第16話 初めての戦闘経験(第四部)
第16話 初めての戦闘経験(第四部)
アデルは素早く後ろへ転がり、次の跳びかかりをかわした。
三体目と四体目のゴブリンが、ほぼ同時に彼へ襲いかかってくる。
大きく開かれた口。
光のない目。
その動きは、もはや生き物というより、見えない糸で操られている人形のようだった。
アデルは歯を食いしばり、風を叩きつけた。
掌から放たれた風の衝撃が、横から二体のゴブリンを吹き飛ばす。
一体は鈍い音を立てて木の幹に叩きつけられ、もう一体は地面を転がって動かなくなった。
アデルはすぐに、自分の足元へ視線を落とした。
首を失ったゴブリンが、まだ彼の足首を離していない。
死んだはずの顎が、肉へさらに深く食い込んでいた。
「気持ち悪いな、本当に……」
アデルはゴブリンの切り落とされた頭を髪ごと掴み、力任せに引き剥がした。
ようやく顎が開く。
足首から、血が流れ出した。
アデルは重く息を吐き、乾いた笑みを浮かべた。
「これはもう……冗談じゃ済まないな。昨日まで初めての戦いだって喜んでたのに。はは……」
その笑いは、少しも楽しそうではなかった。
ルーンのゴブリンは待たなかった。
アデルが普通のゴブリンたちに気を取られている間に、奴は落ちていた斧を拾い上げ、彼の背後の茂みへ身を潜めていた。
その動きは、普通のゴブリンよりもずっと静かで、ずっと慎重だった。
最初に気づいたのは、妖精だった。
「ご主人様! あの変なゴブリン、後ろ!」
アデルは即座に振り返った。
ルーンのゴブリンは、すでに茂みから飛び出していた。
斧を振り上げ、アデルの背中へ叩き込もうとしている。
アデルは掌を地面へ向け、相手の足元へ風を放った。
地面が風圧で震える。
ルーンのゴブリンの体が上へ跳ね上がった。
だが、空中に放り出されても、奴は動揺しなかった。
体をひねり、牙をむき出しにして、持っていた斧をアデルの頭へ向けて投げつける。
アデルは剣を上げた。
金属同士がぶつかる甲高い音。
斧は剣に弾かれ、横へ飛び、木の幹へ深く突き刺さった。
「しつこいんだよ」
アデルは腕を振った。
風の刃が、空気を裂いて飛ぶ。
次の瞬間。
ルーンのゴブリンの首が、胴体から離れた。
一瞬だけ、世界が静まり返った。
残っていたゴブリンたちが、びくりと震える。
まるで、操っていた糸が切れたかのように。
空っぽだった目に、ゆっくりと恐怖が戻っていく。
そして一体、また一体と、力を失ったように地面へ崩れ落ちた。
アデルは剣を下ろし、ルーンのゴブリンの死体を見下ろした。
「……やっぱり、お前が操ってたのか」
彼は数秒、その場に立ったまま耳を澄ませた。
周囲は静かだった。
叫び声も、唸り声も、鋼の音も消えている。
静かすぎるほどに。
アデルは顔をしかめ、自分の足首を見た。
ずきずきと痛む。
傷口から、血がゆっくり流れていた。
「楽しいな……本当に楽しい」
彼は皮肉っぽく呟いた。
アデルは肩から、マーヴィンにもらったリュックを下ろした。
中を探り、縄を取り出す。
ゴブリンたちはまだ気を失っている。
だが、先ほどの光景を見たあとで、自由にしておくほど彼は甘くなかった。
「妖精、見張ってて。少しでも動いたら教えて」
妖精はすぐに頷き、少し高い位置へ飛び上がった。
アデルは足を引きずりながら、気絶したゴブリンたちを近くの木へ引きずっていく。
一体ずつ、縄で幹に縛りつけた。
噛まれた足で動くのはかなり痛かった。
だが、今ここで我慢する方がいい。
後でまた足首に噛みつかれるよりは、ずっとましだ。
最後の一体を縛り終えたところで、アデルは近くの切り株に腰を下ろした。
深く、長く息を吐く。
「……やっと足を見られる」
彼は再びリュックを開き、包帯と小さな水筒を取り出した。
傷口は、かなり嫌な見た目をしていた。
歯形。
血。
泥。
そして、少し腫れ始めている皮膚。
「ゴブリンに狂犬病とかないよな……」
アデルは暗い顔で呟いた。
妖精が首をかしげる。
「狂犬病って何?」
「病気。嫌な病気。すごく嫌な病気」
アデルは水筒の水で慎重に傷口を洗った。
鋭い痛みが走り、思わず息を吸い込む。
「っ……!」
それでも、彼は歯を食いしばって包帯を巻き始めた。
「くそ……首がなくても離さないとか、どんな執念だよ」
包帯を巻き終えると、アデルはリュックからベスティアリを取り出した。
ゴブリンの項目を開く。
妖精は彼の肩に腰を下ろし、アデルの手元を興味深そうに覗き込んだ。
彼は古い記述の余白に、新しい文字を書き足していく。
『ゴブリン項目への追記』
『未知の個体を確認。仮称――ルーン・ゴブリン』
『特徴:顔面に黒いルーン状の模様。危険察知能力が高く、悪夢の妖精による精神干渉に抵抗した』
『観察:悪夢の効果を受けた通常ゴブリンが、恐怖と苦痛の兆候を示しながらも行動を継続。ルーン・ゴブリン死亡後、通常ゴブリンたちは意識を失った』
『推測:ルーン・ゴブリンは、何らかの方法で通常ゴブリンの恐怖を抑制、または行動を支配している可能性がある』
『危険度:通常個体より高い』
『推奨:遭遇時は、まずルーン・ゴブリンを排除すること。通常ゴブリンも接近させてはならない。致命傷を受けた個体であっても、対象を拘束し続ける可能性がある』
アデルは筆を止め、横に描いた拙い絵を眺めた。
ルーンのゴブリンは、醜いながらも特徴は掴めている。
長く歪んだ口。
尖った耳。
顔に走る黒い線。
「まあ、これでいいか」
アデルは小さく呟いた。
妖精が首を傾げる。
どうやら絵を評価しているらしい。
「ご主人様、絵が下手」
アデルはゆっくりと彼女の方を向いた。
「ご主人様は今、足を食いちぎられかけたばかりなんだ。絵が下手でも許される」
妖精は賢く黙った。
アデルはベスティアリを閉じ、疲れ切った息を吐きながら上を見上げる。
そこには星も月もなかった。
ただ、ダンジョンの高い天井が、奇妙な夜の光に包まれているだけだった。
その光は本物の夜空のように見える。
けれど、見れば見るほど分かる。
あれは空ではない。
ただの模倣だ。
美しい。
静かだ。
だからこそ、少し不気味だった。
「はあ……女神様」
そう呟いた直後、アデルは顔をしかめた。
「まずいな。師匠の言葉が完全に染みついてる。もう少ししたら、朝食前に祈り始めそうだ」
彼は姿勢を直そうとした。
その瞬間。
遅れていた術の反動が、ついに彼を襲った。
妖精が一時的に封じていた高所への恐怖。
それが一気に戻ってきた。
頭の中に、巨大な枝の記憶がよみがえる。
足元に広がる深い空間。
遥か下の地面。
落ちたら終わるという感覚。
アデルの体が、がくりと折れた。
胃がひっくり返る。
彼は切り株の横に吐いた。
妖精は驚いて肩から飛び上がる。
アデルはしばらく荒く息を吐いたあと、手の甲で口元を拭った。
「……高いところなんて嫌いだ。この術も嫌いだ。ゴブリンも嫌いだ。特にルーン付きは大嫌いだ」
彼は木にもたれかかり、目を閉じた。
「ゲームみたいなものだと思ってたんだよ。初戦闘、経験値、戦利品、ちょっとした英雄気分……はは。現実はこれだ。ルーン・ゴブリン、噛まれた足、術の反動で吐く俺。それに、絵を馬鹿にする妖精の使い魔」
妖精はそっと彼の肩へ戻ってきた。
アデルは片目だけ開ける。
「……まあ、今日は助かったよ」
彼はリュックに手を入れ、少し探る。
そして、小さなチョコレートクッキーを取り出した。
「ほら。ご褒美だ」
妖精は動きを止めた。
ボタンのような目が、さらに丸くなったように見える。
彼女は両手でそっとクッキーを受け取ると、大事そうに胸へ抱きしめた。
「ご主人様、いい人」
アデルは疲れた顔で笑った。
「今のうちに覚えておいて。今日このあと、ずっといい人でいられる保証はないから」
彼は縛られたゴブリンたちを見た。
次に、ルーンのゴブリンの死体へ視線を向ける。
笑みが消える。
「……ベスティアリには、こんなの絶対に載ってなかった」
第十六話 終




