Wind is high
登場人物
黒瀬結衣:女子高生(2年生) 白谷駿とは家が隣で幼馴染で腐れ縁で同じクラス 魔法使い(術者)だが現在はその魔法のリハビリ中 成績は優秀 眼鏡を掛けている 4月8日生まれ
白谷駿:男子高生(2年生) 黒瀬結衣とは家が隣で幼馴染で腐れ縁で同じクラス 実は存在自体がレアな男子の魔法使い 成績は下あたりから最近は普通くらいに 3月25日生まれ
御寺由紀:女性 非公開省庁である"魔法庁"の職員 水商売っぽい出で立ちをしている 風をメインに使う術者 28歳 喫煙者
デパートの8階までエスカレーターで上がりると、時間のせいか、レストラン街のフロアは閑散としていた。時折おやつ代わりに何か甘いものでもと考えたご婦人方が喫茶店やパーラーに入ってゆく姿は見えていたが、何処かゴーストタウンを彷彿とさせるくらいの人気の少なさに、白谷駿と黒瀬結衣の二人は面食らっていた。
「……人少ねーな……」
「休日しか見てないせいもあるけど、普段の日ってこんな感じなのね……」
店内BGMがかかっており、楽し気な雰囲気はあるが、人がぽつぽつとしかいないのでなおさら侘しさが募ってきているように、駿は感じた。周辺の店からはおいしそうな匂いがしている分、それは尚更だった。
エスカレーターから15歩くらいの所に屋上へと続く階段があるが、二人以外に上がろうとする者や下りてくる人は見受けられない。
結衣はまだ鼻がぐずってる。この匂いを嗅げないのは可哀想だと思いつつ、逆に匂いで空腹感が増大はしないだろうからまだいいのかと余計な事を思いながら駿は階段を幼馴染と上がっていった。
……と、駿は一瞬何かを感じてその足を止めた。
「……どうしたの?」
「……気のせい、か……?」
「なにが……?」
ぐずる鼻をすすりながら結衣が訊く。まだ鼻声が治ってない。
駿は、鼻に神経を集中させる。しかし、さっき鼻をくすぐった"何か"はもう感じる事が出来なかった。
「……気のせい、か……」
そういうことはたまにあるよなぁ、と駿は中に潜む疑いをねじ伏せるように自分を納得させた。
「ホントどうしたの?駿……また変な事──」
「あ、違うそれじゃない。これは多分勘違いだ」
「そお? それならいいけど」
じゃあ上がりましょ、とばかりに結衣が再び階段を上り出す。遅れじと駿も歩調を合わせた。
二人は階段を上り切り、ガラスの扉の向こう側を見る。
案の定、人影は見えなかった。
「……貸し切り状態だな」
駿は呟くと同時に扉を開けた。滞留していた店内の温かい空気と入れ替わるように、春先の、身は引き締まるが冷たさをいくらか緩和したかのような風がさわやかに入ってゆく。冬の時とは違い、長くいても体が極端に冷えることはないように思えた。
2月に来た時とは違い、何時でも遊具に乗れますよとばかりにカバーは外されている。ゲーム機で長く遊んでも寒さとの耐久レースをしなくてもいい季節なのだが、時間が悪いせいか駿と結衣の二人以外には誰もいなかった。もちろん、二人の目的は遊具に乗るとかゲームするとかじゃなく、ただ単に景色を見たいがため、だが。
景色を眺めるいつもの場所へと二人は歩いてゆく。
その途中、違和感が駿の足を止めた。結衣に置いてかれるような恰好で、ぽつねんと立ちすくむ。駿は周囲を見回し、その違和感の原因を探り、やがてそれを見つけて言葉を呟いた。
「……BGMかかってない?」
「どうしたの?」
駿の呟きが聞こえたか、結衣もその足を止めた。駿が呼んだかのように、彼女は幼馴染の所へと戻ってくる。
「……この前来たときは店内BGMが掛かってたように思ったけど……?」
「うん? いや……この前来たときもBGM掛かってなかったよ?」
「……だったっけ?」
「掛かってたのは去年のゴールデンウィーク前に来た時だったはず」
結衣はそう言うと、春先ののんびりとした青空に記憶のビジョンを描いて、言った事を確認しているようだった。
駿は幼馴染から言われて改めて記憶の再検索を行った。曖昧になりそうな記憶を慎重に引っ張り出し、何度も再生し、確認して……
「……そう言われればそうだった、ような気がする……」
確信はないが、記憶に入っているその時のビジョンには音楽はなかった気がしてきた。結衣にそう言われたせいかもしれないが、駿は少なくともそう思いだしていた。
「故障したのかな? スピーカー」
「冬の間、人がほとんど来なかったから電源切ってそのままにしてたんじゃない?」
「……そんなんかなぁ」
それにしてもBGMが掛かってない人がほとんどいない屋上って何か凄く寂しいなぁ、ともう一度周囲を見回しながら駿は思った。こんなにいい天気で気持ちいい日なのに。
まあ、店の人も判ってるからもう修理する手はずになってるんだろう──そう解釈した駿は、再び歩き出した。それを見て結衣も歩調を合わせる。
「あー気持ちいい!」
いつもの場所に着いた結衣が両手を突き上げて叫ぶ。それに呼応するように、ふわりと柔らかな当たりの風が二人の周囲を駆け巡ってゆく。少し肌寒い感じはするものの、その分を照らし出すお日様の日差しが補充してくれた。
「お日さんがあったかい。何かずっとここで景色見ていたい気分になるなぁ」
欄干に両手を置いて、駿は周囲をつぶさに見まわす。
デパート自体、ずば抜けて高い建物ではないせいで似たような高さのビルに景色を阻まれることはあるが、それでもこの周辺では一番高い。ましてや、屋上から眺められる場所なんて、駅前ではここ以外にはなかった。
二人が景色を楽しむ間、互いに言葉は不要だった。ただ、のんびりと、やや肌寒いかもしれない春先の風に吹かれながら、同時に温かいお日様の光を浴びて、両の眼を、気分の赴くままに風景をむさぼるように眺めていた。
ふと、結衣は東の方への眺めから右後方へと、視点を切り替える様に振り返った。何かに取り憑かれたように彼女はその方向へと視線を固定し、そして考え込むようにぼんやりとした表情を浮かべた。
「駿、もうすぐ桜の季節になるけど、今度は足羽山から見てみようか」
「足羽山? ……別にいいけど何で突然?」
「いつも足羽川ばかりだし、たまには違う所から見てみたいなぁ、って」
「俺は構わないけど……足羽山の桜というと、まあ公園もそうだけど足羽神社とか愛宕坂とか」
「そんな所かな。その後に足羽川へ行けば両方見れるでしょ?」
「……結構歩くなぁ。まあ、たまにはいいか。そんなのも」
その方向は屋上から突き出た塔屋に阻まれてほとんど見えなくなっているが、ほんの一部、山を彩る緑がちらりと二人の視界に入っていた。
市街地すぐそばにある足羽山は、もうしばらくすればあちこちに桜が咲き誇り、6月のうっとおしい梅雨の季節には、そんな気分を和らげてくれるようにアジサイが出迎えてくれる。ただ、駅前からはソコソコの距離があり、急な山道を登らないといけないのがネックになっているが……。
「福鉄の公園前駅で降りて、だったっけ?」
「そっから歩いて山道上って……でも自分、そこだけで疲れそう」
「結構傾斜あるからなぁ……」
「まあ、桜見るだけなら足羽川の堤防って手もあるけどね……そうだ、どうせお花見するならその時に自分ら8人で集団デートするってどうかな?」
「いいと思うな、それ。あいつらも話乗りそうだし」
「じゃあ今日帰ったら美紀ちゃんらに電話してみるね」
「じゃあ俺は3人に話し振ってみる」
桜が咲く季節まであと2週間ほど。その時にはもう3年生になって新学期も始まっている頃だ。受験が控えていて、おいそれと遊びには行けなくなる前にせめて……貴重な楽しむ時間を待ち望む様に、二人の表情には笑みしか見えなかった。
「結衣、買い出しどーする? 続ける?」
「どうしようねぇ……何か鼻づまり治ってないからあんまり気分乗ってこないし、買いたいもの見当たらないみたいだし……」
青空の何処かにその答えが書いてあるかのように、結衣は見上げていた。もう帰ってもいいかなと思う諦めの心と、ひょっとしたらこれから見つかるかもといった期待がごちゃ混ぜになって、収拾がつかない難しい顔になっている。
「俺はいいよ、結衣がつらくないんなら。もう昼過ぎてるんだから、どうせなら夕方まででも」
「ありがと。でもどーすっかなぁ……」
迷いは続いているようで、結衣の中で二つの考えが拮抗し、難しい顔にさらに混乱が生じてる。
「折角駅前出て来たんだし、出来る限りの事はしたら?」
「……そうしようか」
駿の言葉を待っていたかのように、結衣は優しく答えた。
「そういやさ、このデパートの裏辺りの小さいアーケードって行ったことないんだけど、結衣はある?」
「新栄……だったっけ? 言われてみればあんまり行って無いなぁ」
「深緋のやつが前に青野さんとのデートで行ったみたいなんだけど、怪しいけど結構面白そうな店があったって。その辺り行ってみる?」
「うん、行く!」
その声は元気しかない程に明るかった。駿もつられて笑顔になる。
「じゃあ下りようか」
それなりに景色を眺められたし、気分転換にもなった。そのせいか、結衣の鼻の状態は多少良くなったみたいで、さほどぐずらずに済んでるように駿からは見えた。
二人は出口へと歩き出す。あれから時間は経ってるものの、世間から切り離されたような屋上には、ついぞ二人以外には人は来ていなかった。
出入り口まで半分ほど歩いたその矢先だった。
「……何か鳴ってる?」
駿は来た時と同じようにその歩みを止め、様々な周囲の何かを感じ取るためにその場に立ち尽くしていた。改めて周囲を見回し、音の発生源を掴もうと耳をそばだてる。
「鳴ってる? なにが……?」
きょとんとした顔の結衣が訊く。しかし数瞬後には、彼の言ってることが判ったらしく、何かに気づいて同じように耳をそばだて始めた。
「……どっかで鳴ってるけど……」
「空耳……かなぁ?」
駿も結衣も、二人の耳には確かに何かが聞こえていた。しかし、何処が発生源までは判らずに、何かを探すように周囲を見回し、耳をそばだて、感覚を鋭敏にする。
「……ベルっぽい感じ」
結衣が聞こえてくる音を言葉にした。
「警報機?」
「……みたいな音」
「……火事?」
「にしては煙とか見かけない……」
結衣はそう言うと改めて周囲を見回す。しかし、それっぽいものは穏やかな春の空には立ち上ってはいなかった。
そして二人はハタ、と気づいた。もしかして──視線は足元に注がれた。
「……下、から……?」
駿の表情が強張った。まさか、という否定したい感情が体を駆け巡る。
「駿、急いで下りよう」
結衣の言葉に異論はない、とばかりに駿はうなづくと、自然に二人は駆け足で出入口目指して駆け出して行った──あと少しで下へと降りる階段の出入り口、という所で駿の鼻に、再びあの時の"何か"が刺激してきた。
「……これ、って……?」
駿の足が止まる。結衣も何事かと足を止めた。
「どうしたの?」
「さっき階段上がってる時に一瞬あった……でも今はさっきよりも強く──」
……駿の言葉は、答えを言う前に突然の音と光と振動に中断された。
ぐらり、と足元が変に揺れる……というより突き上げる衝撃を感じたかと思うと同時にその方向から耳をつんざく大音響が響いた。
「なっ……!?」
「な、何なの!?」
揺れの激しさで思わずふらつき、倒れそうになるのを何とか二人は堪えた。周囲を見回し何が起こったかを確かめようと、駿が階段方向を見た瞬間──まるで西部警察のロケ現場に居そうなほどの真っ赤な光が出入口の向こう側、階段から突然現れた。それらは簡単に観音扉のガラスを粉々に吹き飛ばし、二人に向かってきらめく、しかし凶悪な切っ先を伴って飛んできた。
「!」
考えるより速く、反射の速度で駿は瞬時に見えない壁を発生させる。飛んでくる破片が届く直前、春風を瞬間的に凝集したそれは二人の前面に生成できた。しかし、爆風は防げても、破片の威力は高密度な空気の盾に軌道を乱され速度を減じながらも突き抜けて来るほどだった。
幸い致命傷は負わずに済んだ。だが──
「結衣っ!」
駿の視界の片隅には、爆発をまともに見た結衣が、立ってることが能わず腰砕けになってしゃがみ込んでいた。彼女の頬に幾筋かの、軽く切り裂いたような横筋が見え、そこから血が滲み、涙を作って下りてゆくのが見える。
駿の方も身体のあちこちから、いやらしくもどかしい不快な感覚が伝わってきた。切り裂かれた服の部分からは痛みと、それ未満の痒みとが時間とともに不愉快なセッションを奏でる。
「結衣っ!大丈夫か!?立てるか……?」
「いやっ……いやあああああっ!」
眼鏡越しの彼女の瞳は完全に焦点を失って、ただ茫然と前を見ているだけだった。身体が震え出し、上半身ですら支えきれないように、彼女の腰は力を失っていた。
あの時の花火での出来事……偶然に風の魔法から火を起こしてしまった心的外傷が、今の事でまた彼女の中に頭をもたげ始めた。
「結衣、ここは危ないから端の方へ行こう。立って!」
「……ゆい、おうちへかえりたい……」
──理科室での出来事と同じことが、再び彼女に襲い掛かっていた。一時的なショック状態からの幼児退行……しかし、のんびりとしては居られなかった。
「結衣っ!ここは危ないっ……!」
「おうちへかえるの!!」
まるでおもちゃを買ってもらえなかった幼児のように四肢を振り回して暴れ、声を限りに叫んでいる彼女をなだめるのをあきらめた駿は、仕方ないとばかりに力の限りを振り絞って結衣を身体ごと抱え上げた。
出入口正面にいたら、壁を作っても抜けて来る破片でやられる──それだけは避けるべく、駿は暴れる彼女をひっしと抱き寄せ、動かせない様に力をそれなりの込め、遊具などの間を通ってゆく。時折手荒い動きに倒れそうになったり振りほどかれそうになったり……それでも、自分の命以上の宝物を手放したくないと叫び出したいほどの慎重さと力強さで、何とかガラスの破片が飛び散る出入り口付近を脱していた。
無事、遊具の陰へと移動出来た駿と結衣。落ち着こうと、何度か深呼吸をしている隣では、腕にしがみついて離そうとしない結衣が泣きじゃくり、怖さも相まってさらに腕を締め付ける。
弟が生まれた時の事を思い出しつつ、赤ちゃんをなだめすかすようにして、駿は結衣を落ち着かせようとする。その甲斐があったか、やがて彼女は眠るように肩口にうなだれ、落ち着いた。
一旦の安らぎを得る事は出来た。
しかしそれはほんのひと時だけ……と駿は思った。
意識しているせいか、火災報知機のジリジリと耳障りな警報音がさっきよりはっきりと聞こえてきているように感じる。そして爆発で下の階の窓が破れたのか、水墨画のような濃淡ハッキリとした煙が立ち上り、それが複数個所から春の青空へと立ち上っていった。
屋上から下へと降りる階段部分からも煙が立ち上っていた。しかし、それは他の部分よりも明らかに勢いが強かった──そうこうするうちに、そこから火の手が上がり始めた。
もうあの出入口は使えない。火に包まれ、ましてやさっきの爆発で階段がどうなっているか判らない。
「さっきの臭い、やっぱりガスか……」
駿が言葉を零す。それは、後悔の念が籠っていた。
ガス爆発とすると、下の階は相当めちゃくちゃになってると思われる。しかも火の手が上がってるという事は、もう下りれない状態になってると思った方が確実だった。
駿は、迷っていた。ここに留まって救助が来るのを待つか、それとも──。
「そうだ、裏に非常階段が……」
確か裏手方向……足羽川や足羽山を望む方向に階段があったはず。駿はそれを今更ながら思い出すと、疲れて眠る結衣を遊具の基礎に寄らせて、脱出路を確かめるべくその方向へと小走りに駆け寄る。
"非常階段"と書かれた看板のたもとに近寄ったその瞬間だった。
「!?」
不意に床が震え出す。同時に爆発音が轟き、下の階から炎が沸き上がっていった。爆発音以外にも、何かが落ちてゆくけたたましい音が周囲のビルの間で反響する。
炎から放たれる大量の熱を浴びた駿は思わず顔を背けてやり過ごそうとする。熱が引き、改めて彼は非常階段の状態を確かめるべく覗き込んだ──さっきの爆発音以外の音の正体が、駿の目に飛び込んで来た。
下の階へと繋がっているはずの鉄製の階段は爆発で吹き飛ばされ、先がちぎれた飴細工のようにねじ曲がり、断ち切られていた。数階下の所には、引っかかったらしい吹き飛ばされた、もはや階段の体を成していない鉄くずが爆発と炎で黒く染め上げられ、マトモな部分を潰すかのように落ちていた。
……逃げ場は、もうなかった。
「……どうする」
言葉は口に出るが、さりとて何か手の打ちようも、無い。駿はふらつく足で、失意という重りを抱えたように、結衣がいる遊具のたもとへと戻ってきた。どさり、と腰を下ろし、何気なしに空を見上げた。
「……消防車が来てくれればいいんだけど」
出入口が使えない以上、駿は屋上に留まることが正解のように思えて来た。
しかし、突然の厄災はそれを許さない。
三度、爆発が下の階で起きた。小刻みに地震のような縦揺れが二人を揺らす。
そしてとうとう、屋上の一部が崩れ始めた。床材と共に巻き込まれた遊具やビデオゲーム機などがけたたましい音を立てて沈んでゆく。それに代わって大量の埃や煙が立ち上り、チロチロと陽炎と共に火の手が見えて来た。
その陥没は、時間は掛かっているものの、その範囲をじわじわと広げ始める。音もなくコンクリートが崩れ、下の階へと落ちてゆく。二人がいる遊具の場所まで、もう5mもなかった。
そして、床自体が熱を帯びてるように感じ始めても来た。
駿は、力なく頭を伏せた。
「……そっか」
妙に冷静になった駿が、諦めにも似た言葉を口にする。
こういう運命だったんだな……もう先はそんなにないと思っていたが、まさかもう終わりの時が目の前まで近づいてきているとは。しかも、魔法のせいじゃなく、事故に巻き込まれて──駿にとっては完全に想像の外だった。
ただ、自分だけならまだいい。結衣は……長生きする資格があるのにこんなことに遭ってしまうなんて。
「……駿」
幼馴染の声が耳に届く。声自体は普段の結衣を取り戻してるような落ち着いたものだったが、ショック状態の残滓があるせいか、まだ状況を把握できてないような朦朧とした状態で彼女は語り掛けて来た。
「結衣……大丈夫か?」
ありきたりな言葉しか浮かばなかった駿が、それでもそう訊いた。見た所、体の震えとかは収まっているようだった。まだ呼吸は荒かったが、彼女は一時的なショック状態からは脱しているかのようだった。
「……何とか。今、落ち着かせてる最中だから……」
「結衣……ごめん。もう……どうにもならない」
駿が答える。
自分はまだいい。もうそんなに寿命が無いのは判っているし、それが数年先だろうが今だろうが大して違いはなかった。
ただ、結衣は──自分よりももっと長く生きていかないといけない。そんな人なのに、このままではもう何も出来ずに炎に包まれるだけだなんて……。
「どうしたの……?」
「もう出口はない。出入口も非常階段も爆発でやられてダメになっているし、すぐそこまで床が陥没し始めている。もうここもダメになってしまう……」
結衣はそう言われて、まだボーッとした、意識に靄がかかった状態で周囲を見回す。傾いた遊具や、さっきとは異なった景色を目の当たりにして、表情が次第に締まったものになっていった。違和感を感じたのか、床に手をやり、温度が上昇していることも確かめている。
現状を把握したらしく、彼女は上半身を起こし始めた。
「駿……」まだあきらめない、と言いたそうに眼鏡の奥の瞳が光を持ち始める「……こうなったら、飛び降りよう」
それは意外な言葉だった。意味が分からず、駿の意識がしばしフリーズする。
「……それって、焼け死ぬよりは……ってこと?」
「違う。飛び降りた瞬間に魔法で下にクッションを作り出すの。重なるように発生させれば、この高さからでも受け止められるはず……」
──駿は以前、結衣の母親から、衝撃を吸収できるのは時速40km/h辺りで、高さから言えば4階から飛び降りる位まで、という話を聞いていた。確かにクッションを二重にすれば、理論上は9階相当の屋上から飛び降りても全く無事ではないだろうが、死ぬ確率はかなり低くはなりそうだった。
「クッションを発生させてから飛び降りた方がいいんじゃ……?」
「それだと、もし躊躇してたらクッションが消えちゃう。そうでなくても、時間がかかると魔法の効力が切れ始めてだんだんクッションとしての効果が無くなってしまうでしょ?それじゃ二人分の衝撃を吸収できない……」
「でも、飛び降りながらの発動って危険すぎる……」
「ここにいて焼け死ぬよりは、まだ希望はあると思う。どの道死んじゃうんなら、まだ生き残る確率が高い方を選んだ方がいいと思う」
確かに今はそれしかない様に、駿は思えた。ただ、もし"言葉"の発生をしくじったら……そんな危険を冒さずに済む他に何かいい方法は──駿は考えをめぐらす。
その時、ふと浮かんだ過去の景色に、彼の顔は気色ばんだ。
「そうだ、結衣。この前おばさんが言ってた"ちいさな魔法"、あれ、使えないかな?」
あれだけの大出力なら、屋上からでも無傷に下りれるだろう……しかしそんな駿の提案を無視するかのように、結衣の表情は相変わらず沈んだままだった。
「ダメだと思う……」
「……何で?」
「あれは大規模な土砂崩れが目の前で起きて、正しく命の危険があったから発動したんじゃないかな……それから比べると、はるかに今はそこまでじゃない気がする」
「今の俺たちの状況もそうだと思うが……!」
「わかんない……わかんないけど、かといって実際に発動できるかどうかは"悪魔"に委任されてるようなものでしょ? 後日再現してみたけどことごとく不発だった、って言ってたし……」
結衣の否定に、駿はじゃあどうするんだよと言いたげに天を仰ぐ。
そんな中、結衣は言葉を続けた。まるで、誰かにそう言えと脅迫されてるように。
「生き残る確率が高い方法は、飛び降りる瞬間にクッションを作るしかないと思う。"ちいさな魔法"はその400年前の1件だけしかない。出るか出ないか判らない魔法よりは、まだ確実を選んだ方が……」
「でも、結衣はまだ完全には魔法が……」
駿が懸念を素直に告げる。
一瞬、そうなんだよね、とのつぶやきが聞こえてきそうな表情を結衣は晒した。
まだ以前の様には戻っていない上に、今の爆発を見たショックが残ってるはず。多分上手くはいかない……駿はそう思った。
「立て続けにクッションを出せればいいんだろうけど……」
「多分、1回で使える帯域全部使うから、前の魔法が揮発しない限りは使えない……」
こんな肝心な時に使えないとは──結衣の表情には、悔しさと情けなさが入り混じった感情がにじみ出ていた。
しかし、かといって出来ない事をいま、悔やんでも仕方ないとばかりに結衣は突然首を振った。それはまとわりつく様々なマイナス要因を振り払うかのように、激しく、鋭く。
深呼吸を一つ。呼吸と感情を整え体を起こし、結衣はさりげなく胸元の水晶を手に握る。
「駿……自分、何とかする」ゆっくりと彼女は駿に顔を向けた「そして笑って帰ろう、一緒に……!」
その姿は、小さかった頃、泣いていた自分を助けに来てくれた幼馴染という名のヒーローに面影が重なっていた。
「……わかった」
駿は短く答えた。彼女の笑みが伝染したのか、駿もその表情がほころんでいた。
結衣はふらつきながら立ち上がると、周囲を見回した。
何とかしてここから脱出してやる──結衣のその表情には力強さが満ちてはいる。しかしそのどこかで、爆発を……炎を見てしまった心的外傷が、喉元の小骨のように引っかかっていた。
結衣は飛び降りれそうな場所を探してまだ無事に歩ける屋上を見回った。時折沸き起こる小さな爆発に怯えながら、腰砕けになりそうな体に活を入れつつ、可能な範囲を見まわり──あった。
それはさっき、足羽山を隠すように二人の視線を邪魔していたその場所にある、何か機械室のような、屋上ギリギリに建てられているコンクリートで造られたものだった。小さな部屋のような塔屋の壁には、屋根へと上るハシゴが付けられている。多分点検用だろう、まだ火災や爆発に晒されてない風に見えた。
「駿、あそこ……」
結衣はその塔屋の方を見るよう促した。
駿は確認し、改めて幼馴染に訊いた。
「俺は登れるが……結衣は?」
「大丈夫、登れる」
結衣は言い切った。しかし、その表情には何処か脆さがあった。
それでももうそこしか道はないとばかりに二人はその塔屋にとりつき、駿がまず上り始めた。屋根に上った駿が、次いで上がってくる結衣を手助けしようと腹ばいになり、手を伸ばす。それに応えるように、結衣はハシゴを上り始めた。
その上りは、やはりゆっくりだった。駿から見ても、手足に力が入ってないのが手に取るようにわかる。火を見た怯えが、彼女の能力を制限しているようだった。
立ち込める煙と焼ける臭い。時折起こる爆ぜる音。沸き起こる炎。漂う熱と火の粉……もしテレビを点けていたならのんびりと見ていただろう景色が目の前に起こっている。夢みたいで、何かのアトラクションの様だが、そんな生易しいものではなかった。現実にそれは起こって、じわじわと二人の命を削るように進行している。
もう少しで結衣も塔屋の屋上へと上り切ろうとした時だった。
揺れが襲ってきた。何度目かの爆発の振動。
時間は短かったが、突然の事で結衣はハシゴから手を滑らせてしまいそうになる。
ハシゴにしがみつく結衣。しかし、次いで沸き起こった火柱を見てしまった彼女は、全身から力が抜けてゆき──体が、重力に従って落ちかける。
……落ちなかった。右手首に、強い力が加わっていた。
「結衣っ!落ちるな!」
駿が手を伸ばして彼女を支えた。
「駿っ!」
「結衣……もう少し」
言われた彼女は、荒れ始めた呼吸を整え、ふらつく体を固定しようと左手でハシゴを掴む。自分の足と、駿に導かれるように引っ張られて結衣も塔屋の屋上に何とか上がる事が出来た。
二人は、ほんのひと時、休むことを許されたように、荒れた息を整えながら何気なしに周りを見回した。
そこは絶景と言ってもいいほどの、景色だった。周囲に立ち上る煙や炎、立ち込める焼けた臭いが無ければ……だが。
晴れ渡る春先の空の下、国見岳や日野山、岐阜県境へとつながる山々や白山連峰が囲いの生け垣のように遠くから福井平野を取り囲む。それらよりはるかに近くにある、大きく見える足羽山の手前を足羽川が市街地を横薙ぎに斬る様に流れてゆく。それらの周囲を埋め尽くす細かなモザイクのような建物群が、乱雑に、でたらめに、いい加減で……それ自体が美しさを持っているかのような、まるで別世界のように目の前に広がっていた。
そして、平和そうだった。
命の心配をしなくていいその風景と、その危機にさらされているデパートの屋上……あまりの落差に二人は軽いめまいを覚える。
デパートの裏はやや細めの車道を挟んで向こう側は雑居ビルと、駐車場が立っている。裏通りなのと、人通りが少ない時間帯のせいで、野次馬らしき人数は表通りよりは少ないはず──駿は、屋根ギリギリの所まで体を乗り出し、下を見てそう思った。野次馬たちの一部は覗き込む彼を見つけたのだろう、指をさして何かわめいているようだった。
下を確認するのに我慢はしていたが、目も眩むような高さに身体は反射的に怯え、竦んでしまう。駿の足から力が抜け、その場に座り込む様にしゃがんだ。気を抜くと、ふらりと体を虚空へと踊らせてしまうような、強烈な誘惑が待ち構えているようだった。
「……無理だ、こんな高さから飛び降りるなんて」
「でも、そうしないと──」
駿自身のもそうだが、結衣の語尾も震えが来てるのが判る。言葉の勇敢さとは裏腹だった。
いざとなると、身体が拒否している──そう言う未来が確定しているとはいえ、その瞬間まで、生存本能が生きたいと強く願っている。
でも、飛び降りないと、生きられない。
覚悟を決められる1歩は、なかなか踏み出せないでいた。もし、発動に失敗したら──様々な場面が、想定される痛みや苦しみが、まるで過去の事のように駿の中で再現されていた。
まだ、このままの方が……そう思った駿の手に、感触が伝わった。
「……結衣」
「駿、怖いけど……行こう」
「でももし──」
「大丈夫」
……眼鏡越しの結衣の目は、さっきと変わらずどこか儚げで脆くて、無理をしているように、駿には見えた。それでも、何処か、安心できるようにも思えた。
失敗しても、結衣と一緒なら……駿の口元に、笑みが戻ってきた。もし一人だったら……出来なかったに違いない。
駿は、大きく深呼吸した。むせかえるような焼けた臭いと熱を帯びた空気が混じっている中、落ち着かせる。結衣の方も、同じように深呼吸していた。
怖い。でも、そうしないと──その心を抑え、二人の足は屋根ギリギリの所に並んだ。その光景を見た下の野次馬の何人かは、悲鳴を上げて遥かな高さの二人を指さす。
二人は指を絡め、強く、信じあうように握った。
「駿、行こう」
「ああ」
ふわり。
二人の身体は虚空に舞った。
浮揚感の直後、強烈な重力を全身に浴びた二人は手をつなぎつつ地上に向かって急速に速度を上げてゆく。
その光景を見た群衆が更に悲鳴を上げて落ちてくる二人を注視している。
そしてほぼ同時に、新しい爆発が塔屋の下で起こった。
それは想定以上に大きいもので、爆発の衝撃でもろくなったコンクリートが塔屋を支えきれずにぐらりと傾き、幾多の破片を伴いながら重力に引かれて二人の後を追いかけるかのようにその速度を増していった。
それを見た野次馬たちが蜘蛛の子を散らすように大慌てで周囲へと散って行く。
二人はそれに気づいていなかった。
仮に気付いてたとしても、落下中にそれを防ぐ手段などなかった。
駿はまず一つ目のクッションを地上に発生させた。胸元で空気の壁に抗うようにバタついている水晶が淡く光り、野次馬がいない所に風が吹き、空気が固まって見えないクッションを発生させる。
「結衣!」
駿が叫んだあと、結衣が発生させる──しかし、胸元の水晶は光らなかった。
「ノイズが……!」
組み上げた"言葉"は、雪が溶けるように消え去っていった。彼女自身が思うより、影響は大きかった。
一つだけでは、二人の落下速度を吸収できない……駿はとっさに、つないだ手を支点にして結衣をかばうように向かい合った。
「駿!」
「やっぱりこうなる運命だったんだなぁ……」
もうすぐ命が消えるかもしれない……しかし、駿は、満足感が体から溢れそうだった。
時間が無限に引き延ばされてるような感覚に二人はつつまれていた。通過して行く各階の窓が、まるでコマ送りの画面を見るかのように、呆れるほどゆっくりと過ぎてゆく。結衣の髪が、吹き流しのように風にはためいて様々な美しさを見せていた。
「結衣、俺がクッションの代わりになってやる」
「駿!?」
駿は、結衣を抱きしめるように両手で彼女を包み込んだ。
そして耳元で、囁いた。
「さよなら……俺の分まで、生きてくれ」
「……嫌、そんなの……!」
想いが言葉となってこぼれる。結衣は目を見開き、そして、叫んだ。
目の前の、幼馴染という大切な人に。
「そんなの嫌っ!! 駿、自分と生きてよおおおっ!!」
──その言葉は、その想いは、トリガーとなった。
二人の水晶が、同時に光った。
今まで見たこともない位に、強く、明るく。
「「!」」
駿と結衣の頭の中に、突然"言葉"が津波のようにあふれ出した。膨大な符号化された欠片が結合し、集合化され、それが複数もの竜にも似たうねりたちに集約される。それらが洪水のように意識を飲み込み、同時に爆ぜるようにしか聞こえない音を二人の口はそのうねりたちに操られるように唱えた。
二人を中心にした空間が光り始め、光球と化す。それはまるで繭のように二人を包み込み、保護するかのようだった。
と同時に、着地地点に台風か竜巻のような暴風が突如吹き荒れた。道路の埃や砂が舞い上がり、野次馬たちの目を無理やりに閉じさせ、あるいはその風速で範囲外へと押し出してゆく。その風は、落下してくる塔屋を包み込むと、まるで刃で切り刻むかのようにその形を削り、砕き、切断し、次第に小さく、膨大な破片──それは砂粒と呼んでいいほどの小ささ──へと変えていった。
光球に包まれた二人は明らかに落下速度が落ちてゆくように感じていた。ふわりとした、心地よい浮遊感が二人の身体を支配し、安心感を満たせてゆく。
何が起こっているのか、二人にはすぐには理解できていなかった。判るのは、明らかに通常の魔法の帯域を超えた何かが発動している事だけだった。胸元の水晶が、まるで灯台のように目を見開けないほどの強さと明度で輝いている。しかしその光は、何処か柔らかい暖かさを伴っており、恐怖心を感じることは出来なかった。そんな状態の水晶を、駿も、結衣も、見たことはなかった。
浮遊感は、二人には結構長い時間に感じられていた。それはSFなどの重力制御のように、落ちて行く速度を極端に減じさせる。それは仮に東京タワーの天頂部から飛び降りても、指先だけでも着地時のショックを支えられるほどの緩やかさだった。
二人の足元に、接地感が届いた──その瞬間、光球は砕け散るガラスのように細かく、それが雪のように周囲に舞い散り始めた。きらきらと光りながら散ってゆくその光の欠片は、さながら名残雪を彷彿とさせるかのように、舞い散った後儚く空中へとその姿を消していった。
光球だではない。周囲のつむじ風も、一瞬光ったと思いきや細かく砕け、舞い散り、かつて塔屋だった数多の破片類をも巻き込んで溶けるように消えてなくなっていった。
周囲の野次馬たちの目を無理やり閉じさせたつむじ風が消えた後、何事もなかったように広がっている景色。しかし、さっきまであったはずの建物の一部などがきれいさっぱりと消えていたことに目の前の光景が現実か幻か──そのあいまいな境界線に人々は翻弄されていた。
目が覚めてゆく過程を眺めているかのように、二人の目の前には現実感が戻ってきていた。いつの間にか、デパートの裏路地に二人は抱きしめつつ、初めからそこにいたかのように立っていた。
「……え?」
「確か飛び降りてから──」
二人は不審者の如く周囲をきょろきょろと見回して夢かうつつかを確かめている。
野次馬たちは季節が逆戻りしたかのような、現実と幻想が入り混じった光景に心と目を奪われたままの様で、ぽかんとデパートの屋上方向の虚空をただ見上げていた。
二人はそれを見て……今なら、誰も二人を視認している者はいないように思えた。変に見られないうちに、逃げるなら──
「「今だ!!」」
野次馬が少ない方へと向かって二人は駆け出した。外野の間を抜けるクリーンヒットを打ったように、全力で二人は走り、やがてT字路に差し掛かる。その二人の目の前を1台の白い車が通過しようとし──周囲のビルにこだまするかのように急ブレーキの音が響いた。
慌てた二人はたたらを踏んで危うく救急車とお友達になるような事態は避けられた。
「……っぶねっ!」
毒づいた駿が叫ぶ。結衣も同じ感情に染まろうとした矢先、あることに気付いて理性を取り戻した。
「あれ?この車は……」
結衣が自分の記憶層からあの夜の事を思いだした。確か魔法庁の……。
「乗れ!すぐ出るぞ!!」
「御寺さん!?」
少しだけ空いた窓から飛んできた大人の女性の声。
駿もその車の持ち主が誰なのか判ったようで、さっきまでの怒りは何処かへと吹き飛んでいったかのようだった。
「ぐずぐずするな、目撃情報が増えると面倒になる!!」
御寺の声からしても切羽詰まってるようで、結衣は慌てて後席のドアを開け、中へと滑り込む。駿もそれに続き、ろくな確認もせずにドアを閉めた。それを合図に御寺はアクセルを踏み込んだ。一瞬グリップできないタイヤが路面との不協和音を響かせつつ、車はその場から一目散に、逃げるように走り去っていった。
「御寺さん、助かります」
「ありがとうございます……」
声を弾ませた駿に対し、まだわだかまりが残っているのか、結衣は渋々といった面持ちを隠そうともせずに感謝の言葉だけを伝えた。
バックミラー越しに御寺が二人を観察するように視線を投げかける。酷いケガは無いように見えたのか、御寺の口元は緩んだように駿からは見えた。
「……何が起こったか、あとで訊かせてもらうけど、いいか?」
御寺のその声は、とにかく無事に帰ってきたことに対する、二人への彼女なりの感謝だった。
「……いいですけどその前に」
申し訳なさそうな体で駿がおずおずと手を上げる。
「どうした?」
「何か食べさせて。さっきの魔法でもうお腹が空いて空いて……」
それと同時に、後席の方から聞こえて来たのは、空腹を示す腹の虫の合唱だった。駿は少し恥ずかし気に、結衣の方は苦笑いで胡麻化そうとして、明後日の方を向いた。
「わかった。確か食材はあったはずだから、すぐ作ってやる」
それくらいお安い御用とばかりに微笑む御寺の笑顔は、二人が今まで見たことない程の、特上の物だった。
野次馬たちは、まるで夢から覚めた様に気を取り直していった。自分の目で見ていた光景は果たして現実か幻か……その境界上を行ったり来たりしているかのような呆然とした顔をしながらその場に立ち尽くしていた。カメラを持っている者もいたが、撮影を忘れてただその特撮の世界に紛れ込んだような不可思議な光景を見つめていただけだった。
そんな中、唯一、二人の脱出の一部始終を見ていた一人の女子──年の頃は、結衣と同じくらいに見える──がいた。走り去り、やがて車で立ち去る二人の背中を見つめていたその女の子は、初めから興味無さそうにその場から踵を返した。再び街中の雑踏の中へとその姿は埋没し、消えてゆく。
振り向いた瞬間、彼女の胸元には、遠心力で遊ぶように水晶のペンダントが、ふわりと春の光を浴びて光っていた。
翌日の新聞の1面はこのデパートのガス爆発事故がかなりの紙面を割いて伝えられていた。二人が脱出した後に取材ヘリが来たらしく、新聞に掲載された写真は、まるで巨大な怪獣に踏みつぶされたかのように壊され、踏み荒らされ、燃やされ、崩壊した屋上だった。
不思議と死者は出ていなかった。ガス漏れに早めに気付いたおかげか、爆発を起こす前にお客たちや従業員が脱出する時間があったせいかもしれない。爆発の規模に比して、奇跡としか言いようがなかった。
目撃者のインタビュー記事等も載っていたのだが、不思議なことに、二人の魔法が起こした大規模な暴風や突風などの言葉は載っていなかった。それはあまりにも非現実的過ぎて掲載するに能わずと判断されたのか、はたまた誰かが秘かに手を回した結果なのか──そこまでは判らなかった。
記録に残らなかったその事は、やがて年月を経るごとに人々の記憶が薄れ、忘れ去られて行く。まるで、初めから存在しなかったかのように。ただ、忘れられたころに、さながら都市伝説の様にそのことが語られることはあったが、訊いた人たちは誰もそのことをマトモに信じようとはしなかったことは確かだった。
後日、デパートは今回の事故を受けて、8階を中心としたフロアの再建と同時に全館のリニューアル工事に入ることになり、完成は来年の今頃と発表された。
二人の話や、たまたまそこにいた、同じ県内に住むもう一人の術者の証言によって、後年、この魔法の研究が進み、この時二人が起こした魔法は"共振魔法"あるいは"共鳴魔法"と呼ばれることとなる。単独で発動するよりも遥かに広大な帯域が使われ、この時発生したエネルギーは単独時の数十倍から数万倍になると計算された。
古文書に書かれていた、山体崩壊から村を守ったほどのレベルだとさらにそこから数百万倍かそれ以上の出力が発揮されたと思われ、計算した職員が最初、その数値はおかしい、計算違いをしたのかと思ったほどだった。それは地形を書き換えられるほどの物だったのだから。
魔法庁の非公開文書中には、"共振魔法"あるいは"共鳴魔法"と書かれることになったが、駿と結衣は、この魔法を"ちいさな魔法"とこの後も言い続けることになる。古文書にも記述があったことでもあるが、お役所っぽい固い言葉よりも、こっちの方が二人には合ってる感じがしたからだ。
二人の想いが起こす、そんな小さな魔法だから、と……。
──そして暦は、新しい年度が始まることを告げた。




