立てている。
アデルのそばを飛んでいた妖精が、ふいに小さく震えた。
「ご主人様……術が弱くなってる」
アデルは顔だけを向けた。
「どれくらい持つ?」
「二分。よくて三分」
アデルは、そっと下を見た。
地面は遠かった。
あまりにも遠い。
そしてこの瞬間、意識の端で、何かが小さく蠢いた。
恐怖だ。
(まずいな)
アデルは枝の上で息を吐いた。
(このまま木の上にいたら、術が切れた瞬間に終わる)
彼は迷わなかった。
枝から飛び降りる。
落下の終わり際、アデルは風を足元に集めた。
空気が柔らかく彼の体を受け止め、衝撃を殺す。
地面に着くと同時に、彼は肩から転がり、そのまま近くの茂みへ身を隠した。
数秒後。
木々の向こうから、さきほどのゴブリンが飛び出してきた。
興奮したように鳴き、腕を振り回しながら、草原の方を何度も指さしている。
「肉! そこ肉! 仲間、殺す! 俺、逃げる! 助け呼ぶ! 強い肉!」
もちろん、アデルにはその意味は分からない。
彼の耳には、耳障りな甲高い鳴き声にしか聞こえなかった。
そのゴブリンの頭を、後ろから誰かが乱暴に叩いた。
ごつん、という鈍い音。
影の中から、奇妙なゴブリンが現れた。
ほかのゴブリンより少し背が高い。
そして何より、顔に黒いルーンのような模様が走っていた。
まるで皮膚に焼きつけられた傷跡のように。
「肉……俺たちのもの、違う」
ルーンのゴブリンは、低く濁った声で言った。
「肉、闇の主に必要。食べる、違う。経験値。肉多い、経験値多い。闇の主、喜ぶ」
彼は自分の頭を指の関節でこつこつと叩き、歪んだ笑みを浮かべた。
「主、頭を静かにする」
アデルには、やはり言葉の意味は分からなかった。
だが、顔にルーンを持つゴブリンを見た瞬間、彼の表情が変わった。
(何だ、あれ)
ベスティアリに、あんなゴブリンは載っていなかった。
普通のゴブリンは単体では弱い。
群れになると危険。
単純な階級を持ち、アルファが群れをまとめる。
それだけだ。
ルーンなどない。
あんな異様な気配もない。
そして、あの妙に落ち着いた動きも。
(あれは普通のゴブリンじゃない)
アデルはゆっくりと妖精へ視線を向けた。
そして、ゴブリンたちの方を指さす。
次に、短く手を下へ振った。
妖精はすぐに命令を理解した。
彼女は空へ舞い上がり、ゴブリンたちの上から淡い光を帯びた鱗粉を撒き散らす。
最初に反応したのは、ルーンのゴブリンだった。
彼の目が大きく見開かれた。
次の瞬間、彼は反射的に後ろへ跳び退く。
まるで、危険を誰よりも早く察知したかのように。
だが、ほかのゴブリンたちには遅すぎた。
一体。
また一体。
ゴブリンたちは地面へ崩れ落ち、かぎ爪のような指で頭を抱えた。
耳を裂くような悲鳴が、ダンジョン中に響き渡る。
「闇の主! 殺さない! ゴブリン、主に従う!」
アデルは眉をひそめた。
彼には、やはりその言葉は分からない。
けれど、恐怖だけは分かった。
妖精は命令を果たすと、急いでアデルのもとへ戻ろうとした。
それが失敗だった。
ルーンのゴブリンが、その動きを見逃さなかった。
彼の目が細くなる。
次の瞬間、腰に下げていた斧を抜き、妖精が戻ろうとした茂みへ向けて投げつけた。
アデルは即座に剣を抜いた。
金属と金属がぶつかる音。
斧はアデルの剣に弾かれ、横へ飛んで木の幹に突き刺さった。
もう、隠れる意味はなかった。
アデルは茂みから姿を現し、剣を構える。
ルーンのゴブリンは歪んだ笑みを浮かべ、喉を鳴らすように何かを呟いた。
「肉……経験値……主、頭を静かにする」
そして、彼は力強く地面を踏み鳴らした。
どん、と鈍い音が響く。
すると、さきほどまで恐怖と苦痛にのたうっていたゴブリンたちが、ゆっくりと立ち上がり始めた。
口が大きく裂けるように開き、目からは光が消えている。
彼らはもう、怯えているようには見えなかった。
壊れているように見えた。
「……ちっ」
アデルは小さく息を吐いた。
最初のゴブリンが、右肩を狙って上から飛びかかってくる。
アデルは風を叩きつけた。
ゴブリンの体が横へ吹き飛ぶ。
だが、次の瞬間。
二体目が低く飛び込み、アデルの足首へ食らいついた。
鋭い痛みが、脚を貫く。
「くっ……!」
歯が肉に食い込む。
(痛い……!)
アデルの顔が苦痛に歪んだ。
「この、野郎!」
彼は剣を振り下ろし、そのゴブリンの首を斬り落とした。
だが。
頭を失っても、ゴブリンの体は離れなかった。
切り落とされた頭の顎だけが、なおもアデルの足首に食い込み続けている。
歯は、さらに深く肉へ沈んだ。
アデルは息を呑む。
(普通じゃない)
これは、ベスティアリに載っていたゴブリンではない。
少なくとも、ただのゴブリンではない。
第十五話 終




