第11話 ついに肉だ!
第11話 ついに肉だ!
ヴィレンの屋敷の廊下は、思っていた以上に長かった。
石造りの壁には古い絵画や見知らぬ紋章が飾られ、ところどころに淡い魔法の灯りが浮かんでいる。
アデルはヴィレンの後ろを歩きながら、何度も周囲を見回した。
(本当に広いな……。竜の住処っていうより、完全に貴族の屋敷じゃないか)
やがて二人は、屋敷のかなり奥まった場所へたどり着いた。
そこにあったのは、昔は使用人たちが使っていたらしい部屋だった。
ヴィレンが扉を開ける。
中は広かった。
何台もの寝台が並んでいる。
だが、長い間使われていなかったはずなのに、部屋は驚くほど清潔だった。
まるで、ついさっき掃除されたばかりのように。
「ここをお前の部屋にしよう」
ヴィレンはそう言って、部屋の中を見回した。
「好きな寝台を選びなさい」
アデルは少しだけ迷ったあと、一番質素で、けれどきちんと整えられている寝台を指さした。
「これがいい」
「よし」
ヴィレンは軽く手を振った。
すると、選ばれなかった寝台がふわりと浮かび上がり、音もなく部屋の隅へ消えていく。
さらに、アデルが選んだ寝台だけがゆっくりと移動し、部屋の奥の落ち着いた場所へ置かれた。
(おお……便利すぎる)
アデルは素直に感心した。
魔法とは、本当に便利なものらしい。
「明日には、必要な家具を運ばせよう」
ヴィレンはそう言うと、軽く手を叩いた。
「それと……お前の小さな友人を呼んでおくか」
ほどなくして、悪夢の妖精が部屋に飛び込んできた。
彼女はアデルの姿を見ると、少しほっとしたように羽を震わせる。
ヴィレンは二人を見比べ、満足そうに頷いた。
「では、私はこれで失礼する。今日はゆっくり休みなさい」
そう言い残し、彼は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
部屋には、アデルと悪夢の妖精だけが残された。
アデルは妖精を見た。
「そういえば、君はこの二日間どこにいたの?」
妖精は待ってましたと言わんばかりに、ふわふわと飛びながら話し始めた。
どうやら、アデルが気を失っている間、彼女は屋敷の中でかなり肩身の狭い思いをしていたらしい。
ヴェルデリアには興味深そうに観察され、ヴィレンには何度も注意され、知らない部屋では迷いかけた。
そんな話を、彼女は身振り手振りを交えて必死に語った。
アデルは黙って聞いていた。
というより、途中から半分ほど聞き流していた。
(この子、意外とよくしゃべるな……)
話がひと段落すると、アデルは寝台に腰を下ろした。
そして、ヴィレンからもらった本を手に取る。
古びた本。
表紙は傷だらけで、ところどころ擦り切れている。
そして、かすかに嫌な匂いがした。
表紙には、英字のようにも見える二つの文字が刻まれていた。
X Y
アデルは眉を寄せる。
(これは……何の意味だ?)
彼はゆっくりと本を開いた。
その瞬間。
ぶわっ、と埃の霧が顔面を襲った。
「げほっ、げほっ! くしゅん!」
アデルは何度も咳き込み、くしゃみをした。
妖精が少し離れた場所からそれを見ている。
「……汚い本」
「うるさい」
アデルは涙目になりながら、手で埃を払った。
ようやく呼吸が落ち着くと、彼は改めて最初のページを開く。
そこには、目次のようなものが書かれていた。
『第一頁
古典的な魔物』
『二足歩行型 三頁から十頁』
『四足歩行型 十一頁から二十一頁』
『節足動物型 二十二頁から三十頁』
アデルの目が輝いた。
(おお、これは便利だな。まずは二足歩行型から読んでみるか)
彼はページをめくった。
『第三頁
二足歩行型
ゴブリン』
『ゴブリンは、比較的よく見られる古典的な魔物である。単体では弱く、一体ずつなら倒すことは難しくない。しかし群れを作ると危険度が増す。確認された最大個体数は二千四十八体。推奨武器は特になし。推奨魔法も特になし。聖属性への弱点なし。闇属性への弱点なし。討伐時の経験値は個体差あり』
(へえ、ゴブリンってやっぱり弱いんだな)
アデルはページに描かれた手描きの絵を見た。
そこには、歪んだ顔と細い手足を持つ小鬼のような魔物が描かれていた。
(うわ……見た目は最悪だな。でも絵は上手い)
アデルは嫌そうに顔をしかめながらも、作者の画力には感心した。
さらに読み進める。
『ゴブリンの雌は非常に少ない。そのため雄は群れを作り、雌を守ろうとする。過去には、繁殖のために他種族の女性をさらった例もある。群れには階級が存在し、通常はアルファの雄が頂点に立つ。アルファは雌と交配し、より強い子孫を残す権利を持つ。ただし、雌が群れの長となる例も確認されている』
ページの最後には、こう書かれていた。
『ゴブリン――研究済み』
(なるほど……思ったより生態がちゃんと書いてあるな)
アデルは本を閉じかけたが、好奇心が勝った。
(もう一体だけ読んでから寝よう)
彼は次のページを開いた。
『第四頁
二足歩行型
コボルト』
『コボルトは、人型の獣に似た魔物である。危険度は低中程度。討伐方法は特に問わない。四、五体のゴブリンの群れよりは強い。一般人にとっては極めて危険だが、剣を初歩的に扱える者にとっても油断できない相手である』
アデルは小さく唸る。
(ゴブリンより強いのか。最初に会いたくはないな)
さらに読み進めた。
『群れを作ることはまれである。理由は雌をめぐる争いが激しく、雄同士の仲が悪いためである。場合によっては、群れ全体が殺し合いで壊滅することもある。知能は五歳児程度。革鎧を身につける個体が多いため、推奨武器は刺突、あるいは打撃系。推奨魔法は特になし。聖属性への弱点なし。闇属性への耐性はごくわずか』
アデルは挿絵を見た。
そこには、舌を出した、狼男の出来損ないのような魔物が描かれていた。
片方の目は妙な方向を向いている。
(見た目、かなりきついな……。まあ、魔物なんだから当然か。見た目も習性もひどいから魔物って呼ばれてるんだろうし)
『コボルトとの遭遇は比較的まれである』
そこで、コボルトの項目は終わっていた。
アデルは本を閉じた。
急に眠気が押し寄せてくる。
まぶたが重い。
(面白いけど……今日はもう無理だな)
彼は本を枕の下へ押し込み、そのまま寝台に横になった。
妖精は彼の枕元に座り、小さく羽を畳む。
「おやすみ、主人」
「うん……おやすみ」
アデルはすぐに眠りへ落ちた。
翌朝。
「起きなさい、歌え、我が愛しき弟子よ!」
部屋の扉が勢いよく開いた。
ヴィレンだった。
彼は朝から異様に元気だった。
新しい弟子ができた喜びが、まだまったく収まっていないらしい。
一方のアデルは、寝台の中でぐったりしていた。
(ああ……朝からうるさい。あと五分だけ寝かせてくれ……)
だが、ヴィレンに待つ気はなかった。
彼はアデルの布団を勢いよく引き剥がす。
「アデル、起きなさい。アデル、起きなさい。今日は我らの最初の授業の日だぞ」
「うう……」
「アデル、起きなさい」
ヴィレンはアデルの肩をつかみ、軽く揺さぶる。
「起きなさい」
「分かった、分かったから……!」
ようやく完全に目を覚ましたアデルを見て、ヴィレンは満足そうに一歩下がった。
「よし。朝食はもうすぐ用意される」
その一言で、アデルの目が覚めた。
「朝食?」
彼は飛び起きた。
すばやく着替え、部屋を出ようとする。
だが、扉の近くに置かれた桶に気づいた。
中には、透き通った水が入っている。
(そうだ。さすがに顔くらい洗わないとな)
アデルは水で顔を洗い、身なりを整えてから部屋を出た。
廊下の先では、ヴィレンが待っていた。
彼は手招きする。
「こちらだ」
アデルは小走りで近づき、ヴィレンとともに食堂へ向かった。
食堂は広かった。
いや、広すぎた。
中央には大きな長机が置かれており、百人は座れそうだった。
(でかすぎるだろ……。何人で食べる前提なんだ)
アデルは椅子に座り、食事が運ばれてくるのを待った。
しばらくして、食堂の扉が開く。
入ってきたのは、背の高い男性だった。
姿勢がよく、品のある顔立ち。
髭はなく、髪はきれいに後ろへ撫でつけられている。
服装は、いかにも執事らしい黒の礼服。
その両手には、二つの蓋付きの盆があった。
彼は静かにテーブルへ近づき、ヴィレンとアデルの前にそれぞれ盆を置いた。
そして、ゆっくりと蓋を外す。
まず、アデルの盆。
そこにあったのは、米料理だった。
白い米の上には、細く切られた人参と、ほんの少しの玉ねぎが飾られている。
悪くはない。
悪くはないのだが――
次に、ヴィレンの盆。
そこには、肉があった。
ただの肉ではない。
大きな肉。
いや、大きいどころではない。
巨大なステーキだった。
焼き目は美しく、肉汁が表面に光っている。
香ばしい匂いが、食堂いっぱいに広がった。
アデルは固まった。
(……肉)
彼の視線が、ステーキに釘づけになる。
(肉だ。間違いない。あれは肉だ。六十年ぶりの肉だ)
香りが鼻をくすぐる。
胃が激しく反応した。
(ああ……この匂い。なんて暴力的なんだ。吸うだけで理性が削られる)
アデルの口元から、少しだけ涎が垂れそうになった。
(食べたい。絶対に食べたい。今すぐ食べたい)
ヴィレンはその視線に気づいた。
そして、思わず目を丸くする。
それは、エルフの子が食べ物を見る目ではなかった。
完全に、獲物を見つけた肉食獣の目だった。
(……なんだ、この目は)
ヴィレンは内心で驚いた。
これまでのエルフは、肉を見るだけで顔をしかめた。
匂いを嗅ぐだけで嫌がる者も多かった。
だというのに、アデルは違う。
嫌悪どころか、欲望そのものの目でステーキを見つめている。
ヴィレンは少し考えた。
そして、ステーキの四分の一を切り分け、アデルの皿へ乗せた。
「食べてみるか?」
アデルは感動した。
まるで、砂漠で水を差し出された旅人のように。
「……いいの?」
「もちろんだ」
その言葉を聞いた瞬間、アデルは肉へ飛びついた。
上品さなどなかった。
長い間飢えていた獣が獲物に食らいつくように、彼は夢中で肉を食べた。
噛む。
肉汁が口の中に広がる。
香ばしい脂。
柔らかい食感。
濃厚な旨味。
(肉……!)
アデルの顔に、満面の笑みが広がった。
(肉、肉、肉! うまい! やっぱり肉は最高だ!)
だが、そこで彼は首を横に振った。
(いや、違う。俺が本当に愛しているのは肉じゃない。ペリメニだ)
そして、さらに笑みが深くなる。
(じいちゃんが肉をくれた。つまり、この世界でも肉は食べられる。なら……いつかペリメニも食べられるはずだ!)
その未来を想像しただけで、アデルの表情はさらに幸せそうになった。
ヴィレンは、その食べっぷりを見ていた。
そして――自分まで腹が減ってきた。
「……ふむ」
彼は残ったステーキへ視線を落とす。
「よく食べる弟子だ」
そう呟きながら、ヴィレンも肉を口へ運んだ。
食堂には、しばらくの間、二人が朝食を取る静かな音だけが響いていた。
そしてアデルは、この日を忘れないだろう。
なぜなら。
この世界に来て初めて、彼は心からこう思ったからだ。
(ついに……肉だ!)
第十一話 終




